1.迫害の中にある信徒たちへの手紙
・今日はペテロの手紙を読みます。ペテロはローマから、アジア州に住む信徒たちに手紙を書きました。彼らが迫害の中にあって苦しんでいたからです。異教社会の中でキリスト者になることは、時には、地域共同体から孤立し、苦難を受けることを意味します。信仰者の生き方は世の人々と異なるからです。ペテロの手紙には苦難を推測させる言葉があちこちにあります。キリストを信じたばかりに、信徒たちに苦難が降りかかってきた。その信徒を励ますために、ペテロは手紙を書きました。今日は手紙の1章から、その励ましの言葉を聞いていきます。
・1章13節でペテロは言います「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れる時に与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」。今は苦しみがあなた方を覆い、その苦しみがいつまでも続くように思えるかもしれないが、苦しみは必ず終わる。主イエス・キリストが来て下さる。その時まで忍耐しなさいとペテロは言います。彼らの多くは、以前は異教徒でした。異教徒なりの希望を持ち、生活を楽しんでいました。しかしイエス・キリストに出会って、この世の希望や楽しみは空しいものでしかない事を知りました。もう過去の空しい生活に戻ってはいけないとペテロは勧めます「無知であったころの欲望に引きずられてはいけない」(1:14)と。
・「無知であったころの欲望」、この世は欺瞞に満ちています。今、日本では事故米(汚染米)の食用流通が問題になっていますが、事故米を食用として出荷した三笠フーズの原価は9円/�といわれています。それが最終段階では370円/�になった。正常米の価格が250円/�ですから、いつの間にか事故米の価格が正常米を上回った。数社の中間業者が間に入り、それぞれの利益を上乗せしたからです。ここには不正と飽くなき利益追求があります。同じ問題が米だけではなく、食肉、魚、野菜等多くの分野に生じています。このような不正は現代日本だけではなく、古代イスラエルにもありました。アモス書に次のような記述があります「麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」(アモス8:5-6)。自然のままの、神に出会う前の人間の本質は悪なのです。「しかし、あなた方はこの世の価値観という偶像から解放され、今は神の子にしていただいた」とペテロは述べます。「だから神の子にふさわしく生きなさい。召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(1:15)。聖なる者となる、神に従って生きると言う意味です。
・「神はあなた方のために御子キリストを遣わし、十字架で贖いをしてくださった。あなた方が神の子と呼ばれるに至ったのは、キリストの尊い犠牲があったからだ」とペテロは言います(1:18-19)。この神はキリストを死者の中から復活させてくださった。だから私たちも永遠の命を希望することが出来るようになった。その私たちの信仰と希望は神にかかっている。そして神の言葉は永久に変わることがないとペテロは言います。それが23節以下の部分です「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない』」(1:24-25a)。世の言葉、人の約束はすぐに変わる。しかし、神の言葉、神の約束は変わることがない。そしてペテロは言います「これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」(1:25b)。
2.その背後には慰めの福音がある
・ペテロの手紙1:24−25に引用されている「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」はイザヤ40章6−8節の言葉です。イザヤ40章の背景にあるのは、バビロン捕囚です。紀元前587年、ユダヤはバビロニアに国を滅ぼされ、指導者たちはバビロンに捕虜として囚われました。その亡国の民に、エレミヤやエゼキエル等の預言者が立てられ、神の言葉を伝えました「あなた方は罪を犯した故に裁きを受けたが、悔改めれば、神はあなたたちの罪を赦し、再びエルサレムに戻して下さる」。それから50年の年月が流れましたが、言葉は実現しませんでした。エルサレムは既に廃墟となり、最初に連れて来られた民の大半は死に、今は二世、三世の時代になっています。人々はエルサレムへの帰還をあきらめ、何とかこの異郷の地で生きようと懸命でした。そのような中で、「解放の時が来た」という神の言葉が預言者に与えられます。
・預言者もエルサレム帰還の夢はとっくに失くしていました。今さら、「エルサレムに帰る時が来た」と言われてもとまどうばかりです。預言者は神に言い返します「呼びかけよ、と声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのか、と」(イザヤ40:6)。民に何を言えば良いのですか、彼らは既に希望を無くしています。それは主よ、あなたのせいです「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ」(40:7)。主よ、あなたが彼らを砕かれた。あなたがエルサレムを廃墟にされ、民を遠い異郷の地まで連れて来られた。そして50年間、あなたは私たちを放置された。その民に、今さら、何を語れと言われるのか。神の沈黙ほど信仰者にとって、恐ろしいものはありません。しかも50年間の沈黙です。そのような預言者の不信をねじ伏せて神は言葉を語らせます。それが「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)と言う言葉です。
・罪を犯したイスラエルの民は砕かれました。それは国の滅亡と異国への捕囚という苦難でした。しかしこの苦難がイスラエルを変えました。神は何故、選ばれた私たちを捨てられたのか、彼らは父祖からの伝承を読み直し、まとめ直し、旧約聖書の主要部分は捕囚時代に編集されました。そしてイスラエルの民は主の言葉に生きる者となりました。アッシリアは滅び、バビロンは滅び、ペルシャもギリシャもローマも滅んで生きました。その中でユダヤ人だけは滅びませんでした。主の言葉に依り頼んだゆえです。だからペテロは苦難に苦しむ信徒に書き送ります「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:6-7)。イスラエルが捕囚という苦難を通して聖化されたように、この苦難はあなた方をも聖化するのだとペテロは励まします。
3.主の言葉に立つ生活への招き
・キリスト者に降りかかる火のような試練、それは私たちにも降りかかってくるのでしょうか。今日の招詞にイザヤ10:12を選びました。次のような言葉です。「主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる」。
・イザヤ10章の背景にあるのはアッシリアへの裁きです。アッシリアは紀元前8世紀には世界帝国となり、パレスチナの諸国を次々に征服しました。それは神が不信のイスラエルを打つ「鞭」としてアッシリアを用いられたからだとイザヤは言います。ところがアッシリアは神の委託を超えて、自分が主人であるように振舞い始め、私の前には敵はいない、私こそ神であると驕り始めたのです。ここに至って主はアッシリアを撃つことを決意されたとイザヤは預言します。その預言が今日の招詞の言葉です。事件は前701年に起こりました。エルサレムを包囲するアッシリア軍内に疫病が発生し、数十万人の兵が死に、アッシリアは軍を引き揚げます。歴史的にはアッシリアはこのごろから勢力を弱め、やがて滅びました。
・このアッシリアへの裁きの預言を、無教会キリスト者の信仰に立つ矢内原忠雄は、中国への侵略をやめない日本軍国主義への神の言葉と聞いて、それを「国家の理想」(1937年)としてまとめて、中央公論に発表しました。「国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びる」。日本は中国を懲らしめるための神の鞭、アッシリアに過ぎないのに、いつの間にか自分が神のように振舞い始めている。1931年満州を占領した日本は、1937年7月には盧溝橋事件を起こして、中国本土を征服しようとしました。この事件を受けて矢内原は「国家の理想」を書いたのです。雑誌は処分を受け、矢内原の論文は全文削除となりました。この論文が契機になり、矢内原は東大教授の職を追われました。
・これは矢内原忠雄のような偉人だから出来たのであって、私たちには無縁の出来事なのでしょうか。矢内原は言います「バビロン捕囚を経てイスラエルの信仰が霊的になったように、日本もこの時局を経て飛躍することができるでしょう。それができなければ駄目だし、駄目ならば、日本は神の選民ではない、ということがわかる。これは必ずできるだろうと思うのです。しかしそれを実行するのは、我々神の真理を教えられたキリスト者の任務であるわけです」。矢内原のしたことは、神の命じることであったのです。初代教会の信徒は、「偶像を拝むな」という神の言葉を聴いて、皇帝を拝むことを拒否し、その結果多くの者が殺されていきました。日本の植民地だった朝鮮の人々は、人間である天皇を拝まないとして神社参拝を拒否し、囚われていきました。
・何故彼らはこのような行為をしたのでしょうか。キリストに従うためです。ペテロは迫害に苦しむ信徒に書きました「(キリストは)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(2:24)。キリストに従いたいと願った人々は、行為を通してこの世で損をしていった。この世で損をすることを通して、彼らは神から平安をいただいた。「キリスト者に降りかかる火のような試練」は、私たちにも来るかもしれません。しかし、来ても良いではないかとペテロは言います。「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです(4:12-13)。「神の言葉に立つ」、御言葉を生活の中で生きる、その時本当の平安が与えられる。そのような生き方に招かれていることを今日は覚えたいと思います。