江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年6月21日葛西集会説教(マタイ20:1−16、天国の門は最後まで開かれている)

投稿日:2008年6月21日 更新日:

1.少なく働いた者を憐れまれる主

・マタイ福音書の中で有名なたとえ話の一つが、20章にあります「ぶどう園の労働者」のたとえです。次のような話です。「ぶどう園の主人が夜明けに出かけて行き、一日1デナリの約束で労働者をぶどう園に送った。9時ごろに行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、ぶどう園に送った。12時、3時にも同じようにした。5時ごろにいくとほかの人々が立っていたので、またぶどう園に送った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に賃金を払わせた。5時に雇われた人たちは1デナリを受け取った。最初に雇われた人たちはもっと多くもらえるだろうと思っていたが、1デナリだったので、主人に不平を言った。だが主人は『不当なことはしていない。最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ』と言った」という話です。先日、神学校の聖書解釈学の授業でこの部分を共に読みながら、学生の皆さんと議論をしました。そして感じましたことは、この話はどこに視点を置くかで印象がまるで異なることです。
・最初の視点は公平、あるいは平等の概念です。現代社会でもっとも尊ばれるのは、この公平と平等でしょう。全ての人に門戸を開き、能力のある人、頑張った人は多くもらい、そうでない人は少ししかもらわないシステムです。能力のある人、頑張った人は成功し、社会の尊敬を集める。この視点で見ると、12時間働いた人たちの不平、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(20:17)は当然です。働いた成果によって評価されるのが、この社会の約束です。大リーグで活躍する松坂選手が高給をもらってもだれも非難しません。彼らは自らの能力と努力によりその地位を築いたからです。
・他方、全ての人に門戸が開かれていても、全ての人が成功するわけではなく、失敗者はこの世で冷たい扱いを受ける現実があります。負けた人に限りなく暖かい目を注ぐ主人(原語ではキュリオス=主となっており、神を暗示しています)に、私たちは共感します。私たちの社会は決して公平ではないからです。同じ労働をしても、正社員と派遣労働者では給与も待遇もまるで異なる。学校を出て大きな企業や役所に勤めることの出来なかった人は、派遣やアルバイトで働くしかなく、非正規労働では家族を養うだけの所得を得ることが不可能な世になっています。18歳あるいは22歳で有利な選択が出来なかった人は生涯、壁の外側で生きるしかない、これはおかしいとみんなが感じています。
・先日起きた秋葉原の無差別殺傷事件の犯人は派遣労働者として「もののような扱いを受けていた」と告白しています。正社員の人事を行うのは人事部ですが、派遣労働は調達部が担当していました。まるで部品のように、です。また本人が事件を起こしたきっかけは、勤務先から派遣契約を中途解約される予定を知らされたことにあるとも言われています。働きたい人は、正社員になれて、定時の仕事だけで生活できる社会にしなければ、このような事件はまた起きるかも知れません。また壁の中、幸運にも正社員になった人も過重労働の中であえいでいます。人員削減により、夜の10時,11時まで仕事を強いられ、耐えられない人はうつ病になったり、仕事をやめたりしています。誰も幸せになっていないではないかと聖書は告発します。
・主人は何故1時間しか働かない人に、1デナリを支払ったのでしょうか。それは1デナリがないと今日のパンが食べられないからです。今日食べないと明日は働けない。5時から働いた人は怠けて1時間しか働かなかったのではなく、他の人たちと一緒に職を求めて朝から広場にいたのです。しかし、体力がないと見られたのか、あるいは労働に向かないと見られたのか、6時にも9時にも12時にも雇ってもらえなかった。父なる神は、この人々の悲しさを知って彼らを12時間働いた人と同じに待遇して下さったのです。

2.悪い目=罪を知らせるために行動される主

・この主人の慈しみが人間をつまずかせます。丸一日働いた人たちは文句を言います。それに対して主人は言います「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それとも私が気前よくしているので、ねたましく思うのか」(20:15)。ねたむと訳された言葉は原語では「悪い目」です(英語ではevil eyeと訳されています)。自分の財産や権利を守るために私たちが自分の周りに張り巡らしてしまう視線のことです。最初の労働者はこの世的な公平を求め、1時間労働者の賃金が12分の1デナリであれば満足したことでしょう。その結果、1時間労働者が今日生きるためのパンを買うことが出来なくとも、それは彼等の関知するところではない。この悪い目、自分の満足のためであれば他人のことを考慮しない悪い目こそ、神が忌み嫌うものです。この話は不思議です。12時間働いた人から支払いを始めれば混乱は起きなかった。1時間労働者が支払いを受ける時には、12時間労働者はもういないからです。しかし、主人=神は人の心の中にある、この「悪い目」を明らかにするために、あえて1時間しか働かなかった人から賃金の支払いを始められました。
・この世は働けない者の悲しさや苦しさは考慮しません。生産性に何の寄与もしていないからです。この世の価値観は能力主義あるいは業績主義であり、社会は労働能力の劣ったものを「役立たず」として捨てます。しかし、私たちがある人々を「役立たず」として捨てる時、実は私たち自身を捨てています。何故なら、私たちもいつかは、無能力者になるからです。病気になるかもしれない。勤め先が倒産し、収入がなくなくなるかも知れない。年をとれば身体的・精神的能力は衰えます。他人に起こった不幸は自分にも起こります。能力主義の社会では私たちは何時敗者になるかわかりません。勝ち組も遅かれ早かれ負け組になります。そこには平安がないではないか、だから私はあなたがたがそれを知るためにあえて混乱を起こしたのだと神は言われているようです。

3.天国の門は最後まで開かれている

・私たちはこの物語が教会に対しても語られていることを知っています。12時間働いた人とは直接的にはパリサイ人や律法学者を指すのでしょう。自分たちは律法を守り、正しい生活をしているから救われて当然だと思う人々です。他方、1時間労働の人とは、罪人として排斥されていた徴税人や娼婦を指すのでしょう。イエスはパリサイ人や律法学者に言われました「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(マタイ21:31-32)。「あなたたちより先に神の国に入るだろう」、パリサイ人や律法学者は彼らの持つ「悪い目」、罪を悔改めないゆえに、天国の門は閉ざされているとイエスは断言されました。
・この物語は「後にいる者が先になり、先にいる者は後になる」(20:16)と言う言葉で閉じられています。教会の中で罪人と思われる人々を排除し始めたら、私たちもまた最後の者にされるのです。マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」、この悲しみを知るために、私たちにも試練や困難が与えられます。そしてそのような私たちにも「同じように払ってやりたい」という神の言葉を聴いて、私たちは悔改めます。
・私たちは競争社会の中で、人と人とを比較することが当たり前と言う社会に生きています。そして、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしています。逆に、ある場合は「自分は何もできないからダメだ」と落ち込んでしまうこともあります。今日の福音は、そういうところから私たちを解放し、もっと豊かな生き方へと私たちを招いているのではないでしょうか。
・教会はこの福音を伝える場所です。秋葉原事件の犯人は25歳でした。25歳で、「将来はない、道は閉ざされている」と感じる人々がいることに、私たちは衝撃を受けます。マタイ20章の物語は、30歳でも、40歳でも、また70歳でも80歳でも、常に門は開かれていることを私たちに告げます。朝6時に雇われた人ばかりでなく、9時に雇われた人も、12時に雇われた人も、更には夕方の5時に雇われた人さえにも、主は祝福してくださる。私たちの教会は今度水口仁平協力牧師を招聘しました。60歳から学びを始めて、80歳で神学校を卒業された方です。門は開かれている、水口先生の協力牧師就任は、まさにマタイ20章の記事が真実であることを伝えているように思います。

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