江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年6月15日主日礼拝説教(ヨハネ第一の手紙 2:18-27、教会分裂をどのように受け止めるか)

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1.教会から去っていった人々をどう理解するか

・私たちはヨハネの手紙を連続して読んでいます。手紙の主題は「教会分裂」です。ヨハネの教会では異なる福音を信じる人々が教会を混乱させ、分裂させ、出て行きました。残された人々は混乱の中にあります。昨日まで一緒に礼拝していた人々が、今日はいなくなったのです。教会の一致が崩れる、教会内で争いが起こり、分裂していく出来事が現実に起こります。それはヨハネの教会で起こったし、私たちの教会でも起こり、近隣の教会で今も起きている出来事です。このような事態に私たちはどう対処したらよいのか、今日はヨハネの手紙2章後半を読んでいきます。
・ヨハネは出来事の意味を終末論的に述べます「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります」(2:18)。世の終わりには反キリストが現れることは、聖書で繰り返し預言されています(マタイ24:23-24他)。最後の審判の時に正しい者たちを惑わすために偽メシアや偽預言者が現れると預言された通り、今、反キリストが現れた、私たちから去っていった人々がそうなのだとヨハネは断言します。
・何故なら「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」(2:22)。教会から去っていった人々は、グノーシス的な考えを持つ人々でした。彼らは「神の子が人となり、私たちのために死なれた」とは考えずに、「イエスがバプテスマを受けた時に神の霊がイエスに降り、イエスが十字架で死なれる前に神の霊は天に帰った」とします。歴史上のイエスが神の子、キリストであることを否定するのです。イエスの受肉を否定しますので、神が人として来てくださった事に対する感動はなくなります。イエスの受難を否定しますので、受難を通しての贖いに対する感謝もなくなります。「イエスこそがキリストである」という信仰の基本を否定するグノーシスの人々は、もはや同じ信仰を持つ者ではない。彼らは信仰からそれてしまった。だからヨハネは言います「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとに留まっていたでしょう。しかし去って行き、だれも私たちの仲間ではないことが明らかになりました」(2:19)。

2.教会から去っていった人々を排斥するな

・イエス・キリストの福音を聞き、信仰を告白し、バプテスマを受け、共に聖餐に預かった人々が教会を出て行きました。何故、キリストを頭とする教会でこのような分裂が起こるのか。彼らは間違っているのか、あるいは私たちに問題があったのか。教会分裂は信徒に大きな戸惑いと迷いを与えます。このヨハネ教会の出来事は今年3月に私たちの教会に起きた舞浜伝道所分離問題を思い起こさせます。舞浜伝道所は20年前の1988年に当教会を母教会として開設されました。最初の10年間は米国人のスミス宣教師が、後半の10年間は韓国の羅先生を中心に開拓伝道が行われ、私たちも母教会としてできる範囲の支援を行ってきました。しかし、羅先生が2008年3月に伝道所牧師を辞任されると、羅先生を慕う信徒の方たちが牧師と一緒にホームチャーチを設立され、私たちの教会から分離して行かれました。
・舞浜伝道所では信徒の方が提供する個人住宅を教会堂兼住宅として使用いましたが、事情によりその場所が使えなくなり、新しい教会堂や牧師館を準備することも財政的に難しく、困難を抱えていたのは事実です。しかし、何故、私たちの教会から離脱しなければいけないのか。おそらく、日本と韓国の教会観の違いがあるのでしょう。日韓伝道比較という文書の中に次のような記事がありました「韓国人文化において儒教道徳の影響が強く、教会においても牧師を頂点にし、“牧師→長老→執事→平信徒”の序列があります。中には“主の僕(牧師)には従順になりなさい”と牧師に絶対的従順を求める教会もあります」。日本人牧師は教会が行き詰ったら、群れを次の牧師に委ねて教会を去ります。韓国人の場合は、教会が行き詰ったら、群れを新しい牧草地に導くべきだと考えるのでしょう。考え方が違うのです。
・ヨハネ教会の人たちも、人々が何故教会を出て行ったのか、信仰の形に違いはあっても一緒に礼拝が守れたのではないかと考えたことでしょう。しかし、ヨハネはそうではないと言います「彼らはもともと仲間ではなかった」のだ。非常に冷たい言い方のように響きますが、「そうとしか思えないではないか」とヨハネは言います。「 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子が私たちに約束された約束、永遠の命です」(2:23-25)。私たちは御子を通して神とつながる、その御子を否定する信仰はもはや真理の中にないのだとヨハネは言います。
・教会の頭はキリストであるという私たちの信仰からすれば、伝道所の今後を主に委ねなかった舞浜伝道所の方々が取られた行為は間違っていると思いますが、しかし非難したくはありません。ヨハネも出て行った人々の信仰は間違っていたと言いますが、だから排斥せよとは言いません。彼らは自ら出て行った、彼らのことは主に委ね、私たちは御子の中に留まろうと呼びかけます「いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」(2:27)。

3.あなたがたは御子の内に留まりなさい

・マタイ福音書に毒麦の例えが有ります。この例えの中に、異なる信仰の人々とどうかかわるべきかの示唆に富む箇所があります。今日の招詞として選びましたマタイ13:29-30の言葉です。「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈入れの時、まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさいと、刈取る者に言いつけよう』」。
・イエスは神の国のたとえとして、この毒麦の例えを話されました。ある人が良い種を畑に蒔いたのに、敵が来て麦畑のなかに毒麦を蒔いていった。その結果、収穫の時に、毒麦も一緒に芽を出した。従者たちはこの毒麦を抜きましょうと言いますが、イエスは「刈入れまでそのままにしておきなさい」と言われます。イエスの時代、多くの人々は、自分たちが毒麦と考える人たちを抜こうとしていました。パリサイ人は律法を守らない人たちを罪人として断罪し、エッセネ派と呼ばれた人たちは世の穢れの染まった人々と縁を断とうとしていました。いずれも自分たちは良い麦であり、異なる者を毒麦として排除しようとしていました。イエスは彼らを批判し、改めさせるためにこの例えを語られたと思われます。
・マタイはイエスが話された毒麦の例えを教会内の出来事に適用させるために、話を拡大させています。37節以降はイエスの言葉というよりも、マタイの編集記事でしょう「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」(マタイ13:37-38)。「人の子が種を蒔いた」、イエスの宣教により多くの者が教会に招かれてきた。しかし、その教会の中に良い麦と毒麦が混在している。イエスの宣教から50年を経たマタイの教会の中に、自分たちは正しいとして考えの異なる教会員を排除する人々がいたのでしょう。マタイはそのような人々に、イエスの言葉を受けて、誰が良い麦で誰が毒麦かを裁くのは神であり、人間がそれを行えば教会は壊れるとのメッセージを送っているのです。
・教会の中に何故悪があるのか、私たちには分かりません。しかしあるのは事実です。教会内の悪を追求した人がアウグスティヌスです。彼は言います「誰が毒麦で誰が良い麦であるかは私たちにはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。私たち各自のうちに毒麦と良い麦が共存しているともいえる。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくように」。教会内の毒麦的なものはただ否定されるべきものではなく、その責任を引き受けていくのが、教会に生きる私たちの課題だと説きます。信仰の弱い信徒がいればそれを助け、信仰の異なる信徒がいればそれに耐えて、自分たちの信仰を清め強めていく。そのためにあるものとして教会の中の悪を理解します。彼は言います「神は悪をも善用されるほどに全能であり、善なる方である」と。裁きはこの神に任せよと。
・刈取られる方は神であり、私たちではありません。私たちは教会の中に罪があることを認めます。それを認めた上で、除去は主に委ねます。もし、私たちが自分は正しいとして、毒麦と思えるものを抜こうとする時、私たちが毒麦になっていき、教会は崩壊する。自分の中にも毒麦があることを知った人が共に教会形成を目指す時、その教会から毒麦が除かれるのではないかと思います。
・だからヨハネも言います「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」。それは、御子が教えてくださった生き方を生きることです。御子が私たちを愛して下さったから私たちも愛し合っていく。御子が私たちのために死んで下さったから私たちも友のために命を捨てていく。毒麦を抜く、誰が異端で誰が正しいかを議論するのではなく、あなたは御子に従いなさいと言います。その箇所がヨハネ3:16-18の言葉です。宝石のようなこの言葉を読んで、今日は終わりたいと思います「イエスは、私たちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内に留まるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。

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