江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年4月20日礼拝説教(ヨハネ15:18-27、弟子として生きる)

投稿日:2008年4月20日 更新日:

1.教会を離れる者が出て動揺する人々へのメッセージ

・クリスマス以降、ヨハネ福音書を読んできました。復活節第五主日である今日、ヨハネ福音書の学びに一つの区切りをつけ、次週からはペンテコステ準備のために使徒言行録を読んでいく予定です。さて、今日、ヨハネ福音書の最後としてヨハネ15章を選びましたのは、この箇所にまさにヨハネのヨハネたるところが現れていると思ったからです。これまでヨハネ福音書を読んで教えられましたことは、ヨハネは弟子たちに語られるイエスの言葉を、同時に苦闘の中にあるヨハネの教会員にも語っていることです。ヨハネ15章も同じ構造の中にあります。
・ヨハネは14章で最後の晩餐を終えられた後のイエスの言葉を伝えています「さあ、立て。ここから出かけよう」(14:31)。そしてイエスと弟子たちはゲッセマネの園に向かわれます。それがヨハネ18:1です「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」。14章は18章に連続しており、15章から17章は編集者(おそらくは使徒ヨハネの弟子である長老ヨハネ)の挿入です。この挿入された3つの章において、ヨハネはイエスの言葉を用いて、自分たちの教会に対してメッセージを送っています。
・イエス復活後、イエスを救い主として宣教した弟子たちは、ユダヤ教から迫害を受けました。弟子たちは逮捕され投獄され、エルサレムから追放されました。しかし、このような迫害はユダヤ教内部での迫害でした。間違った教えを奉じる者たちを懲罰し、正しいユダヤ教に復帰させるための処置です。ところが、70年のエルサレム神殿崩壊後、状況が変わります。ユダヤ戦争で勝利者となったローマ軍はエルサレム神殿を破壊し、ユダヤ人をエルサレムから追放しました。エルサレム神殿を中心とした祭儀宗教であったユダヤ教は壊滅的な打撃を受け、その後のユダヤ教を再建したのはファリサイ派の律法学者たちでした。彼らは、民の律法違反が亡国の悲運を招いたとして、厳格な律法への忠誠を求めるようになります。その一つとして、背教者と異端を会堂から追放する事を決定します。その結果、キリスト教徒は異端として激しい迫害を受けるようになったのです。ヨハネ16章2節はその事情を反映した記述です「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。キリスト教徒は捕らえられ、殺され、社会から排除される時代が始まり、この迫害の中で、ヨハネの教会では多くの信徒が脱落して行きました。
・動揺する信徒たちにヨハネはイエスの言葉を伝えます。それが15章から始まる言葉です。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:1-2)。「私はまことのぶどうの木」、私たちはイエスにつながっていることによって本当に生きる。イエスが幹であり、私たちは枝なのだ、枝は幹なしでは生きていけない。「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」、果樹の栽培においては剪定が不可欠であり、実を結ばない枝は切り落とされる。ユダヤ教からの迫害は父なる神がなされる剪定作業なのだ、その剪定を通して、御霊の実を結ぶのに妨げになる世の思い煩いや欲望がそがれ、より豊かな実を結ぶようになるのだとヨハネは言っているのです。
・ヨハネは何故、教会が迫害されるのかを15章後半で説明しています「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい」(15:18)。ヨハネの教会は今、対立する外部の勢力から激しい憎悪を受けています。ヨハネはその勢力を「世」と呼びます。「世」はイエスを憎み、イエスを十字架につけた。だから「世」がイエスに従うあなたたちを迫害するのは当然なのだとヨハネは言います。ヨハネは続けます「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから世はあなたがたを憎むのである」(15:19)。世に属する、ユダヤ教会の中に留まることです。あなたがたはイエスによって、ユダヤ教の枠の外に引き出され、今はキリストの教会に所属する者となった、だからユダヤ教指導者たちは、あなた方を憎むのだとヨハネは言います。

2.会堂から追放される恐怖がそこにあった

・ヨハネ福音書においては、会堂から追放されることを恐れて、人々が自分の信仰を隠したことが記述されています。「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(12:42-43)。またアリマタヤのヨセフも、イエスの生前にはユダヤ人をはばかってその信仰を明らかにしなかったとヨハネは記します(19:38参照)。
・会堂から追放されるとは、当時の社会においては、生活共同体から排斥されることです。共同体から排斥されることがどのような意味を持つのか、日本においても同じような経験をされた人々がいます。戦争中に弾圧されたホーリネス教会の牧師家族たちの証言が残っています。「静岡草深教会の牧師を長く務めた辻宣道先生はホーリネス教会の弾圧で牧師であった父親を亡くされました。ホーリネスの方々は第二次世界大戦中に、『天皇が神なのではなくて、イエスこそ主である』と告白してやまなかったために時の政府によって弾圧されました。牧師は逮捕、教会は解散、上部団体の日本基督教団からは『あの人たちはキリスト教ではない』と見捨てられた人たちであります。当時、中学二年だった宣道少年は、父親が刑務所に入れられ、家族が食うや食わずの生活を送っていた時、母親に言われて、教会の役員だった人のところにカボチャを分けてもらいに行くと、「お宅に分けてやるカボチャはない」との言葉が返ってきたそうです。この人は以前、伝道集会では真っ先に証しをして、みんなの尊敬を集めている人でもありました。先生は後に、「人間いざとなれば信仰もヘッタクレもなくなるんだなあと思いました。調子のいい時だけ熱心という人が多かったのではないか」と語っておられます」(日本基督教団新宿コミュニティー伝道所2004年8月1日説教より)。会堂から追放されるとは生死にかかわる問題だったのです。
・そして、これと同じ状況が現代でもあるのではないかと思います。隅谷三喜男著「日本の信徒の神学」を読みました。著者は、韓国ではキリスト信徒は1300万人、中国でも1000万人以上いると推定されているのに、日本のキリスト教徒は人口の1%、100万人にも満たないのはなぜかを追及されます。著者が問題にするのは、男性は信徒になっても「卒業」していき、女性だけが残るという日本教会の独特の構造です。著者は言います「男性は青年時代にいろいろな悩みを抱えて教会を訪ね、そこで同じ学生仲間と交流し洗礼を受ける。しかし学校を卒業すると、半分近くの学生は教会から足が遠のく。異教社会の中で、学校を出て3−4年も経つと、社会の伝統的な生活様式に中に埋もれてしまう人が多い。男性は信仰を頭で理解し受け止めているので、社会生活の中で摩擦が起きれば簡単に信仰から離れてしまう。それに対して女性は心の中で信仰を受け止めるため、信徒として止まる人が多い。その結果、教会からは男性がいなくなり、女性信徒が中心の構図になっている」。
・ヨハネの教会では多くの人がイエスを信じバプテスマを受けましたが、ひとたび、教会がユダヤ教正統派から異端宣告を受けると、多くの者が脱落していきました。本当にイエスに結びついていなかったからです。今日の日本においても、多くのクリスチャンが脱落し、あるいは自分が信仰者であることを公にしない隠れクリスチャンになっています。「男性は信仰を頭で理解し受け止めているので、社会生活の中で摩擦が起きれば簡単に信仰から離れてしまう」からです。ヨハネ教会の置かれた状況は、私たちの教会が置かれた状況でもあるのです。だからヨハネの言葉は私たちに響いてきます。

3.イエスの励ましを受けて立ち上がる

・今日の招詞として、ヨハネ16:33を選びました。次のような言葉です「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。平和、あるいは平安とは悩みのないことではありません。悩みの中でも満たされていることです。イエスを信じても、不幸や災いがなくなるわけではありません。病気は治らないかも知れないし、悩みは依然としてあります。しかし、キリストを知る人は、悩みによって打撃を受けても、やがて立ち直り、悩みが時間の経過と共に恵みになる経験をします。キリスト者の悩みは有限な、暫くのものなのです。何故ならば、十字架の悲しみが、復活の喜びになったことを知っているからです。
・この世は弱肉強食の世界です。世が求めるのは、どういう功績を挙げたか、どのような結果を出したかです。それに対して、聖書は、「自分を捨てて仕えなさい」と教えます。結果ではなく、何をしようとしたかが問われます。神を神として生きる時、世の権威や権力は相対化されていきます。信仰に生きる建設会社の社員は談合を拒否し、食品会社の社員は食品偽装を内部告発するようになるでしょう。その時、「世は彼を憎みます」。また私たちにとって、隣人を愛するとは社会の中の弱者を愛することになります。信仰者の教師は、成績の良い学生を一流大学に送り込むことよりも、不登校や落ちこぼれの学生の世話に奔走するでしょう。その時、学校の偏差値を上げることを至上命題とする学校側の評価は下がります。信仰を生活の中で実践しようとすると多くの障害にぶつかります。そして、多くの人は信仰を捨て、教会から離れていきます。
・しかしヨハネは言います。「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この言葉こそ、十字架で逃げ去った弟子たちを再び立ち上がらせた言葉であり、今日の私たちを立ち上がらせる力です。弟子たちの経験が教えるものは、イエスの説教を聞いて涙を流しても、病のいやしを見て感動しても、人はキリストの弟子にはなれないということです。自らが生活の中で苦しみ、その苦しみの中に、イエスの声を聞く体験をしなければ、救いは生まれません。ヨハネは言います「あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」(15:8)。弟子になるとは、世の価値観と違う価値観に生きることであり、必然的に世と対立することになります。しかし、その私たちをキリストは励まされます「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この励ましの声を受けて、私たちはこの世を生き、この世に仕えて生きます。それが弟子として生きることです。

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