江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年6月29日説教(ヨハネ第一の手紙 2:28-3:18、キリストの内にとどまる)

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1.キリストの内にとどまる

・私たちは礼拝でヨハネの手紙を読み続けています。今回が4回目です。ヨハネの教会では、異なる信仰を持つ人々が、教会を分裂させて、出て行きました。後にグノーシスと呼ばれるようになった異端的な考え方を持つ人々ですが、彼らはナザレのイエスが神の子として来られたことを否定し、イエスの十字架によって私たちの罪が贖われたことさえも否定しました。もう彼らは「信仰の友ではない」とヨハネははっきり言います(2:19)。そして、ヨハネは残された教会の信徒に、「あなたがたは教えられた通り、御子の内にとどまりなさい」と命じます(2:27)。御子の内にとどまる、キリストの内にとどまるということです。それは具体的にはどのようなことなのでしょうか、それをヨハネは2章28節以下で説明します。
・ヨハネは言います「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません」(2:28)。私たちはこの世の生を終えた後、最後の審判を受けます。その審判の基準は、私たちがこの世で御子に命じられたような生き方をしたかどうかです。御子が命じられた生き方とは、愛し合って生きること、です。イエスは最後の晩餐の席上で弟子たちに遺言を残されました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12−13)。愛し合うとは、究極的には、「友のために自分の命を捨てることだ」とイエスは言われました。
・ヨハネは教会への手紙の中でそれを次のように言い換えます「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」(3:16)。「あなたは兄弟のために命を捨てる覚悟があるか、あればあなたは救われており、なければ救いの外にある」、非常に厳しい問いかけがここになされています。「兄弟のために命を捨てる」、そんなことは出来ないと私たちは思います。しかし、ヨハネは「出来るのだ。あなたがたは神の子とされているではないか」と励まします。
・人間の愛の真実を典型的に示すのが、創世記のアダムとエバの物語でしょう。人を創造された神は、相応しい助け手としてエバを造られました。アダムはエバを見て言います「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」(創世記2:23)。人は妻を自分の分身として、いとおしみ、愛しました。しかし、そのエバが罪を犯し、そのためにアダムが神から責められた時、アダムは言います「私と一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、私は食べたのです」(創世記3:12、口語訳)。「私の骨の骨、肉の肉」と呼んだ、愛する者が、ここでは「あの女」になっています。人が人を愛するとはこのようなものだと聖書は語ります。人間の愛は、ギブアンドテイクの愛であり、自分にとって都合の良い時は愛するが、都合が悪くなれば平気でこれを捨てる。しかしヨハネは、神の愛に触れて変えられた人間は、そのような人間の本性を越えて、兄弟を愛することが出来ると証言します。
・ヨハネは言います「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」(3:9)。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」、キリスト者は罪を犯さないと言っているのではありません。ヨハネは前に記しました「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません・・・罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません」(1:8-10)。キリスト者も罪を犯すのです。それでは何故「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」とヨハネは言うのでしょうか。
・私たちが神の子であるということは、現実の私たちが立派であると言う意味ではありません。ヤコブは指摘します「私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです」(ヤコブ3:9-10)。私たちは相変わらず罪の存在です。とても神の子とはいえない。もかかわらず、私たちは神の子と呼ばれ、そのような者として生きることが求められています。それは私たちの中に「神の種」が、聖霊が与えられ、自分の中にある罪と戦うからです。キリスト者と非キリスト者の違いは一つです。同じく罪を犯しますが、罪を犯してそれを悔い改めるか、罪を犯してもそれを当然と思って生き続けるか、です。そこに清め問題が出てきます。ヨハネは言います「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(3:3)。御子の内にとどまることを通して、私たちは清められていくのです。

2.キリストの内にとどまることを通して清められていく

・今日の招詞として�コリント3:3を選びました。次のような言葉です「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。
・コリント教会はパウロの開拓伝道により生まれましたが、争いの絶えない教会でした。信仰熱心な者はそうでない者を蔑み、金持ちは貧乏な信徒を差別していました。教会の中に分派争いもありました。ある者は教会の創設者パウロこそ私たちの指導者だと称え、別の者は二代目牧師のアポロの方が良いと言って、派閥争いを繰り返していました。とても神の民の共同体とは思えない。それにもかかわらず、パウロはコリント教会を「神の教会」と呼び、教会員を「聖なる者」(�コリント1:1)と呼びかけます。私たちの教会もコリントと同じ状況にある。それでも主は、その教会を「神の教会」と呼んでくださる。何故か。
・旧い掟=十戒はモーセの律法として石の板に書かれました。私たちはその戒めを守ることが出来なかった。だから新しい掟が与えられた、その掟、愛の戒めはイエスの十字架の死を通して私たちの心の板に書かれた。パウロは言います「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」(�コリント3:6)。神の愛に触れた者はその戒めが心の中に書かれた、もう前と同じ存在ではありえないのだとパウロは言います。人間の愛は常に自己の利益を求めて相手を裏切りますが、神の愛はその裏切り続ける者のために死ぬ愛です。神が自分のために死んでくれた、そのことを知った時、私たちはもう以前のような生き方は出来ない。一つの例でこのことを考えて見ましょう。マキシミリアン・コルベと出会ったガヨビニチェクの生き方です。
・マキシミリアン・コルベは1894年にポーランドで生まれ、24歳でカトリックの司祭になりました。36歳の時、日本に来て長崎で宣教した後、故国のポーランドに帰りますが、1939年彼は捕えられてアウシュヴィッツ収容所に入れられます。アウシュヴィッツはユダヤ人絶滅収容所として有名ですが、当初はナチスに非協力的なポーランド人を収容するために作られた施設でした。強制的に収容された人々は、機会があれば自由を求めて脱走します。収容所では脱走事件が続出したため、防御策として、一人の囚人が脱走して捕まらない時には、見せしめに同じブロックの10人の囚人を処刑することにしました。
・1941年7月、脱走事件があり、身代わりとして10人の囚人が餓死刑に選ばれました。その時、指名された囚人の一人が泣き叫んで言います「私には妻と二人の子があり、私の帰りを待っている」。看守はかまわず彼を連れて行こうとします。その時囚人の一人が進み出て、身代わりとして刑を受けたいと申し出ます。コルベでした。彼は言います「彼には奥さんと子供がいる。私はカトリックの司祭で独身だ」。こうしてコルベはガヨビニチェクの代わりに刑を受け、17日間水も食べ物も与えられない地下室の中で生き、息を引き取りました。助けられたガヨビニチェクは生き残り、3年後に収容所から解放されて、初めてこの出来事が明らかになりました。
・コルベの行為こそがキリストの戒めに従うものです。イエスは言われました「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。「私があなた方を愛したように」、私はあなたの身代わりとして死に、その死によって神があなたをどのように愛されているかを教えるから、私に倣って愛し合いなさいと。ガヨビニチェクは生涯、コルベの物語を証する者となりました。私たちもあるとき、キリストが私のために死んでくれた事実を知り、イエスの前に跪き告白します「わが主、わが神」。その時、旧い人間が死に、新しい人間が生まれるのです。イエスが私のために死んでくれた、それほど私を愛してくれた、この愛の応答として行為が生まれるのです。
・誰もがコルベのように、自分の命を投げ出して、兄弟のために死ぬことが出来るわけではありません。しかしガヨビニチェクの生き方は出来る。ガヨビニチェクがコルベの証人になったように、キリストの証人として生きる生き方です。ヨハネはその生き方を私たちに提示します。彼は言います「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(3:17−18)。キリストの証人として生きる、日曜日だけ証人になるのではなく、月曜日から土曜日までを主の証人、地の塩、世の光としてこの世で過ごし、日曜日に主に出会うために教会に戻り、またこの世の生活に出て行く。そのような生き方が求められている。
・先週の説教で水口仁平牧師が、本来の律法は禁止命令ではないと話されました。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」等は日本語では禁止命令ですが、原語のヘブル語では「姦淫しないであろう、殺さないであろう、盗まないであろう」となるそうです。神の恵みの共同体に入れられた者が殺しあうことはないし、姦淫することはありえない。何故ならば神は全ての人を愛されており、お互いは兄弟姉妹だからです。神に愛された者は力の限りに神を愛し、神を愛する者は隣人に悪を行わない。だから盗むことも殺すこともしないのです。本来の律法とはこのようなものだというお話でした。私たちも同じです。キリストに出会って教会共同体に入れられた者は、もう悪を行うことが出来ないのです。パウロは言います「愛は隣人に悪を行いません」(ローマ13:10)。キリストに出会った者は、隣人に悪を行うことが出来ない者に変えられて行く、私たちはその変化の途上にある。神の種は既に私たちの中にある。キリストにとどまり続ける限り、私たちは清められていくのです。

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