江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年4月6日礼拝説教(ヨハネ21:1-14、復活の主に励まされて)

投稿日:2008年4月6日 更新日:

1.復活のイエスとの再会

・今日、私たちは2008年度最初の礼拝を捧げます。先週終わった2007年度に、教会はいろいろな出来事を経験しました。悲しい事やつらい事もありました、しかし終わってみると、恵みがそれに勝っていた。2008年度、私たちの教会は、いろいろな重荷を担いながら出発します。しかし、今年もまた祝福されるだろうと希望を持っています。何故ならば、教会の頭であられるイエス・キリストは死から復活された、十字架の苦しみを超えて、復活の主として、私たちと共にいてくださるからです。この復活信仰こそが教会を教会にしていくものです。それをヨハネ福音書21章は私たちに告げます。
・ヨハネ21章は一旦閉じられた福音書がまた書き加えられたものです。ヨハネ20:30−31は記します「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。このように一旦書き終えた福音書を、ヨハネはもう一度筆を取って書き加えます。教会の人々にぜひ知って欲しい事柄があったからです。それが何かが、今日の主題です。
・ヨハネは新しい物語を次のように始めます「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである」(21:1)。ティベリアス湖、ガリラヤ湖の別名です。エルサレムで弟子たちの前に現れたイエスが、今度はガリラヤにおいて弟子たちに現れたとヨハネは書き始めます。イエスは復活された日の夕方、弟子たちのいるところに現れ、八日目にはトマスのために、再び現れました。その時、イエスは弟子たちに「ガリラヤに行きなさい。そこで会おう」と言われたのでしょう(マタイ28:7)。そのガリラヤでのイエスとの再会、三度目の復活のイエスの顕現を伝えるものが、ヨハネ21章の記事です。
・弟子たちは、自分たちの故郷であるガリラヤに戻って、そこで伝道を始めました。しかし、何も取れません(21:4)、何の成果も上がらなかったのです。弟子たちは失望し始めます。イエスの復活は、絶望した弟子たちを立ち上がらせる契機にはなりましたが、まだ彼らは半信半疑でした。自分たちが見たのは幻ではなかったのか、本当にイエスは復活されたのか、復活されて私たちに伝道の使命を与えられたのであれば、それなりの成果があるはずではないか、そのような疑問が次から次に弟子たちの胸中に押し寄せました。「自分たちは何をすればよいのだろう」、彼らは元々ガリラヤの漁師でした。不安な心を静めるために、彼らは再び漁に出ることにしました。
・ペテロたちは漁に出ました。漁に最適な時間は夜中です。彼らは舟を出し、夜通し、網を打ちましたが、何の収穫もありませんでした。彼らは、心も体も疲れ果てて、岸に向かって戻りかけていました。その時、一人の人が岸に立ち、「子たちよ、何か食べるものはあるか」と彼らに呼びかけました。働きの収穫はあったかと聞かれたのです。朝早く、漁から帰る船の魚を買うために仲買人が岸辺に来る。弟子たちはその人が仲買人と思い、答えます「ありません」。あたりは暗く、その人の顔は見えません。その人は弟子たちに言います「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」(21:6)。弟子たちはだめで元々と思い、網を打ったところ、網を引き上げることの出来ないほどのたくさんの魚が取れました。
・この出来事を見て、ヨハネは、その人がイエスであることに気づきました。このような奇跡を起こせる方はイエスしかいない。そしてペテロに言います「あの方は主だ」。ペテロはそれを聞くと、湖に飛び込んで岸の方に泳ぎ始めました。一刻でも早く、イエスに会うためです。ペテロの後ろから、多くの魚を積んで重くなった舟が続きました。岸に着くと、彼らは網を下ろし、魚をかごの中に移しました。数えると魚は153匹もいました。イエスと弟子たちは、パンと魚で共に食事をとります。弟子たちにとってこの日の会食は忘れられないものになりました。後に教会は自分たちのシンボルとして「魚」を選びました。魚、ギリシャ語でイクスース、これは「イエスス・クリストス・セオウ・フイオス・ソテール=イエス・キリスト、神の子、救い主」という意味の言葉の頭文字になります。イエスと共に、パンと魚を分け合って食べた。復活されたイエスと共に「主の晩餐」をいただいた。その記憶が初代教会のクリスチャンたちを支えたのです。

2.信仰と生活

・弟子たちはエルサレムで、復活のイエスに出会っています。そして、イエスの指示でこのガリラヤに来ました。それにもかかわらず、イエスの到着が予定よりも遅くなると、不安になり、自分たちが出会ったイエスは幻ではなかったのかと思い始めます。人間の信仰とはこの程度のものです。復活のイエスに出会って感激する。しかし、感激はすぐにさめ、やがて、不信に囚われてしまう。私たちの生活もそうです。神が私たちを養って下さると信じていても、実際に失業してみると、「これからどのように暮らしを立てれば良いのか」と悩み始めます。神が養われることを本当には信じていないのです。信仰がまだ私たちの生活を規定していない、救われたのにそれにふさわしい生活ができない、これが私たちにとって最大の問題です。イエスが復活された、そのことがまだ弟子たちの生存を変えるまでの出来事になっていない、だからイエスが再び来られたのです。
・ヨハネの教会も困難の中にありました。当時の教会はユダヤ教からは異端として排除されていました。ローマ帝国からの迫害も始まっています。イエスを主と告白し、教会に加わったために、ある者は殺され、ある者は捕らえられていきました。自分たちは何のためにここにいるのか、ヨハネの教会の信徒たちはつぶやき始めています。弟子たちが何のためにガリラヤにいるのかがわからなく、不安だった状況と同じです。しかしそこに復活の主が来られた。そして御言葉に従った時に取り切れないほどの収穫が与えられた。主は生きておられる、私たちと共におられる。それをヨハネはわかって欲しかった。だからヨハネは20章で完結した物語をあえて書き加えていったのです。

3.復活の主に励まされて

・今日の招詞にルカ5:4−6を選びました。次のような言葉です。「話し終わった時、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」
・これはペテロがイエスの召命を受けた時の記事です。ペテロはガリラヤの漁師でしたが、漁に出て何もとれず、疲れて網を片付けていました。そこにイエスが来られ、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。ペテロは専門の漁師です。その彼が一晩中漁をして何も取れなかった。そのペテロに、イエスが再び網を打ちなさいと勧めます。ペテロはイエスの威厳ある言葉を聴いて従いました「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。そうすると、網が破れるほどの魚が取れました。ペテロはイエスの前にひざまずきます「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」(ルカ5:8)。この出来事が契機になって、ペテロはイエスに従う者となり、それから三年が経ちました。イエスは、復活の出来事をまだ理解しないペテロたちのために、同じ奇跡を繰り返されました。だから、愛弟子ヨハネは、言葉に従って網を打ち、多くの魚が取れた時、この出来事を思い出し、岸辺にいる方がイエスだとわかりました。
・「どうせだめだ」として網を降ろすことを拒否した時、そこには奇跡は起きません。だめでもいいから、イエスが言われるのだからとして網を降ろす時、そこに驚くべき出来事が生じます。これは多くの人が経験している出来事です。個人の信仰も教会の形成もこの驚き、この感動が基本となって形勢されています。この恩恵の体験を通じて人は信じる者とされ、教会はイエスを「主」と仰ぐ者にされていきます。信仰とは私たちが信じるのではなく、信じるものにさせられていく出来事なのです。「教会はペテロがイエスの言葉に従って網を降ろし、驚くべき出来事を経験した時に起こったのだ」とドイツの神学者ゴルヴィッアーは記します。教会は私たちが自我から解放されて、イエスに従い始めた時に形成されます。
・ところが、その教会で争いが起こります。現代でも、多くの教会で、運営方法や、宣教理解をめぐっての混乱があります。何故でしょうか。それは、イエスが何故十字架に死なれ、何故復活されたのかが不明確なためです。イエスの出来事が、自分の出来事になっていない、復活のイエスに生かされていないから、自分の思いが優先し、教会の交わりを壊してしまう。この現実を見る時、私たちは繰り返し復活の主に出会い続けることが必要です。自分たちの思いで漁に出ても何も取れない、「舟の右側に網を下ろしなさい」とのイエスの言葉に従う時に、初めて収穫が与えられることを学び直すことが必要です。
・私たちにとって教会は大事な場です。教会の礼拝を通して、私たちは復活の主に出会い、命をいただくのです。復活のイエスは弟子たちの群れに現れたことを思い起こしてください。救いは個人の出来事ではなく、共同体の出来事なのです。だから私たちは、教会を大切にしていく。そして教会の主役は私たちではなく、キリストです。この方にお会いして、私たちは命をいただいた、だから私たちはこの方に仕えていく。この方に仕えるとは、具体的には隣人に仕えることです(「この小さい者にしたことは私にしたことなのである」マタイ25:40)。隣人に仕える時、私の思い、あなたの思いで、教会の交わりを壊すような行為は生まれない。2008年度、私たちは教会標語として、「御言葉に聴き、成長する」を掲げました。聖書に聴いて、自分たちの生き方や教会形成のあり方を考えていく年にしたい。量的に成長する、教会により多くの人が集まって欲しいという願いもありますが、それ以上に質的に成長していくことを願います。出口の見えない状況に置かれた時でも、御言葉を聴き、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」といえる教会になりたいと願います。

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