江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年10月18日葛西集会説教(ルカ13:10-17、安息日を祝福の日に)

投稿日:2008年10月18日 更新日:

1.安息日は祝福の日なのに束縛の日に変えられた

・福音書には安息日に関する記述が多くあります。今日読みますルカ13章もイエスが安息日に病気の婦人を癒されたために会堂長と論争が起きたことを記しています。当時のユダヤ人にとっては律法を守る、特に安息日を守ることは大事な戒めとなっていました。十戒ではそれぞれの戒めは短く「・・・せよ」「・・・するな」と言われているだけですが、安息日の厳守だけはかなり詳しく述べられています。申命記では次のように記します「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:14)。安息日は元来イスラエルの農耕生活における休息日として設けられました。農耕は過酷な労働であり、休まないと体力を回復できない。だから6日間働いて7日目には休みなさいというという祝福が与えられた。それが安息日だったのです。
・しかし、その安息日が宗教と結びつくことによって「聖なる日」「守らなければいけない日」に変わっていきます。バビロン捕囚時代に書かれた出エジプト記では次のように記します「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20:8-11)。申命記の規定「安息日には休むことが出来る」から出エジプト記の規定では「聖別せよ」と意味が変わり始めています。さらに後代になると、「安息日を犯す者は殺されなければならない」(出エジプト記31:15)と禁止規定に変わっていきます。
・イエスの時代、人々はこの戒めを厳格に守るべきだとして、細かい規則を作りました。たとえば,火をおこすこと,薪を集めること,食事を用意することさえも禁じられるようになります。ここにいたって安息日が安息の時ではなく、人を束縛するものになっていきました。こういう背景を知った上でルカ13章を読むとイエスの言われたことの意味がより鮮明にわかってきます。
・ルカは記します「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」(13:10-11)。イエスはその婦人を憐れに思われ、癒されます。一部始終を見ていた会堂長はすぐに反発して言います「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(13:14)。会堂長の言い分はもっともです。婦人は18年間も病気だった。今日の安息日ではなく、明日治しても一向に差し支えなかった。しかし、イエスはこの会堂長に言われます「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(13:15-16)。安息日であっても牛やろばのために水を飲ませるという労働をするではないか。それなのに人を癒すという業を安息日にすることを禁じるのか、牛やろばの方が人よりも大事なのかとイエスは問われます。

2.安息日をもう一度祝福の日に

・イエスは安息日に多くの癒しを行われています。ヨハネ5章では、イエスはベテスダで38年間寝たきりの人をいやされますが、その日が安息日であったため、パリサイ人と論争になります(ヨハネ5:10)。何故、その日でなければいけなかったのか、翌日でもかまわないではないか。しかしイエスはあえて安息日に癒された。ヨハネ9章にあります生まれつきの盲人の癒しもそうです。安息日だからパリサイ人と争いが起きた(9:16)。イエスは盲人を癒される時、言われました「私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」(ヨハネ9:4)。
・日本基督教団佐世保教会の深沢奨先生はルカ13章について次のように解釈されています(「福音と世界」2008年10月号)。「ルカ13章には“見よ=イドゥ”という言葉が何箇所も使われているが新共同訳聖書ではほとんど訳さない。13:11は新共同訳では“そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。”とあるが、原文では“すると見よ、そこに18年間も病の霊に取りつかれた女がいた”となる。また13:16は新共同訳“この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。”が原文では次のようになる“この女はアブラハムの娘なのに、見よ、18年間もサタンに縛られていたのだ”」。見よ、注目せよ、この女の悲惨を見よ、とイエスは言われているのだというのです。また16節の訳文についても新共同訳では「安息日であってもその束縛から解いてやるべきではないか」とあるところを、「安息日にこそその束縛から解いてやるべきではないか」と訳しています。安息日にこそ、癒すべきだ。安息日にこそ良いことを行うことを父なる神は望んでおられるのではないかとイエスは言われたと解するのです。注目すべき解釈だと思います。
・イエスが安息日に多くの癒しの業をなされているのは、「あえて安息日に行われた」と考えるべきだと思います。安息日に業を行うことにより議論が起こる、そのことを通して安息日の意味をもう一度考え直せ、何故ならば「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ2:27-28)からです。安息日を再び祝福の日に戻せとイエスは言われているのです。
・ユダヤ教の安息日は土曜でしたが、教会はイエスの復活を覚えて、安息日を日曜日にしました。私たちは日曜日を安息の日として教会に来て礼拝します。しかし、忙しい時もあります。子供の運動会があるときは礼拝を休んでいいのか、夫が病気で寝込んでいる時はどうするのか、会社に日曜出勤しなければいけない時はどうするのか、多くのクリスチャンが悩まされる問題です。基本的にはイエスが言われた言葉に従って判断すればよい問題です。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。私たちは神の前に安息するために教会に集まります。仮に、他の用事を神様からいただいたのであれば、それに従って安息日をすごせばよいのです。
・しかし何が安息かを改めて考える必要があります。会堂にいた婦人は、安息日に18年の病いの束縛から解放されました。私たちも日常の束縛から解放される必要があります。様々や用事や束縛がありますが、それが本当の用事、本当の安息、安息日にこそなすべきことなのかを考える必要があるように思います。「子どもの運動会が日曜日にある」、子どもと共に過ごすことが神様から与えられた安息かどうか祈って決める。「日曜日に出勤しなければいけない」、多くの場合、日曜出勤しなくとも業務に影響がない、とすれば労働の束縛から解放されるべきでしょう。「夫が病気で寝込んでいる」、夫の看護のために心置きなく礼拝を休みなさい。しかし、夫の枕元で聖書を共に読み、共に祈りなさい。安息日は「最も良いことする日」と覚えたい。カール・バルトは主著である教会教義学・創造論の中で、キリスト者の倫理を「神の御前での自由」という表題のもとに記し、さらに安息日を巡る問題を扱う章を「祝いと自由と喜びの日」として書き始めています。このことは安息日の戒めが本来私たちにとって自由を与える特別な日としての性格を持つことを示しています。日曜日を「礼拝を守らなければいけない日」から、「礼拝に参加することが出来る日」に変えることが出来れば、私たちの人生はどんなにか豊かになるのではないでしょうか。

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