江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年10月19日説教(ピリピ3:12-21、天に国籍を持つ者として)

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1.キリストに出会った喜びを伝えるパウロ

・今日、私たちはピリピ書を読みますが、この書は「喜びの書簡」と言われています。私たちは、自分が幸福で満たされている時には喜びます。ただ、苦難の中にある時、重荷を担っている時には喜べません。しかし、パウロは、「キリスト者は苦難の時にも喜ぶことが出来る」と言います。パウロがこの手紙を書いた時、彼はローマの獄中にあり、しかも殉教を前にした緊迫した状況の中にありました。にもかかわらず、この手紙には「喜ぶ」という言葉が多く用いられています。何故苦しみや悲しみの中で喜べるのか、今日はピリピ3章を通して学びます。
・パウロはローマの獄中から、ピリピ教会に手紙を書いています。エルサレムで捕らえられたパウロは皇帝の裁判を受けるために、ローマに護送されてきました。パウロがローマの獄中にいると知らされたピリピの教会は、パウロを慰めるためにエパフロデテに贈り物を託して送り、ローマでパウロに仕えるように手配しました。そのエパフロデテが重い病になってピリピに帰ることになり、彼に託して、パウロはピリピの人々に手紙を書きました。それがピリピ書です。パウロは案じてくれたピリピの人々に感謝し、教会のために祈ります。ピリピ書1~2章はパウロの感謝とピリピの信徒を気遣う愛情に満ちた手紙です。2章の終わり、3章の始めでパウロは書きます「最後に、私の兄弟たちよ。主にあって喜びなさい」(3:1)。「主にあって喜びなさい」、ピリピ書を貫くパウロの使信です。
・その穏やかな感謝の手紙が、3章2節から突然激しい語調になります。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(3:2)。パウロは手紙を書いていて、ピリピ教会を巡るユダヤ主義者の活動をここで思い起こし、注意したいと思ったのでしょうか。それにしても「犬ども」「よこしまな働き手」「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と激しい言葉が並びます。当時のエルサレム教会は、「洗礼を受けただけでは救われない。旧約聖書に定められたように、割礼を受け、律法を守らないといけない」として、巡回伝道者を各地の教会に派遣していました。ピリピ教会にも伝道者たちが訪れ、教会の中に混乱が生じていたゆえに、この言葉になったと思われます。パウロはユダヤ人が大切にする割礼を「切り傷に過ぎない」とします。また彼らを「犬」と呼びます。これはユダヤ人が割礼を守らない異邦人を軽蔑して言った言葉ですが、その言葉をユダヤ主義者に投げ返します。何故このような激しい言葉を投げかけるのか、それはユダヤ主義者の活動が教会を壊しかねない要素を持っていたからです。割礼を受けなければ救われないとしたら、キリストは何のために死なれたのか。割礼を強制する彼らはキリストの十字架を無益なものにしている。だから「よこしまな働き手」なのだ、とパウロは巡回伝道者を批判します。
・パウロもかつては律法による救いを求め、そのために努力し、そのような自分を誇った時もありました。彼は言います「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(3:5-6)。彼はユダヤ人の誰よりも、熱心に律法による救いを求めたのです。熱心のあまり教会の迫害者にさえなった。その彼がダマスコ途上で復活のキリストに出会い、キリストに捕らえられてしまった。そして教会の迫害者から伝道者になりました。有名なパウロの回心の出来事です(使徒9:1-9)。彼は律法学者としての名声も、教師としての安定した生活も失くし、ユダヤ人からは「裏切り者」として命を狙われるようにもなりました。しかしパウロは言います「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(3:7-8)。
・パウロはすべてを失くしましたが、同時にすべてを得ました。彼はキリストを得たのです。彼はキリストに出会って命を見出しました。命を見出した人はこれまで大事だと思っていたものさえ捨てます。キリストに出会った人は、自分の内には何の正しさも無く、ただキリストが死んで下さったから救われた事を知るゆえに、自分の誇りも捨てます。だからパウロは言います「「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(3:10-11)。

2.キリストに出会った者の生き方

・私たちは既にキリストに出会った。キリストに捕らえられた。だからキリストを追い求めていくとパウロは言います「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(3:12-14)。私が弱さの中でキリストを目指して走っている姿を見よ、私を見習えとさえ彼は言います。「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(3:17)。
・他方、律法による義を求める者はキリストの十字架を無益にするゆえに、彼らはもはやキリスト者ではないとさえパウロは言います「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(3:18-19)。腹を神にする=あれは食べても良い、これはいけないとする彼らにとって、腹=食べ物が神になっているとパウロは皮肉ります。そして有名な言葉が来ます「「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(3:20-21)。
・ここに永遠の命を求めるのか、現世での救いを求めるのか、信仰の分かれ目があります。島田裕巳著「日本の10大新宗教」という本を読みました。現代の新宗教である霊友会、立正佼成会、創価学会等の歴史と現在を扱った本です。推計によりますと、創価学会はおよそ1,000万人の信徒を持ち、立正佼成会は300万人、霊友会も300万人の信徒がいます。日本で150年の宣教の歴史を持つキリスト教人口100万人に比し、驚くべき数です。何故新宗教と呼ばれるこれらの教えに現代の人々は惹かれるのか。著者によりますと、大教団に成長した新宗教のほとんどは「日蓮系・法華系」の教団であるとのことです。浄土信仰を説く既成仏教に飽き足らない人々が、現世における救いを強調する法華信仰に惹かれているのではないかと著者は分析します。「南無妙法蓮華経」を唱えれば救われる、信じれば豊かな生活が送れるという教えが人々を捕らえています。これは律法を守れば救われる、善行を積めば幸せになれるとするユダヤ主義者の考え方と共通しています。しかし、パウロはこのような考え方を、「絶対そうではない」と否定します。

3.苦難の中で喜ぶ信仰

・今日の招詞としてピリピ4:4-6を選びました。次のような言葉です「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。
・私たちの毎日の生活は常に喜べる状況ではありません。挫折も失意も仲たがいもあります。しかし、パウロは獄中にあっても喜んでいます。何故でしょうか。パウロは手紙の冒頭で言います「兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(1:12-14)。獄中でパウロが気力を失わずにいる姿を見て、大勢の人が励まされ、ある者はパウロの話を聞いて回心した。神が監獄という場所においても、働いてくださることを知るゆえにパウロは喜ぶのです。
・私たちが苦しみの中にあれば、その苦しみを神の前に出せばよい。私たちが悲しみの中にあれば、その悲しみを神の前に訴えればよいとパウロは教えます。その時、神は悲しみの意味、苦しみの意味を教えてくださる。意味がわかった時、苦しみは苦しみのままで、悲しみは悲しみのままで、祝福に変わっていくのです。私たちはそのことを自分でも体験しています。苦しくてたまらない時、祈って与えられた御言葉が私たちの人生を変えた経験を何度もしています。時間が経って振り返った時、あの苦しみの時が神の恵み、導きの時であったと知ったことがあります。苦しみが、悲しみがなくなることが救いではなく、苦しみ悲しみの中で神の声を聞くことこそ救いなのです。現世利益、功績主義は必ず行き詰ります。祈っても題目を唱えても、治らない病気は治らないし、解決しない問題は解決しないからです。また仮に病気が治っても人は死にます。癒しは仮のものであり、救いではない。そして救いは人の手にはない、そのことを私たちは再認識する必要があります。
・パウロは言います「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」(3:20)。ピリピはローマの植民都市でした。ローマから遠く離れていましたが、市民はローマ市民権を与えられ、ローマに属する者とされていました。ピリピの市民がローマ市民であるように、私たちも地上に暮らしていても、天から派遣されている天の市民なのだとパウロは言います。天の市民であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということです。私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれません。しかし、神が私たちを見捨てられることは決してありません。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖ってくださった方だからです。そのキリストは私たちの重荷を共に負って下さる方です。キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも喜ぶことが出来るのです。

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