江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年5月27日説教(使徒言行録2:1-13、聖霊の賜物)

投稿日:2007年5月26日 更新日:

1.聞く存在から語る存在へ

・今日、私たちはペンテコステ礼拝を捧げるために、この教会に集められました。ペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶ教会の大事な記念日です。ペンテコステとはギリシャ語で50と言う意味です。過越の祭りから50日目の五旬祭の時に、聖霊降臨という出来事が起こりました。ですから、教会ではペンテコステを聖霊降臨日として祝います。イエスが十字架に死なれ、復活されたのは過越の祭りの時でしたから、ペンテコステはイエスの復活からも50日目にあたります。弟子たちはイエスが昇天されてから10日間、聖霊を求めて祈り続け、祈りに答えて聖霊が下り、臆病だった弟子たちが雄弁に語り始め、聴いた人々に回心が起きました。ペンテコステはイエスの言葉を聞くだけだった弟子たちが、自ら語る者となり、その結果、信じる者が起こされ、教会が生まれた記念の日です。今日から、私たちは数回にわたってルカの著した使徒言行録を読んでいきます。
・イエスは天に帰られる前、弟子たちに、「聖霊が与えられるまで、エルサレムで待ちなさい」と言われました(1:4-5)。弟子たちはイエスの言葉に従い、共に集まり、祈って、待ちました。10日後、五旬祭の日に不思議な出来事が起きます。一同が集まっていた時、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2:2-3)とルカは記述します。何が起こったのでしょうか。現代の私たちには、理解が難しい表現で、ルカは記述します。私たちが知るべきことは、事実としての真実=何が起こったのかと言うことではありません。それは私たちには知りえないことです。ただ、この物語で、何が主張されているのかと言う真実は、私たちにもわかります。ルカがこの物語を通して、何を言おうとしているのかを、私たちは聴いていきます。
・「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」、ギリシャ語では風(プノエ)は霊(プニュマ)と同じ語源の言葉です。また、ヘブル語では霊(ルーアハ)は息(ルーアハ)と同じで、神の霊は神の息吹として表現されます。風は見ることは出来ませんが、存在を感じることが出来ます。息も見えませんが確かに存在します。聖霊=神の息吹も見えないが確かに弟子たちの上に降った、そのことを、ルカは「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」と表現しているのです。
・その神の息吹は、「炎のような舌の形で弟子たちに降った」とルカは記述します。炎は神の臨在を示す言葉です。舌(グロッサイ)は言葉(グロッサイ)と同じ言葉です。霊の賜物として舌=言葉が与えられ、弟子たちが語り始めたことを、ルカは「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と表現しています。バプテスマのヨハネは「キリストは聖霊と火であなたたちにバプテスマを授けられる」と預言しましたが(ルカ3:16)、今、その出来事が起こり「一同は霊が語らせるままに、他の国の言葉で話し出した」とルカは報告しています。物音を聞いて、人々が通りに集まって来ました。その中には、海外から、帰国していたユダヤ人たちもいました。集まってきた人々に向かって、弟子たちは、それぞれの国の言葉で、福音を語り始めます。
・ペンテコステで起こった奇跡の第一は、これまで語ることの出来なかった弟子たちが、語る者に変えられていったことです。14節からペテロの長い説教が記されています。ペテロは群集を前に「あなた方が十字架にかけて殺したイエスを神は復活させられた。イエスこそ神の子だ」と語り始めます。このペテロが50日前はどのような存在であったのかを私たちは知っています。イエスの裁判の時にペテロは、「お前もイエスの仲間ではないか」と人々から問われ、「その人を知らない」と否認しています(ルカ22:59)。復活の朝には、自分たちも捕らえられるかもしれないと恐れて、家の戸に鍵をかけて震えていました(ヨハネ20:19)。そのペテロが「あなた方は神の子を十字架にかけて殺したのだ」と人々の罪を公然と指摘しています。

2.言葉が人々に聞かれた

・イエスの十字架から50日目、何の準備も出来ていない弟子たちが、霊に動かされるまま、語り始めます。語る内容は、「あなた方が殺したイエスこそ神の子である」と言う、驚くべき内容です。弟子たちを取り巻く状況が変わったわけではありません。50日前にイエスを捕らえて処刑した、大祭司や律法学者は依然としてエルサレムの支配権を握っています。群集は弟子たちをカルト集団であるかのような不信の目で見ています。民衆の中には、「彼らは酒に酔っているのだ」(2:13)と嘲る者もいました。その人々にペテロは語り始めます。語れば自分たちも捕らえられ、処刑されるかもしれない状況は続いていますが、それでも語ります。聖霊に押し出されて語らざるを得ないからです。
・聖霊に押し出されて語られた言葉は、多くの人々の心を動かしました。人々はペテロの話に心を打たれ、「兄弟たち、私たちはどうしたら良いですか」と問いかけました(2:37)。「私たちは神の子を殺すという大罪を犯した。そんな私たちを神は赦して下さるだろうか」と人々は哀願したのです。ペテロは言います「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2:38)。ペテロの勧めに従い、この日に3000人がバプテスマを受けたとルカは記します。聖霊が語らせる言葉は人々に伝わり、「どうしたら救われますか」と言う悔い改めを促しました。聖霊の賜物の第二は、聞く者にそれが真実であることを悟らせることです。聖霊が働いて弟子たちに言葉を語らせ、聖霊が働いて人々にそれが真実であることを悟らせました。もちろん、聴いた全ての人が信じたのではありません。しかし、ある人たちは説教を聴いて大きく心を揺さぶられたのです。

3.信仰は聞くことから始まる

・今日の招詞にローマ10:13-15を選びました。次のような言葉です「主の名を呼び求める者は誰でも救われるのです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことかと書いてある通りです」。
・パウロは「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」と言います。主は求める者には、応えて下さるからです。では、その求めはどのようにして為されるのでしょうか。宣教する者の言葉を聞くことによってです。信仰を与えられた者が召され、遣わされ、宣べ伝えることを通して、人は聞き、信じ、呼び求めるようになります。これが起こったのがペンテコステの出来事です。私たちはこの出来事が、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という聖霊の降臨によって始まったことを知りました。ペンテコステの日に説教したのは、ペテロでしたが、ペテロにだけ聖霊が下り、ペテロだけが語る者になったのではありません。ヨハネにも、ヤコブにも、ピリポにも聖霊が下り、それぞれが語る者に変えられていったのです。一人一人がそれぞれの立場、持ち場で福音を語ることによって、伝道の業は推し進められていったのです。
・初代教会においては、牧師・副牧師・宣教師・執事等の役職の区別はなく、一人一人が宣教し、教えていきました。私たちバプテスト教会は会衆主義を旨とします。牧師と共に、皆さん一人一人が、教師・牧会者として立てられています。教会学校では、それぞれのクラスに教師が立てられ、教えます。教会学校の教師が語る言葉はまさに説教です。また、皆さんが、礼拝を休みがちな方を励まし支える時、皆さんもまた牧会者となります。
・「信仰は聞くことから始まります」が、そのためには語る者が必要です。ペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が下り、弟子たちが聞く者から語る者へ、神の業の参加者に変えられました。そして聖霊に促された言葉は、同じく傍観者であった群集をも変え、回心者が与えられました。この回心者がまた祈り求めて、やがて語る者に変えられていきます。皆さんもかつて聞いて回心し、バプテスマを受けました。今、皆さんに求められているのは、聖霊をいただいて、聞く者から語る者へと変わることです。牧師一人が聖霊に満たされて語っても、その言葉は広がりを持ちません。皆さんが聖霊に満たされることが必要です。そして聖霊は求める者には与えられます。聖霊を共にいただき、この教会を、地上における神の国として形成していく役割が私たちに与えられています。
・バプテスマを受けていない人は、バプテスマを受けてほしいと願います。いつがふさわしいのか、ペンテコステの日に説教を聴いた人々がその日にバプテスマを受けたことを考えると、語られている言葉が自分に向けた神の言葉であることを信じた時がバプテスマを受ける時でしょう。バプテスマを受けるとは、傍観者から参加者に変わることです。まだ私たちの教会に属していない人は、ぜひ教会に加わっていただきたい。この教会を通して為される神の業に、共に参加してほしいからです。そして教会員の方には、この教会を通して神は働かれるとの信仰に固く立ち、迷わないでほしい。牧師や他の人の言葉に傷つき、つまづくこともあるでしょうが、そのつまづきを超えて、この教会の礎になっていただきたい。人間は背いた者は捨てますが、神は背いた私たちのために、御自身を罰せられました。私たちは背いたのに赦された。この十字架の愛に出会った者はもう前の生活に戻れない、私たちは以前の生活は捨てたのです。捨てたのであれば、つまづいても傷ついても、この道から離れない。私たちは、この教会を通して、神の業に参加していくのです。

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