江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年6月3日説教(使徒言行録2:22-36、罪を認める)

投稿日:2007年6月3日 更新日:

1.最初の宣教が為された

・先週、私たちは、ペンテコステ礼拝を捧げました。礼拝を通して教えられたことは、語ることを恐れていた臆病な弟子たちが、聖霊を与えられて、「あなたがたが十字架につけて殺したナザレのイエスこそ救い主なのだ」と大胆に語り始めたことです。聖霊は教会に言葉を語る力を与えました。その言葉は多くの人々の心を動かし、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいですか」という悔い改めを生みました。聖霊はまた聴衆を会衆に変えました。聞くだけだった者が信じる者に変えられていったのです。今週、私たちは、ペンテコステの日に弟子たちが語った説教を詳しく見ていきます。生まれたばかりの教会が霊に導かれて語った言葉は、その教会から生まれた私たちに何を語るべきかを教えるからです。
・ペンテコステの日に弟子たちが語り始めましたが、一部の人たちは「彼らは新しい酒に酔っているのだ」と嘲笑しました。その人々に対して、ペテロが語ります「今は朝の9時です。酒を飲んで酔っているのではありません」(使徒言行録2:15)。酔っているのではなく、「終わりの日に約束された聖霊が下ったから語っているのです」とペテロは言います。預言者ヨエルが言ったように、「終わりの時に、私の霊を全ての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(2:17)という出来事が起こっているのだと。
・彼は論を進めます「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。・・・このイエスを・・・あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」(2:22-23)。あなたがたはイエスのなされた奇跡と業を見て、この方が神から来られたことを知ったのに、その方をローマ人に渡して殺してしまった。あなたがたは神の子を殺すという反逆行為をしたのだとペテロは人々の罪を告発します。しかし、ペテロは、「あなたがたはとんでもないことをしたから、もう救われない」と言っているのではありません。ペテロ自身がイエスを裏切るという行為を通して、イエスを十字架につけた者の一人です。しかし、神はそのイエスを死から復活させられた。ペテロは復活のイエスに出会った。そのことを通して、ペテロはイエスを裏切った自分の罪が赦されたことを知りました。だからペテロは言います「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」(2:24)。彼は続けます「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(2:33)。そして彼は説教を締めくくります「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(2:36)。
・ここでは、「神を敬い、隣人を愛しましょう」とか、「律法を守って正しい生活をしましょう」とは語られません。そのような倫理的な勧めは、信仰の本質ではないからです。ペテロは十字架と復活しか語りません。信仰の本質とは、「私たちが神の子を殺したのに、神は私たちを赦し、そのしるしとして、イエスを復活させてくださった」という一点です。ペテロは「あなたがたが神の子を殺した」と指摘しますが、この「あなたがた」とは直接的にはそこに集まっているユダヤ人です。しかし、聖霊は同時に、それは「今、この教会に集まっているあなたがたでもあるのだ」と教えます。私たちがキリストを十字架につけた。2000年前私たちはいなかった。そんな馬鹿なと、私たちは思います。しかし聖霊は迫ります「あなたが、あなたがたが十字架につけたのだ」。

2.まず罪を認めよ

・今日の招詞として、ローマ7:15-17を選びました。次のような言葉です「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」。
・私たちは霊と肉体を持って生きています。霊は私たちに神の子として生きよと求めますが、肉はきれい事では生きることは出来ないと教えます。「殺すな」という戒めを与えられても、私たちは戦争をやめることが出来ません。やめることが出来ないばかりか、いかに殺すかということを考えています。日本の自衛隊はクラスター爆弾を大量に保有しています。クラスター爆弾は数千の子爆弾を含んだ弾頭が空中で爆発し、子爆弾が四方に散って人を無差別に殺傷する武器です。イラクやレバノンでは多くの子どもたちが死傷し、人道に反する武器として、使用禁止の動きが国連で出ていますが、日本は廃絶に消極的です。国土を攻められたら、地雷の代わりに使おうと思っているからです。私たちは「殺すな」という基本的な戒めさえも守ることが出来ないのです。パウロは言います「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7:18-19)。
・愛もそうです。私たちの愛は、見返りを求めます。相手が自分に尽くしてくれるから、自分の利益になるから愛するのであって、相手が病気になって重荷になれば、私たちはその人を捨てようとします。肉の力がそうさせます。この肉の力を聖書は「罪」と呼びます。パウロは嘆きます「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:22-24)。私たちは罪の縄目の中に、がんじがらめに縛られているのです。この罪がイエスを十字架に追いやったのです。この罪が自分の中にある以上、イエスを殺したのは、私なのです。

3.罪の認めが、救いの第一歩になる

・ペテロの説教を聞いて、心を打たれた人々はペテロに聞きました「私たちはどうしたらよいですか」(2:37)。人々が自分の置かれている状況を認識したのです。その人々にペテロは答えます「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」(2:38)。罪を赦していただくとは復活のキリストに出会うことです。十字架は私たちの罪を告発します。ペテロも十字架を通して、自分の罪を知りました。「あなたのためなら死んでもよい」とイエスの前で公言したペテロが、お前もイエスの仲間だろうと問われると、「そんな人は知らない」と否定します。そのペテロが復活のキリストに出会って、罪が赦されたことを知りました。復活は罪からの解放、赦しのしるしです。この復活を知るためには、私たちは自分の罪をまず認める必要があります。先日、現職の農林水産大臣が自殺しました。犯した罪を認め、悔い改めることを拒否したからです。この出来事を通して、罪の承認こそが悔い改めを生み、悔い改めは人を命に導くことを、私たちは改めて知らされました。罪を認めない限り、救いは来ないのです。
・ペテロは「終わりの時は来た、そのしるしとして私たちは聖霊を受けた」と主張しました。私たちは世の終末がいつ来るかは知りませんが、私たち個人は遅かれ早かれ死を迎えます。もし私たちが殺人を犯した死刑囚ならば、私たちは刑の執行が今日か明日かとおびえて日々を過ごすでしょう。私たちが必ず死ぬということは、私たちに死刑が宣告されていることです。私たちは、刑の執行に怯えている死刑囚なのです。私たちにとって今は終末の時なのです。ペテロの説教を聞いた人々が「兄弟たち、私たちはどうしたらよいですか」と尋ねたように、私たちも「どうすればこの死から逃れることが出来ますか」と尋ねるべき時なのです。
・ペテロは「邪悪なこの時代から救われなさい」と言いました(2:40)。この世は、弱肉強食の世界です。肉の欲が支配しています。人の罪の総和が、世の邪悪を形成しています。「非効率な企業は去れ」として、中堅・中小企業は淘汰され、そこで生じる大量失業者は自己責任だと放置されます。学校では、成績の悪い生徒は切捨てられます。何故地方の商店街が軒並みシャッター通りになったのか、非効率な個人商店は要らないと宣言されたからです。何故、多くのフリーターやニートが生まれているのか、学校や会社をドロップアウトしたあなたが悪いとされているからです。暴力的な社会の中で、私たちは怯えて暮らしています。「邪悪なこの時代」から、私たちは自分の人生を取り戻す必要があります。人の評価に一喜一憂するのではなく、やるべきと思うことをする人生です。イザヤは言います「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:4)。人ではなく、神により頼む人生こそ、この罪の世から、私たちを自由にします。
・悔い改めてバプテスマを受けた者は、教会の一員となります。教会では、毎週の礼拝で、十字架と復活が語られます。バプテスマを受けて、私たちは罪から解放されますが、肉の身体を持ち、肉の世に住む限り、肉は私たちを縛ります。その結果、私たちは新しい罪を犯し続けます。バプテスマは救いの出発点であり、完成点ではありません。だから、私たちは、十字架を見つめ続けなければいけない、悔い改め続けなければいけないのです。そして復活の知らせを、赦しをいただいて、また新しい生活に入っていく。そこに毎週、教会の礼拝に招かれることの意味があります。

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