江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年7月15日説教(ガラテヤ6:1−10、信仰による分かち合い)

投稿日:2007年7月15日 更新日:

1.肉ではなく、霊によって歩め

・私たちはペンテコステの日から、使徒言行録を読んできました。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下り、弟子たちは福音を語り始め、イエスを救い主と信じる人々が起こされ、エルサレムに教会が生まれました。そのエルサレム教会は迫害を受けて、サマリヤやシリアに押し出され、そこにも教会が生まれていきました。異邦人教会です。異邦人教会はやがて、キプロスや小アジアへ宣教師を派遣し、ガラテヤ、エペソ、コロサイ等にも教会が生まれて来ました。しかし、福音の広がりと同時に、いろいろの問題が生じてきました。ガラテヤ教会にも問題が起こりました。
・ガラテヤ教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが立ち去った後、エルサレムから派遣された教師たちが来て、「人は信じるだけでは救われない。救われたしるしとして割礼を受けなければいけない」として、人々に割礼を求め、教会に混乱が生じていました。エルサレム教会の人々はユダヤ教の伝統の中で育ってきた人々ですから、救いのしるしとして割礼を受けることは当然だと考えていたのです。しかし、パウロはこの割礼に猛然と反対し、ガラテヤ教会にあてた手紙の中で、次のように言います「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(ガラテヤ2:21)。
・パウロは続けます「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(5:6)。割礼を受ければ救われるのであれば、キリストは何のために死なれたのか。人はキリストの十字架の恵みによって救われ、キリストによって変えられ、新しい生き方をするのだとパウロは言います。それが5章13節です「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。人はキリストの霊をいただくことによって、自分の中にある肉の欲が、霊の愛に変えられていきます。それは具体的にどういうことか、どのように実践すべきかを、パウロは教会の人々に伝えます。それが今日、お読みするガラテヤ6章の「信仰に基づいた助け合い」の箇所です。
・パウロは言います「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(6:1)。私たちはバプテスマを受けてキリストの者になりましたが、それでも罪を犯し続けます。ではバプテスマを受けて何が変わるのか、それは自分が罪を犯し続ける存在であり、キリストに赦されて現在を生きていることを知ることです。キリスト者は自分が罪人であることを知るゆえに、相手の罪を責めなくなります。そこに柔和が生まれ、この柔和が交わりを生みます。それが2節の言葉です「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。重荷とは、肉の働きから来る罪との戦いです。誰かが罪を犯して苦しんでいるのならば、一緒に苦しみなさいということです。間違っても、「自分はそんな罪は犯さない、罪を犯す人は弱いのだと思い上がってはいけない」とパウロは戒めます。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」。そしてパウロは言います「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(6:5)。私たちの行為は最終的に神の御前で審判を受けます。その時、あの人に比べて悪いことはしていないとか、世間の人は賞賛してくれた等の言葉は何の意味も持たなくなります。神の前に立って恥ずかしくないように振舞いなさいとパウロは勧めているのです。

2.教会の実生活の中で

・パウロは私たちに言います「誰かが罪を犯しても、あなたはそれを責めないで、柔和な心で相手を諭しなさい。そして相手の重荷を担いなさい」。これが教会の現場ではどのように働くのでしょうか。杉田峰康というクリスチャン・カウンセラーの方がいます。福岡県立大学や九州ルーテル学院大学で精神分析を教えておられる先生ですが、先生は「ワンダフル・カウンセラー・イエス」という著書の中で、次のような事例をあげておられます。「M子さんは二児の母親だが、職場の上司と親しくなり、二人の子を生んだ。父親は二人を認知したが、妻と結婚生活を続けていた。やがて父親は妻と別居し、M子さんと同居したが、今でも内縁関係で正式な結婚はしていない。子どもたちが大きくなって近所の教会学校に通い始め、M子さんも誘われて礼拝に出席するようになった。M子さんは自分の生き方がこのままでよいのか牧師に相談したところ、牧師から“あなたが礼拝に出られると、他の信徒のつまづきになるので、教会には来ないでほしい”と言われ、それ以来、教会に行かなくなった」。
・杉田先生は聖書の使信の立場から、この事例を次のように評価しておられます「福音とは人間のあり方がどんな状態であろうとも、それを価値判断の条件にせずに、神が無条件に愛して下さるということです。私どもが正しいか否かを査定して、救われるか救われないかを決めるのではなく・・・神が私どもの状態を条件にしないで、ひたすら神の恵みの賜物として救うのだと決断なさったというメッセージが福音です」。ここにガラテヤ6章の見事な釈義があります。神が救うと宣言された者を、私たちが救わないというのが律法主義であり、だからパウロは律法主義の代表としての割礼に反対しているのです。
・杉田先生は続けます「心理療法における最も重要な要素は“共感”です。共感とは、自分の意見や気持ちを置いておいて、相手の気持ちや考えを相手の立場から理解することです。・・・この共感の概念は、キリスト教の“愛”の考え方と一致しています」。共感という行為を通して、信仰者は相手の重荷を負っていくのです。しかし、同時に「神の愛には犠牲の苦しみが伴っていることを忘れてはいけない」と杉田先生は述べます。この事例では、M子さんは本来あるべきところから脱落しているのであり、そこには悔い改めが必要です。その悔い改めを「柔和な心で」勧めるのが、キリスト者の愛だとパウロも言っています。

3.共感する交わり

・今日の招詞に〓コリント11:29を選びました。次のような言葉です「だれかが弱っているなら、私は弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、私が心を燃やさないでいられるでしょうか」。先週、私たちは「憐れむ」という言葉が、ギリシャ語スプランクニゾマイであることを学びました。スプランクノン=はらわたという言葉から派生している言葉で、イエスは病人や罪に悩む人を見て「はらわたがちぎれるほどの憐れみを覚えられた」ことを知りました。これが共感、愛です。
・パウロはガラテヤ6:7で「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」と言います。口語訳では「良い物を分け合いなさい」です。牧会者と会衆の間で、霊の実を分かち合うことを指しています。牧会者はパウロのように、「だれかが弱っているなら、私も弱り、だれかがつまずくなら、私の心も燃え」ています。教会員の方が弱っていればすぐに気づきますし、教会員の方がつまづいて礼拝を休まれた時、一番つらいのは牧会者です。医者は薬や手術等の手段を持ち、弁護士は示談や裁判で物事を解決していくことが出来ますが、牧会者が持つのは聖書のみで、その御言葉は相手が心を開いて下さらない限り、伝わりません。
・そこで必要なことは「良い物の分かち合い」です。牧会者の願いを会衆が共有して下さることです。牧会者に心を閉ざす人も皆さんには心を開くかもしれない、牧会者が慰めることの出来ない方も皆さんであれば慰められるかもしれない。私たちの教会では、水曜日の午前と夜に祈祷会を開き、聖書を学んだ後で、分かち合いの時を持ちます。それぞれの方が祈りの課題を出され、その課題を出席者で共有していきます。ご自分の課題を出される方もあれば、弱っておられる方、つまづいておられる方の近況を話される方もあります。その後、共に祈ります。その時、「良い物の分かち合い」が始まり、重荷の担い合いが始まります。この担い合い、分かち合いこそ、教会の業です。
・パウロはガラテヤの人々が割礼を受けることに強硬に反対しました。それは割礼を受けることによって、救いの決定権を人間の側が持つようになるからです。「割礼を受けたのだから救って下さい」と神に迫っていくようになります。律法主義は自分の行いの正しさを神の前に持ち出すのです。そこでは「自分は正しい」という主張はあっても、心の変革は生じません。福音は、無条件で人間を赦し救って下さる神の憐れみを信じることです。この無条件の救いが人間の変革をもたらすのです。この変えられた人間の集まりが教会であり、教会こそ分かち合い、担い合いが出来る唯一の場です。
・ヨハネ8章の「姦淫の女」のことを思い起こして下さい。ある女性が姦淫の現場を取り押さえられ、律法学者やパリサイ人は得意になってこの女性をイエスの前に連れて来ます。彼らは、「モーセの律法に従ってこの女を処罰するのか、それとも赦すのか」とイエスに迫ります。イエスは彼らに言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8:7)。告発者たちはだれもいなくなりました。イエスは女性に言われます「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。ガラテヤ6:1「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」という具体例がここでなされています。ここに一人の女性が新しい命を得ました。先のM子さんの事例と対照的です。同じ出来事が、対応する人によって、一方は人を生かし、他方は人を殺します。分かち合い、担い合いは人の生死に関る問題なのです。「良い物を分かち合いなさい」、「互いに重荷を担いなさい」。この言葉を、私たちの教会形成の指針に出来れば、この教会もまた神の国になって行きます。

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