江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年7月8日説教(使徒言行録20:7-12、死からの回復)

投稿日:2007年7月8日 更新日:

1.死んだ青年のよみがえり

・私たちは聖霊降臨節に入って使徒言行録を読み続けています。使徒言行録は使徒たちの伝道を記述した書ですが、その主役は使徒ではなく、聖霊です。ペンテコステの日に弟子たちに下った聖霊は権力者を恐れて逃げ惑っていた弟子たちに語る力を与え、その言葉はイエスを十字架につけた民衆を悔い改めに導きました。聖霊は病の人をいやし、死んだ者をよみがえらせ、異邦人にも働きかけて、主イエスを信じる心を与えました。そして教会が生まれ、人々は主日ごとに礼拝に参加しました。その礼拝においては、説教が語られ、愛餐の食事会が持たれ、多くのいやしが為されました。今日、私たちが読みます使徒言行録20章では、三階の窓から落ちて死んだ一人の若者が、パウロの力により死からよみがえった記事が記されています。
・パウロはローマ各地を巡って伝道し、その結果、多くの異邦人教会が生まれました。しかし、エルサレム教会は依然として、割礼を受けない異邦人教会を快く思わず、ユダヤ人教会と異邦人教会の対立は解けませんでした。パウロは両者の和解のために、異邦人教会から献金を集め、それをエルサレム教会に捧げようと計画します。献金を携えたパウロと諸教会の代表たちはコリントから陸路マケドニアに行き、そこから船で対岸のトロアスに向かいます。トロアスは小アジアの突端、海峡をはさんで、ヨーロッパと向かい合うところにある港町です。パウロたちは、そのトロアスから航路エルサレムを目指すことになりました。トロアスにもパウロの設立した教会があり、人々は出発を前にした日曜日に、パウロを囲んで礼拝の時を持ちました。
・礼拝は夜行われました。当時、日曜日は休日ではなく、人々は一日の働きを終えた後、信徒の家に集まり、礼拝を持ちました。日没まで働くのが普通でしたので、人々が集まったのは夜の7時過ぎ、礼拝が始まってパウロが話し始めたのは夜の8時ごろであろうと思われます。パウロの説教は力が入り、夜中まで続きました(20:7)。教会の人たちとはもう会えないかもしれないとの思いがあり、その熱心で説教が4時間を越えました。しかし、人間の集中力はそんなに長くは続きません。人々は昼間の労働で身体は疲れており、部屋は人いきれで蒸し暑い状況でした。うとうとする人も出てきました。
・会衆の一人、エウティコという若者は思わず眠り込み、また窓辺に腰掛けていたため、三階の窓から下に転落してしまいました。人々は驚き、礼拝を中断し、階下に駆け下ります。最初にエウティコを抱き起こしたのは、ルカであったと思われます。彼は医者でした。ルカが抱き起こしてみると、脈はなく、若者は死んでいました。ルカは言います「彼は死んだ」。そこにパウロが来て、若者を抱きかかえ、言いました「騒ぐな、まだ生きている」(20:10)。エウティコは生き返り、人々は再び三階の部屋に帰り、礼拝を続けました。

2.使徒の時代にあった癒しが何故なくなったのか

・パウロは「まだ生きている」と言いました。直訳すれば「彼の霊はまだ彼のうちにある」という意味です。若者は気を失っただけで、パウロの手当てにより息を吹き返したのだという見方もありますが、ルカが記述しているのは、そういう意味ではありません。ルカ自身が医者として「彼は死んだ」と診断したのです。その死んだ若者の命をパウロがよみがえらせたのです。ルカは前にペテロがタビタと呼ばれる婦人を死からよみがえらせたことを記しています(使徒言行録9:40)。使徒たちは、死んだ者を死からよみがえらせる力を持っていたのです。この記述は私たちに大きな反省を迫ります。使徒の時代にあったいやしが、何故、現代の教会からなくなったのかという迫りです。
・先に見ましたように、当時の人々は何時間にも及ぶ礼拝を持ちました。トロアスでは、礼拝は午後8時ごろに始まり、終わったのは明け方ごろです。間にエウティコの事故による中断や愛餐の食事会が挟まっていましたが、足掛け9~10時間にも及ぶ礼拝を持ったのです。しかも彼らは昼間働いた後の夜に集まって、それだけの時間の礼拝を持ったのです。そこに見られるのは、疲れた身体に鞭打ちつつ、御言葉をしっかり聞こうと必死になっている人々の姿です。この熱心さがいやしを生んで行きました。
・何故人々はそれほど熱心に神を求めたのでしょうか。それは、神以外に希望がなかったからです。病気になった時、普通の人は医者にかかることは出来ませんでした。治療費が払えなかったからです。病気から救われるかどうかはその人の自然治癒力に頼るしかなかったのです。体の弱い人は死ぬしかなかった、当時の平均寿命は40歳以下であったと思われます。また、仕事をなくしたり、働き手が病気になった時には、人々はだれかに食物を恵んでもらうか、子どもを奴隷として売るか、餓死するしかありませんでした。生きることは過酷であり、神の憐れみにすがるしかない生活だったゆえに、彼らは熱心に神を求めました。
・今日の私たちは、病気の治癒を医師に委ねます。医師は薬を投与し手術を行い、多くの病気は治されます。生活が苦しくなれば、区や市の福祉事務所が生活保護を支給し、最低限のお金が付与されますから、餓死することも子どもを身売りする必要もなくなりました。現代は全てが満たされて、神の働く余地がなくなったのです。神を必要としなくなりましたので、礼拝は熱心さを欠くようになりました。礼拝時間は1時間、長くても2時間になり、礼拝後に買い物に行き、遊びに出かけることも可能になりました。その結果、日曜日が主の日ではなく、単なる休日になってしまいました。日曜日が休日になったのは紀元4世紀です。教会は長い間、ローマ帝国の迫害に苦しめられましたが、主が復活された日曜日を主日として礼拝を守り続けました。その教会の信仰が人々の心を動かし、313年にローマ帝国はキリスト教を公認、321年には日曜日強制休業令が出され、日曜日が休みの日になりました。日曜日休日は教会が血を流して勝ち取ったものです。それを私たちは今、単なる休日に変えてしまいました。その結果、礼拝から命がなくなってしまっています。日曜日を主に捧げる日としてどのように過ごすか、大事なことが問われています。

3.いやしをふたたび私たちの手に

・今日の招詞として、第二コリント1:4を選びました。次のような言葉です。「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。
・今日の私たちは病気の治療を医師に委ね、貧しい人の生活改善を福祉事務所に委ねています。しかし、そのことで、私たちは幸福になったでしょうか。多くの人が人間関係で悩んで心の病にかかりますが、心の病は薬を飲んでも治りません。平均寿命は80歳に延びましたが、高齢化がもたらしたものは、寝たきりや認知症になるかもしれないとの恐怖です。生活保護を受ければ当面の生活は保障されますが、心の誇りは失われます。子どもを大学に進学させたいと願っても、贅沢だと拒否されます。グレーゾーン金利の撤廃で金融会社の与信管理が厳しくなり、パチンコ店の倒産が増えたと聞いています。人々は消費者金融から金を借りてまでパチンコをしていたのです。心の虚しさを埋めるためです。私たちは幸福ではない、人生は相変わらず過酷なのです。物事の本質は2000年前と何も変わっていないのです。
・私たちは再び信仰の熱心を取り戻す必要があります。マタイ福音書はイエスが人々を見て「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と記述します(9:36)。「憐れむ」という言葉はギリシャ語スプランクニゾマイという言葉ですが、スプランクノン=はらわたという言葉から派生しています。「はらわたがちぎれるほどの」、あるいは「わらわたが突き動かされるほどの」の意味です。私たちもまた「飼い主のいない羊のような」状況にあり、それを見てイエスは「はらわたが突き動かされるほどの憐れみを覚えて」おられ、そのような私たちを慰めるために、この地上に来られました。パウロは言います「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる」。慰める=パラクレオーとはパラ=傍らに、クレオー=呼ぶ、傍らに呼ぶという意味です。神は私たちと共にいて、求めれば答えて下さるのです。
・今、中国では「家の教会」が非常な勢いで伸びているそうです。政府公認教会の信徒数は1000万人といわれていますが、非公認の「家の教会」では信徒数は8000万人を超えているといわれています。家の教会では使徒時代と同じように、信徒の家に人々が集まり、聖書を読み祈る集会ですが、政府の公認がないためにしばしば指導者が逮捕される等の迫害を受けています。家の教会の指導者の一人ブラザー・ユンは次のように述べています「西洋では奇跡やしるしや不思議な業は起こらないが、中国ではたびたび起こる。何故だろうか。西洋にはたくさんのものがあり、すべてのものに保険がある。ある意味、神は必要ないのだ。父が胃がんで死にかけた時、私たちは全てを売って治そうとした。全てのものがなくなった時、神しか希望が残っていなかった。絶望の中で神に向き合い、神が慈悲深く祈りに答えて、父をいやしてくださるのを見た。そこで私たちは、こんなことが出来る神なら何でも出来るだろうと思い、信仰をどんどん膨らませ、多くの奇跡を見るに至った」(ブラザー・ユン「家の教会の奇跡と感動の物語」から)。
・ここに私たちが失った使徒時代の信仰があります。おそらく中国では経済的貧困ゆえに奇跡が起こるのでしょう。しかし、精神的貧困という意味では、私たちも同じです。私たちが幸福ではないということは、私たちが死んでいるということです。そして聖書は、「もう死んだ」と宣言された人間が、「まだ生きている」と回復する出来事が教会では起こりうることを告げています。私たちは主の憐れみなしには生きていけない状況下にあるのです。それを知り、ひたむきに求めた時、主は私たちを慰めて下さる。そして、私たちが十分に主の憐れみをいただいた時、他者を慰める力が与えられます。今日一日を主に捧げることによって、多くのものを私たちはいただくことを覚えたいと思います。

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