江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年4月22日説教(ルカ24:36~43、弟子として派遣される)

投稿日:2007年4月22日 更新日:

1.信じない弟子たちのために三度現われるイエス

・復活節の今、私たちは、ルカの記すイースターの日の出来事を学んでいます。その日の朝、イエスの遺体を清めるために墓に向かった女性たちは、イエスの墓が空であるのを発見しました。その時、天使が現れ、「イエスはここにおられない。復活された」と告げられ、弟子たちのところに急ぎます。しかし、弟子たちは信じませんでした。その日の午後、エマオに向かう二人の弟子たちにもイエスが現れましたが、二人の心の目は閉じて、イエスとわかりませんでした。しかし、イエスがパンを取り、祝福して裂かれた時、目が開け、二人はイエスが生きておられるのを知り、急いでエルサレムに戻ります。その日の夜、イエスはみたび弟子たちの前に現れます。今日はルカ24章後半を通して、イースターの夜の出来事を聴いていきます。
・夜遅く、クレオパたちがエマオからエルサレムに戻った時、11人とその仲間の弟子たちは集まって、「イエスがペテロに現れた」と話していました。そこにクレオパからも「私たちもイエスに出会った」という報告があり、弟子たちの興奮はいやがうえにも高まっていました。その時、イエスご自身が彼らの前に現れました。弟子たちは呆然としてイエスを見つめます。ルカは「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と記します。ペテロは「主に出会った」と報告し、クレオパも同じ報告をしていますのに、今、イエスが目の前に来られると、「彼らは恐れおののきます」。復活とはそれほどに信じるのが難しい出来事なのです。
・イエスは弟子たちに言われます「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある」(24:38-39)。今、目の前におられるイエスの手と足には、十字架に打ち付けられた時の釘の跡がありました。その釘跡を見よとイエスは言われます。さらには、自分が亡霊でないことを示すために、弟子たちと共に食事まで取られます。ここに至って初めて、弟子たちは、このお方が十字架に死なれたナザレのイエスであることがわかり、喜びに包まれます。
・ナザレのイエスこそが、よみがえられたキリストであるとルカは主張します。これはとても大事なことを私たちに教えます。この方は生前、罪人として社会から排除されていた徴税人やライ病者に近づいていかれ、「あなた方の苦しみを私は知っている」と言われた方です。この方は、十字架につけられた時、一言も相手をののしることなく、自分を殺そうとする者の許しを祈られた方です。この方は、自分を見捨てた弟子たちのために、何度もその復活の身体を見せてくださった方です。この方が私たちの主なのです。ですから、私たちも人に裏切られても絶望せず、人が評価しなくともやるべきことを行っていくのです。ナザレのキリストがそうされたからです。
・マザーテレサの次の言葉は私たちの心を打ちます。「人は不合理、非論理的、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと思われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。・・・助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの最良のものを、世に与えなさい。けり返されるかもしれません。でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい」(マザーテレサ 愛の花束から)。ナザレのキリストがそうされたから、私たちもそうする。マザーの言葉にはその精神がみなぎっています。

2.私たちの復活のキリストとの出会い

・ルカ24章の記事はヨハネが伝えるイエスの顕現記事と密接に関係しています。おそらく同じ体験を別の視点から述べたものです。ルカの記事をより理解するために、ヨハネ20章の記述を見てみたいと思います。ヨハネは、「その日、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20:19)と記述します。弟子たちは「この人こそ」と信じたイエスが十字架で死なれたことに失望し、生きる目標を失くして、打ち沈んで家に閉じこもっていました。彼らは、イエスのために死ぬ覚悟を決めていましたが、実際には怖くなって逃げ、今は、イエスを捕らえた勢力が自分たちも捕らえるのではないかと恐れて、家の戸に鍵をかけていたのです。
・その弟子たちにイエスが現れ、ご自分の手とわき腹をお見せになりました。そこには十字架につけられた時の釘穴と、刺された時の槍の跡が明白に残っていました。弟子たちはその傷を見て、ここにおられる方が、十字架で死なれたイエスであることを信じることが出来、喜びに包まれます(20:20)。しかし、その時、弟子の一人、トマスはいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言ってもトマスは信じません。彼は言います「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(20:25)。その彼のためにイエスが再び体を示される出来事が起こります。復活から8日目にイエスは再び現われ、トマスを見つめて言われます「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい」(20:27)。
・トマスは何故、信じることが出来なかったのでしょうか。イエスは弟子たちの群れに現れましたが、彼はその時、群れにいませんでした。だから復活のイエスに出会えなかった。しかし、トマスはその群れに帰って来ました。帰ってみると、他の弟子たちは「私たちは主を見た」と喜び沸き立っています。彼は自分一人が取り残されていることに腹を立てますが、それでも群れを離れませんでした。だから、イエスが再度現れた時、トマスはイエスに出会い、その出会いが彼に命と力を与えるようになります。人は一人では信仰をまっとうすることはできないことをヨハネは私たちに教えます。復活のイエスは最初に婦人たちに現れました。次にはエマオに急ぐ弟子たちに現れました。最後に11人の弟子たちに現れました。いずれも複数の人です。救いは、「私ではなく、私たち」に与えられます。私たちは教会を通して、復活の主に出会うのです。言い換えれば、教会を離れたら、私たちは復活の主に出会うことはなくなるのです。ここに教会の意味があります。

3.弟子としての派遣

・今日の招詞にルカ24:46-48を選びました。次のような言葉です「言われた『次のように書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。
・弟子たちが復活を信じたのは、復活のキリストと出会ったからです。私たちが復活を信じることができるとしたら、それは私たちも復活のキリストに出会った時、復活が自分の出来事になった時です。その時、私たちはもはや死を恐れる必要はなくなり、死の縄目から解放されます。死が終わりではないから、現在を大事にする生き方ができるようになります。死に勝たれた方がおられるから、現在がどのように暗く、出口が見えないとしても、希望を失わずに生きていくことが可能になります。復活の希望こそ、人生を真の人生とします。
・教会はこの復活信仰の上に立てられています。私たちは日曜日を「主の日」と呼び、礼拝を守りますが、それは十字架で死なれたイエスが、日曜日に復活されたからです。私たちは日曜日ごとに復活の主に出会うために教会に来ます。その復活されたイエスは、私たちに「証人としてあなたの経験した出来事を伝えなさい」と命じられました。その命令を受けて弟子たちは宣教を始め、教会が立てられて行きました。教会はエルサレムに生まれ、ローマ世界に広がり、ヨーロッパで育ち、アメリカに行き、日本にも伝えられました。アメリカの支援により新小岩の地に教会が立てられ、新小岩教会を母体としてこの篠崎教会が立てられました。篠崎教会が立てられたのは、新小岩教会の人たちが、イエスの宣教命令を自分たちへの言葉として聞いたからです。自分たちだけの信仰生活を守るのであれば、篠崎の地に教会を立てる必要などありません。そうではなく、篠崎の人々にイエスの言葉を伝えるために、新小岩教会の人々は財政的、人的な重荷を自ら背負って、この地に教会を立てました。
・私たちはこの宣教命令をどのように聞くのでしょうか。私たちが自分の信仰生活を守るだけであれば、ここに教会がある必要はありません。今、多くの人が小さい教会を離れて大きな教会に移動しています。大きな教会は教会員がたくさんいるから献金負担も軽いし、奉仕も誰かがしてくれる、重荷を担わなくとも教会生活ができるからです。それに対し、小さい教会の場合は、教会員が少ないから一人一人への負担が経済的にも、また奉仕の面でも重くなります。私たちがただ礼拝を守りたいだけであれば、この教会は不要です。近くに他の教会もある、無理して篠崎教会を維持する必要はない。そうではなく、この地域の人に伝道することが教会の使命であり、それが復活の主が命じられたことだと私たちが理解する時だけ、ここに教会が必要となります。だから、私たちは、この教会に、自分の出来る範囲のお金や時間を捧げるのです。この教会でいやなことがあっても、教会から出て行くことをしないのです。
・私たちが重荷を背負わない限り、復活の主と出会うことはないでしょう。何故なら主自ら重荷を負われたからです。私たちが、自己の救いを、あるいは自己の満たしを求めて、この教会に来ても、復活の主との出会いはないでしょう。主は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)と言われる方だからです。救いは個人の出来事ではなく、共同体の出来事です。だから私たちはここに教会を立て、この教会を通して、復活のキリストと出会うことを共に覚えたいと願います。

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