江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年12月23日説教(マタイ10:34-39、後世への最大遺物)

投稿日:2007年12月31日 更新日:

1.イエスは剣をもって来られた

・クリスマスを前に、この数週間、旧約聖書から御言葉を聞いてきました。旧約聖書が私たちに告げますのは、人間の歴史は罪の歴史であったと言うことです。罪とは創造主である神に背く、具体的には神よりも自分を大事にする、その自己愛が同じく神の被造物である他者をむさぼり、その結果争いが生まれてきました。旧約の預言者エレミヤは言います「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも正しい者となりえよう」(エレミヤ13:23)。クシュ人とはエチオピア人のことです。黒人がその皮膚を、ひょうがそのまだらを変えることは出来ないように、人間は善になることは出来ないとエレミヤは嘆いているのです。人は罪の縄目の中にあり、外側からいくら戒めが与えられても守ることは出来ない。人の本質は悪であり、他者と争いあい、殺しあう存在だ。人が救われるためには、メシヤが来るしかないとエレミヤは救い主を待望しました。預言者イザヤは、その救い主は、「平和の君」として来られると歌いました(イザヤ9:5)。
・その救い主が来られたと新約記者ルカは証言します「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)。救い主が来られた、平和の君が来られた、これで地には平和が来る、争いは終わると人々は期待しました。ところがその待望されたメシヤ=キリストは、「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ10:34)と言われます。待望された平和の君が来られたのに、その君は「平和ではなく剣をもたらすために来た」と宣言されています。理解するのに難しい言葉です。今日はこのマタイ10章の言葉を中心に、クリスマスの意味を考えてみます。
・イエスは何故このようなことを言われたのでしょうか。それはイエスの考えられる平和と、私たちの思う平和が異なるからです。私たちの思う平和とは「争いのない」状態です。争いは、誰かが圧倒的に強く、他の人が対抗できない時になくなります。「ローマの平和=パックス・ロマーナ」は、ローマ帝国の軍事力を背景に生まれました。故にローマが衰退すると、各地の民族が反乱を繰り返し、ローマの平和は崩れていきました。現代の平和=パックス・アメリカーナも同じです。アメリカの国力の衰退と共に平和は崩れていきます。
・この世の平和は武力の抑圧によって生まれる、偽りの平和です。そのような平和は本当の平和ではないとイエスは言われています。個人の生活レベルで考えても、同じことが言えます。家庭や職場や地域、あるいは国家に争いがないのは、秩序維持の強い規制が働いているからです。この世の平和は「最大多数の最大幸福」です。最大多数の最大幸福とは、少数者は抑圧の中にあっても我慢せよと言う世界です。聖書はこのような平和は本当の平和ではないと言います。聖書の言う平和=シャロームとは、民の最も弱い部分、やもめや孤児や寄留の外国人さえも満たされて生きることの出来る社会、正義が貫徹される社会です。出エジプト記は次のように言います「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」(出エジプト記22:21-23)。
・この申命記の言葉は2500年前の社会を反映していますが、現代でも状況は同じです。現代の「寡婦」とは、離婚した婦人たちかもしれません。離婚して子どもを育てている母子家庭の平均年収は224万円で、このうち稼働所得は164万円、残りは児童扶養手当等です。子どもがいると言う理由で雇用の道が閉ざされ、生きるのに必要な収入を得る道が閉ざされているのです。現代の「孤児」とは正社員の道を閉ざされている派遣やパート労働者のことかもしれません。現在では若者を中心に3人に1人は派遣・パート・アルバイト等の不安定な形態での就業を強いられており、安定した収入を得ることは難しく、結婚して家庭を持つ道も閉ざされています。また「寄留の外国人」の数も増えています。篠崎地区にも、フィリッピンや南米から来られた方が多く住まわれ、大半は低賃金労働に従事しておられます。虐げられる者がいる限り、それは本当の平和ではなく、偽りの平和です。そしてキリストによって力づけられた少数者が異議ありと声をあげる時、そこに敵対関係が生まれます。イエスが言われるように、「人はその父に、娘は母に、嫁は姑に敵対し、自分の家族の者が敵となる」(10:35-36)と言う状態が生まれます。イエスは鋭い剣で現実の偽りを切り裂かれます。

2.偽りの平和が崩れた時に真の平和が来る

・「平和ではなく剣をもたらすために来た」とのイエスの言葉は、文脈的には「イエスの弟子になるとはどういうことか」と言う枠組みの中で語られています。イエスは十二弟子を各地に派遣されましたが、その時に言われます「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(10:16)。力が支配する世界において、善であろうとする生き方は軋轢を生むだろうと言われているのです。現実に初代教会において多くの者が迫害され、ある者たちは殺されていきました。しかし、イエスは耐え忍べと言われます「あなたがたは、私の名のゆえに全ての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(10:22)。そして言われます「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10:28)。
・私たちがキリスト者としての生き方を選ぶ時、家族は反対するかもしれないが、その反対を押し切ってまで、私の弟子になる覚悟を持てるかとイエスは問われています「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない」。イエスご自身も宣教を始められることによって、家族から疎んじられています。マルコは記します「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっていると言われていたからである」(マルコ3:21)。イエスは律法を形式的に守って自分たちは正しい、あなたがたは罪人だと人々を卑しめる、パリサイ派や律法学者を批判し、そのことによって波風が立ちました。家族は「大工の子が、世の指導者たちを批判するという大それたことを行っている。気が変になってしまった」と考え、イエスを連れ戻すために来たのです。

3.捨てることを通して命に至る

・今日の招詞としてルカ 18:29-30を選びました。次のような言葉です「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」。
・イエスと弟子たちはガリラヤでの伝道を終え、エルサレムに向かっておられます。イエスに従う者たちは、イエスがエルサレムに行かれたら、支配者ローマを倒して王に就かれると思っていました。ユダヤ人にとってメシヤとはイスラエルを敵から解放する者だったからです。しかし、イエスはエルサレムで何が待っているのかを知っておられました。十字架です。イエスが捕らえられ、十字架で殺されるならば、弟子たちも無事ではすまない。だから、イエスは言われます「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない」。
・イエスが十字架につかれた時、弟子たちは、イエスのために全てを捨てる覚悟が出来ているだろうか。弟子たちにその覚悟がなかったことはやがて明らかになります。イエスが捕らえられた時、弟子たちは逃げてしまったのです。しかし、その逃亡した弟子たちが再び戻ってきます。復活のキリストに出会い、十字架で死ぬことこそ、命の道であることを知ったからです。弟子たちの多くは、その後殉教していきました。命をかけてイエスの福音を告げて死んだ弟子たちの姿を見て、多くの者がキリストに従う決意をしました。そして教会が立てられ、その教会は日本にも伝えられ、今ここにも教会が立てられています。
・生前のイエスに敵対した家族たちも、復活のイエスとの出会いを通して、イエスを神の子、メシヤと告白します。使徒言行録は記します「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった・・・彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1:13-14)。家族を一旦捨てることを通して、本当の家族の救済が出来ることを聖書は示しています。だからイエスは言われます「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(10:39)。
・明治のキリスト者内村鑑三の書いた本に「後世への最大遺物」という本があります。講演会を口述筆記したものですが、その中で内村は言います「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない」。では何をこの世に残していこうか「社会が活用しうる清き金か。田地に水を引き、水害の憂いを除く土木事業か。書いて思想を遺すことか。教育者となり未来を担う者の胸に思想の種をまくことか。これらは遺すべき価値あるものである。けれど、金や事業や思想を遺すことは、誰にでもなし得る業ではなく、また最大遺物とは言い難い。では、誰でもがこの世に遺すことのできる、真の最大遺物とは、果たして何なのか」。そして彼は言います「誰でも残せる、そして他の人にも意味のある遺物こそは、“高尚なる勇ましい生涯”だ」。内村は次のように述べます「この世の中は悪魔が支配する世の中にあらずして神が支配する世の中であることを信ずることである。失望の世の中にあらずして希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中ではなくして歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物として、この世を去ると言うことです」。
・イエスはこの世に来られました。それは私たちがこの世で幸福になるためではありません。高尚な勇ましい生涯を送れるように来られたのです。高尚な勇ましい生涯とは何か。イエスは言われます「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42)。自分のためだけではなく、他者のためにも生きる決心をこのクリスマスにした時に、私たちは本当のクリスマスを迎えるのです。

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