江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年12月30日説教(ヨハネ1:1-18、神の子として生きる)

投稿日:2008年1月1日 更新日:

1.神が人となって来られた

・先週、私たちは、クリスマスを祝いました。12月22日土曜日にイブ礼拝、翌23日に主日礼拝、24日には子ども礼拝と三日間にわたって礼拝を行いましたので、忙しい時でした。しかし、充実した時でもありました。心を一つにして、共に主のご降誕をお祝いできたからです。そのクリスマスが終わりました。クリスマスの終わりともに、私たちは新しい年を迎えます。この新しい年に向かって、私たちは、そして教会はどのような歩みをすればよいのでしょうか。それを考える時がクリスマス後の今です。今日、年内最終主日に与えられました御言葉はヨハネ福音書です。ヨハネ1章を通して、新しい年に私たちは何をなすべきかを考えていきましょう。
・ヨハネ福音書冒頭は、「初めに=エン・アルケー」と言う言葉で始まります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)。ヨハネは何故、「初めに」という言葉で福音書を書き始めたのでしょうか。ヨハネの心には、創世記1章が浮かんでいたと思います。当時、ヨハネが読んでいた聖書はギリシャ語訳聖書でその最初の書、創世記もまた「初めに=エン・アルケー」で始まります。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた“光あれ”。こうして、光があった」(創世記1:11:1-3)。「神が光あれと言われると光があった」、私たちの神は、言葉で天地を創造された。その創造の時に、言=キリストはそこにおられた、そのキリストこそナザレのイエスとして世に来られた方だヨハネは信仰告白しているのです。
・ヨハネは言います「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:4-5)。「暗闇は光を理解しなかった」、神が一人子イエスを世に送られたが、世はイエスを神の子と認めなかったとヨハネは言います。ヨハネ福音書は紀元90年ごろに書かれたと言われています。イエスが十字架で死なれてから既に60年の時が経過し、12弟子のほとんどは、迫害の中で殺されて行きました。そしてヨハネの教会もまた迫害の中にあります。ヨハネ福音書には、迫害を示唆する言葉が満ち満ちています(9:22「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」、同15:20「人々が私を迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」)。何故、私たちの同胞ユダヤ人はキリストを殺したのみならず、私たちをも迫害するのか。何故、イエスこそキリストであると信仰告白することによって、異端とされ、殺されねばならないのか。当時の社会で異端、邪教とされることは、国家の保護の外に追い出される、生命の危機を意味していました。「暗闇は光を理解しなかった」、自分たちは今、闇の中にあるとヨハネは認識しています。
・ヨハネは続けます「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:10-11)。イエスを十字架につけたのは、ユダヤの祭司や律法学者でした。祭司や律法学者は神の言葉を人々に伝える役割を担った人々でしたが、その彼らが神から送られたキリストを殺しました。何故なのでしょうか。祭司は「神殿に礼拝し、十分の一の献げ物をすれば救われる」と人々に教えました。しかし、その献げ物は祭司が生活を立てるための物になり、彼らは宗教貴族として贅沢三昧の暮らをしていました。祭司は神のためではなく、自分のための献げ物を人々に要求していたのです。律法学者は神の言葉である律法を守るように教えましたが、自らは「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好」みました(マタイ23:6-7)。律法学者もまた仕えられることを求めていたのです。祭司や律法学者たちは、自分たちは神に仕え、光の中にあると思っていましが、実は彼ら自身も闇の中にいたのです。そのことをイエスが批判されると、彼らはイエスを憎み、殺しました。
・そしてイエスの弟子として残された人々もまた、迫害の中で苦しんでいます。「世は言を認めなかった」、「民は受け入れなかった」、と言う言葉の中に、ヨハネの教会が味わっている悲哀が聞こえます。しかし、彼らは希望をなくしてはいません。多くの人はイエスを拒絶しましたが、小数の者は信じました。そして「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(1:12)。神の子が人となられたことによって、人が神の子とされる道が開けたとヨハネは言っているのです。その人々は「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(1:13)。私たちは肉の目で見れば、それぞれの両親から生まれてきましたが、霊の目で見れば、「神によって生まれた」とヨハネは言います。

2.神の子とされる

・今日の招詞にローマ8:14−15を選びました。次のような言葉です。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」。あなた方はかつては罪の奴隷であったが、今は神の子とされたのだとパウロは言います。奴隷から神の子となる、これは私たちの存在の意味が根本的に変えられることを意味します。奴隷は主人のために働く存在です。その主人がやさしく思いやりがあっても、奴隷は奴隷であり、その価値は働きによって計られます。良い奴隷とは良く働く者であり、働けなくなった奴隷は価値を失い、捨てられます。ヒトラー時代のドイツでは、障害者は「生きるに値しない生命」として、安楽死を強要されました。戦争という非常時において役立たない者を養うパンはないとして、殺されたのです。この状況は現代日本にもあります。一生懸命に働いても仕事の能率の悪い人は会社からリストラの対象として捨てられます。どんなに実績があっても体力の落ちたスポーツ選手は引退を迫られます。競争社会においては、人は人格ではなく、価値で評価され、価値の無い者は捨てられていきます。私たちの社会では、多くの人が社会の奴隷にさせられているのです。
・その奴隷であった私たちを、神は「子」としてくださったとパウロは述べます。子の価値は子であるという存在そのものにあります。働けなくなっても、役に立たなくなっても、子であるゆえに、親はその子を愛します。私たちが子にされたということは、私たちが働きや行為によってではなく、存在によって尊ばれ、受け入れられ、価値在るものとされる、その喜びの中に生きることが許されているということです。
・ヒトラー時代のドイツでは、障害者は「生きるに値しない生命」として、安楽死を強要されたという話をしました。20万人の障害者が殺されたといわれています。多くの教会は見て見ぬふりをしました。しかし、ベーテルという教会が運営していた施設では一人の患者も死なせませんでした。命をかけてナチスの命令を拒んだのです。ベーテルを作ったのはボーデルシュヴィングという牧師ですが、彼には四人の子供がいました。ある時、疫病が流行し、わずか2週間の間に子供たちが次々に死ぬという悲劇に見舞われました。彼は打ちのめされ、もがいた末、神の言葉を聞きます「四人の子供が天に召されて行った、自分の子供たちは“神の栄光の子”とされた、しかし自分の周りにはまだ神の栄光を受けていない子供たちがいる。その子供たちに仕えるために4人の子は天に召されたのだ」。ボーデルシュヴィングは西ドイツ・ビーレフェルトの郊外に小さな家を求めて、そこにてんかんの子供たち5人を集めて、共同の生活を始めます。1867年のことです。当時、てんかんは差別の対象になっていた難病でした。彼はその家をベーテル、神の家と名づけました。
・施設は発展し、事業は甥のボーデルシュヴィング牧師に引き継がれていきます。ベーテルはやがて心の病をもつ人々なども受け入れて発展し、施設全体が一つの町にまでなっていきました。1930年代には入院・収容患者は3000人にもなりました。1939年ドイツ内務省は全国の病院、療養所に対して、障害者の特別施設への移送を命じました。ベーテルにも国からの移送命令が来ましたが、ボーデルシュヴィング牧師はこれを拒否し、逮捕されました。「障害者を殺すなら、まず私たちを殺してからにしてほしい」と述べたそうです。「人は神の憐れみによって奴隷から神の子とされた、生きるに値しない命はない」として、彼らは戦い続けました。
・ナチス・ドイツという化け物のような国家の重圧の中で、このような抵抗が成し遂げられたのは、奇跡的な出来事です。この奇跡的な出来事が、一人の牧師が4人の子を失うという悲劇を通して起こされたことに注目すべきです。神の子とさせられた者は、悲しみをも祝福に変えていく力を与えられるのです。四人の子の死と言う悲しみが、数千人の子どもたちの命を救いました。私たちが1円献金を続けている久山療育園も、川野直人と言う一人の牧師の家庭に重度の心身障害を持つ子が与えられたのがきっかけになって生まれた施設です。福音書記者ヨハネが置かれた状況も厳しいものでしたが、迫害の中にあっても、彼は希望を失いませんでした。闇を切り裂いて光を創造された神は、今自分たちをも覆う闇をも切り裂いて下さることを信じていました。その信仰がヨハネ福音書という宝のような書を世に生んだのです。
・アダムは「あの女が悪い」と自分の責任を回避しましたが、アダムの子孫のボーデルシュヴィングは、「あの子の代わりに自分を殺してください」と申し出ます。聖霊はこのようなことを可能にする神の力です。そして私たちもこのような聖霊を受けて神の子とされたのです。聖霊を受けると人は変えられていく、聖霊は私たちの生活を清めていく、大きな力なのです。バプテスマを受け、聖霊=神の力をいただく、そのことを通して、私たちの人生は死から生へと移っていくのです。「神の子として生きる」とは、今の私たちにとってどういう生き方なのか。1年間そのことの意味を求める年でありたいと思います。

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