江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年10月21日説教(ルカ19:11-27、賜物を生かす)

投稿日:2007年10月21日 更新日:

1.王の物語とムナの物語

・先週、私たちはルカ17章から、「神の国は来たが、まだ完成していない。目を覚まして働きながら待ちなさい」というイエスの教えを学びました。イエスが来られて神の国が始まりました。イエスに従う者が起こされ、教会が立てられていきました。しかし、社会の現実は何も変わらず、相変わらず悪の力がこの世を支配しています。その現実の中で私たちは何をしていけば良いのか、どう生きれば良いのか。今日はルカ19章の記事を通して、それを学びたいと思います。
・ルカ19章はエルサレムに急がれるイエスと従う者たちの対話で構成されています。イエスの為された数々の奇跡の評判は、イエスに従う群集の数を増やしていました。人々はローマの植民地支配から自分たちを解放してくれるイスラエルの王を求めていました。そしてイエスこそ、聖書に預言されたメシヤであり、イエスがエルサレムに行かれるのは、都で王として即位されるためだと期待し始めていました(ルカ19:11)。その人々にイエスは彼らの間違いを正されます「私は王になるためにエルサレムに行くのではない。エルサレムで待っているのは王冠ではなく十字架だ。私の死を通して神の国は始まるのだ」と。人々にはわかりません、だからイエスは一つの例えを話されました。それが「王とムナの例え」です。ここには二つの物語があります。一つは高位の人が王の位を受けるために遠い国に出て行くという話です。もう一つは、その人が出かけるに当たり、僕たちにお金を預けていくという話です。この二つの話が混在しているから、教えがわかりにくくなっています。二つの物語を分離して考えた時、イエスが何を言われようとしているのが見えてきます。
・第一の物語は、実際の出来事を背景にしています。イエスが生まれた時、ユダヤはヘロデ王に支配されていましたが、彼は紀元前4年に死にます。ヘロデは残虐な王であり、彼の死後エルサレムでは暴動が起きました。その時、ヘロデの長子アケラオは暴動を鎮圧するために3000人の市民を殺しました。そのアケラオが王位継承の承認を求めてローマに赴いた時、エルサレム市は60人の代表をローマに送り、アケラオの即位に反対しました。3000人の血を流した暴虐者に王になって欲しくないとローマ皇帝に訴えたのです。しかし、宗主国ローマはアケラオの王位継承を認めます。王に任職されてエルサレムに戻ったアケラオは、自分の即位に反対した人々を処刑しました。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。・・・国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」(19:12-14)、また「私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」(19:27)等の表現は、アケラオとエルサレム市民の対立を背景にしています。
・第一の物語を通して、イエスは聴衆に次のように語られています。「私は王冠を要求するためにエルサレムに向かいつつあるのではない。エルサレムで私を待っているのは十字架だ。私はそこで殺され、天に旅たつ。王冠をいただくのはその天においてだ。私はやがて帰ってくる。その時、神の国を拒否する者たち、私の言葉を受け容れなかった者たちにとって、人の子の訪れは喜びではなく、裁きになるだろう。王の任職に反対した者たちが処刑されたように、信じない者にとって終末は恐ろしいものになる。だから、悔い改めなさい。まだ、間に合うのだから」。これが第一の物語を通じたメッセージでしょう。
・第二の物語は、王が僕たちにお金を預けると言う物語です。王は出かける前に10人の僕を呼び、それぞれに1ムナの金を与え、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言って旅立ちます。1ムナは100デナリ、1デナリが労働者一日分の日当、今日のお金では1デナリが1万円、100デナリは100万円ほどになります。そんなに大きなお金ではありません。やがて王は帰り、僕たちに決算を求めます。最初の僕が来て言います「御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました」。王は喜び「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」と言います。第二の僕は1ムナを使って5ムナを儲け、同じようにほめられます。第三の僕が来ました。彼は、与えられたお金を投資して万一損を出したら、主人からどんなに怒られるかを恐れて、何もしませんでした。彼は言います「御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。王はこの僕を怒ります「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。私が預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、私の金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに」(19:22-23)。
・この第二の物語は弟子たちに語られています。イエスはエルサレムで殺され、弟子たちだけが残されます。残された弟子たちは何をしたら良いのか、戸惑います。しかし、既にそれぞれの弟子に信仰が、ムナが与えられているのだから、そのムナを用いて、よき業を、伝道を行うようにとイエスは弟子たちに教えておられるのです。その時、何もしなかった怠惰な弟子は、持っているものも取り上げられる(19:26)ことになるとイエスは警告されています。

2.私たちにとってこの例えとは何を意味するのか

・イエスはエルサレムで十字架にかけられ、天に旅立たれます。彼が再び戻られるまで、「与えられたムナで商売をしなさい」と私たちは命じられています。このムナは信仰あるいは福音と考えても良いでしょう。商売をしなさいとは、具体的にはイエスの証人として、福音を伝えなさいということです。「福音」はギリシャ語ではユーアンゲリオン、「良い」という意味のユーと、「使者」という意味のアンゲロスという語が合体してできた言葉です。良い知らせは他者に伝えてこそ、良いものになっていきます。福音は大切にしまっているだけでは意味がなく、伝えられてこそ意味があり、それを自分だけのものとしてしまった時、福音は力をなくすのです。第三の僕は、福音と言う宝を与えられたのに、それを他者に伝えず、死蔵したゆえに叱責されているのです。
・三番目の僕は「恐ろしかった」から、何もしませんでした。それは福音を律法のように受け取り、聖書の教えを教条的にとらえたからです。「敵を愛しなさい」という戒めを「愛さなければならない」と義務的に受け取る時、嫌いな人を愛することが出来ない自分に気づかされ、罪を感じて暗くなります。そうではなく、敵を憎む時、最も傷つくのは自分であり、人を憎むことによって良いものは何も生まれないことに気づかされた時、私たちは人を憎むという束縛から解放されます。福音は解放の訪れ、喜びの知らせなのです。私たちに福音が与えられたのは喜んで伝えるためであり、その時、福音の種は「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」(マタイ13:23)ようになるのです。
・今日の招詞にルカ12:31-32を選びました。次のような言葉です「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。私たちが与えられた賜物(ムナ)を生かして行こうとする時、その行為は危険を伴います。投資は損失になることもあるからです。日本のクリスチャン人口は1%に過ぎません。少数者である私たちが、世に自分たちの信仰を証ししていく時、いろいろの困難が生じるでしょう。ある婦人は夫と子どもを家において主日礼拝に出ることで、家族から非難されるかもしれません。職場で、「日曜日は礼拝に出席しますから、取引先との接待ゴルフに出ることができません」といえば角がたつでしょう。また企業社会で必要悪とされている天下りや談合を批判すれば、社内で村八分になるかもしれません。
・それで良いではないかとイエスは言われます。今日の招詞の後にイエスは言われます「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」(ルカ12:33)。地上ではなく、天に宝を積みなさいと言われているのです。ノアが箱舟を造っていた時、人々は食べたり、飲んだり、娶ったりしていました(ルカ17:27)。私たちは世の人と違っても良いのです。私たちがクリスチャンであることは恥ずべきことではなく、誇るべきことなのです。もし、私たちが隠れクリスチャンになれば、ムナを何もせずにしまっておく僕と同じになるのです。私たちが日曜日に教会に来て礼拝を守っても、残りの6日間をこの世の基準で暮らしたら、私たちに与えられたムナは増えていかず、逆にある時、ムナが消えていきます。私たちがムナを用いて、隣人のために働き始めた時、私たちの中のムナは増え始め、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」ようになるのです。
・何故そこまでして信仰を証しなければいけないのか、それでは家庭生活も社会生活も成り立たないではないかと私たちは苦情を言います。その時、主は言われます「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」(ルカ 12:29-30)。信仰を守るかどうかは生死をかけた問題であり、そのことによってこの世で損をしても、神は生きるために必要なものはすべて与えて下さるのです。その神により頼んで生きることの中にこそ、本当の平和、平安があるのです。私たちはそれを知っていますから、福音を伝えていくのです。そのために、ここに教会が与えられました。今日、私たちの教会に4名の転入会者が与えられました。福音宣教の業を共に担って下さる同労者です。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」、神は必要なものを与えて下さることがここに証されています。教会こそ、この世で神の国が来たことを証していく共同体なのです。

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