江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年9月3日説教(使徒言行録13:44-51、聖霊に導かれて)

投稿日:2006年9月3日 更新日:

1.異邦人に届いたパウロの説教

・私たちは、今日、篠崎教会の礼拝に参加していますが、私たちそれぞれは各人なりの歴史、経緯を持って、ここに集まっています。私たちが今ここにいることを、偶然と思うか、あるいは神の導きと思うかによって、私たちの礼拝における態度は変わってきます。もし偶然であれば、退屈な説教を辛抱して聞かなければいけません。もし必然=神の導きによってここにいるのなら、説教を通して神の言葉を聞きます。説教は人が語る言葉です。しかし、それを神の声として聞くならば、説教は私たちの人生を変えうる出来事にもなります。今日、私たちは使徒行伝13章のパウロの説教を学びますが、このパウロの言葉がある人には神の言葉となり、別の人には呪いの言葉となっていったさまがここに描写されています。
・パウロとバルナバは、シリアのアンティオケ教会から送り出され、伝道の旅に出ました。最初はバルナバの故郷キプロスに行きましたが、次に船で小アジアのペルゲに渡り、そこからピシディヤ州のアンティオケに進みました。今日のトルコです。二人は安息日に会堂に入りました。ユダヤ教の会堂では安息日ごとに人々が礼拝に集まり、律法と預言の書(旧約聖書)が読まれた後、一人の人が立って説教します。会堂長たちは、巡回伝道者である二人のラビ(教師)が来ているのに気づき、「会衆のために励ましのお言葉があれば、話して下さい」と声をかけました。パウロは立ち上がり、「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々、よく聞いてください」と語り始めます。イスラエルの人たちとはユダヤ人、神を恐れかしこむ人々とは改宗した異邦人のことです。会堂にはユダヤ人と異邦人が集まっていたことがわかります。
・そのパウロの説教が16節から41節にかけて記録されています。パウロは旧約の歴史から説き起こし、預言されたメシア=救い主としてキリストが来られたと述べます。彼は次のように説教を締めくくりました「兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(13:38-39)。旧約聖書は「人は神の戒め=律法を守ることによって救われる」とします。しかし、人はその戒めを守ることが出来ません。「隣人を愛せ」と言われても、自分の家族や友人でない者を私たちは愛することは出来ません。家族でさえ、本当に愛せるのか、その人のために死ねるかと問われると、私たちは下を向かざるをえません。多くの人々が、律法によっては、自分は救われないのではないかと感じていました。ですから「モーセの律法では義とされなかったあなたがたにも、イエスを救い主と信じれば義とされる」というパウロの言葉は、そこにいた人々に大きな感銘をもたらしました。パウロが説教を終えたとき、会衆は「次の安息日にもまた話して下さい」と頼みました。集会が終わってからも、熱心なユダヤ人や異邦人改宗者はパウロを取り囲んで話を聞きました。
・次の一週間、アンティオケの町はパウロの説教の話で持ちきりでした。安息日になると、ほとんど町中の人々が言葉を聞こうとして集まってきました。特に異邦人改宗者がたくさん集まってきたと思われます。ユダヤ教の礼拝には異邦人も参加することが許されていましたが、彼らがユダヤ教に改宗するためには、割礼を受けてユダヤ人となり、モーセ律法を守ることを求められました。多くの異邦人は、聖書の教えには心惹かれましたが、割礼を受けることはためらい、律法を守りきることは難しいと感じていました。ですから「異邦人は異邦人のままで、割礼も律法もなしで救われうる」というパウロの言葉は彼らに解放の福音として響きました。

2.福音を拒絶したユダヤ人たち

・しかし、あまりにも多くの異邦人が会堂に集まってきた事は、ユダヤ人たちに腹立たしさを与えました。パウロの説教は元々、正統派ユダヤ人には危惧を与えるものでした。会堂長たちは異邦人に割礼を受けることを求めましたが、パウロは「割礼を受ける必要は無い」と明言しました。彼らが大事にする律法を、パウロは「人は律法では救われない」と述べました。彼らは先週の説教は我慢して聞いていましたが、パウロの説教を再び聴くためにこれほどの異邦人が集まってきたのを見て、彼らの苛立ちは募りました。使徒行伝は「ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」と記述します。パウロの説教を妨害しようとしたのです。それでもパウロとバルナバは話し続けました「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」(13:45)。
・「神の選びの民とされているあなたがたが神の招きを受け入れないならば、神はあなたがたを捨て、異邦人を新しい選びの民とされるだろう」と明言したわけです。ユダヤ人指導者たちは怒り、町の有力者を扇動して、パウロとバルナバを町から追い出しました。この出来事は、表面的に見れば伝道の挫折です。しかし、このことを通して、使徒たちの宣教は異邦人伝道が主になり、福音が世界中に広がっていくきっかけとなりました。異邦人が救われるためにはユダヤ人が砕かれなければならなかったのです。後にパウロはローマ教会への手紙の中でこう述べています「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」(ローマ11:11)。もしユダヤ人が福音を受け入れれば、キリスト教はユダヤ教ナザレ派で終わったことでしょう。ユダヤ人が福音の受け入れを拒否したことにより、福音が異邦人にも伝えられることになり、キリスト教は民族宗教から全人類への福音となっていったのです。神の不思議な業がここにあります。

3.聖霊の導きの中で

・今日の招詞としてイザヤ49:6を選びました。次のような言葉です「こう言われる。私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。
・この言葉はバビロンに捕囚として捕らえられていたイスラエル人に語られています。紀元前587年、イスラエルはバビロニア帝国の攻撃を受け、首都エルサレムは焼かれ、国の主だった人々は捕囚としてバビロンに連行されました。長い時が過ぎ、人々が帰国の夢を失いかけた時、主の言葉が預言者を通して語られます「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と」(イザヤ40:2)。あなたたちは十分苦しんだ、罪の償いは終わった、エルサレムに帰る時が来たと預言者は語りました。預言者は続けて、何故人々がこのような苦しみを受けたのかを説明します。それは「あなたがたが神の民として精錬され、主の救いを地の果てまで伝えるためだ」と。聖書はイスラエルこそ神に選ばれた民だと言います。それはイスラエルを通して諸国の民が救われるためです。そのためにこの厳しい試練をあなたがたは受け、今試練は終わった、国に帰ってイスラエルを再建し、諸国に神の恵みを告げ知らせよと。
・イスラエルの民は預言通り、パレスチナに帰り、国の再建が始まりました。しかし、彼らは生きるのに精一杯で、異邦人伝道の役割を果たそうとはしません。それどころか、復興が進むにつれ、自分たちは神の選民だとの意識が再び高まり、異邦人を汚れた者として排斥するようになります。そしてイスラエルの救いのために神が遣わされたイエスを拒否してこれを殺し、イエスの弟子たちの宣教をも妨げようとしました。私たちが今日、使徒行伝13章で見たとおりです。しかし、神は同時に不思議な業をされています。
・バビロニアによって国が滅ぼされた時、多くの人々が各地域に散らされていきました。デイアスポラと呼ばれる放浪ユダヤ人です。彼らはアジアやアフリカ、ヨーロッパに逃れ、各地に居住区を造って住み、シナゴークと呼ばれる会堂を中心に信仰生活を守りました。パウロの時代、北アフリカのアレキサンドリアには100万人のユダヤ人が住み、ローマにも4万人のユダヤ人がいたと記録されています。離散したユダヤ人たちは当時の共通語であったギリシャ語を話し、旧約聖書もギリシャ語訳(70人訳)で読まれました。こうして、各地のシナゴークにギリシャ語聖書を読み、安息日ごとに礼拝する人々の群れが置かれました。パウロやバルナバの伝道はこのシナゴークを基点としてなされています。歴史的に見れば、イスラエルは戦争に負けて国を失い、ある者は捕囚され、別の者は遠いアジアやヨーロッパまで流れて行きました。民族の悲劇です。しかし、神の眼から見れば、イエスが来られ、パウロが伝道を始めたとき、既に世界中にシナゴークのネットワークが張られ、福音はそのネットワークを通じて広がっていきました。人間の目には悲劇と思える出来事も、神はそれを良い目的のために用いられます。
・この神の不思議な業を知った者は、今日たまたまこの教会に来て、たまたま使徒行伝13章を読んだとは思いません。私たちは今日、神に招かれて、この教会に来て、神の言葉を聞いたのです。それは私たちが新しいイスラエルとして、神の良い知らせを運ぶ者として召し集められたことを意味します。私たちはそれぞれの人生のある時、キリストに出会いました。そしてキリストを通して、神が私たちを愛しておられること、私たちが罪から自由になること望んでおられることを知りました。現実の私たちの生活の中にはいろいろな問題があります。すぐには解決が出来ないような苦しみをそれぞれが持っています。しかし明日に対する不安はありません。なぜならば使徒を通して次のような神の言葉を聴くからです「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(〓コリント1:10)。

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