1.モーセの召命
・降誕前第六主日を迎えています。6週間後はクリスマスです。クリスマスではよく“インマヌエル”という言葉が語られます。マリアに受胎告知がなされた時、御使いが “インマヌエル”という言葉で、生まれる子を預言しています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、“神は我々と共におられる”という意味である」(マタイ1:23)。神が私たちと共におられる、そのしるしとして一人の幼子が与えられると預言されています。このインマヌエルという言葉は元々へブル語で、旧約聖書の言葉です。そして聖書の中で、この言葉が最初に用いられる箇所が出エジプト記3章、今日読みます聖書箇所です。
・出エジプト記3章は、モーセの召命を描いています。モーセはミディアンの地で羊を飼っていましたが、ホレブ山で神に召命を受けたと出エジプト記は記します。モーセは元々エジプトに住むヘブル人でした。ヘブル人(イスラエル人の別名)の原語はイブリー=渡り者です。彼らは、家畜を飼って放浪する遊牧の民でしたが、族長ヤコブの時代に、カナンで飢饉があり、一族は食糧を求めてエジプトに南下し、そこに住み着きます。それから400年の時が過ぎ、ヘブル人の数が増えてきました。エジプト王は、国内の異民族の力が増大することを恐れ、彼らを奴隷にして強制労働に当たらせました。また、人口増加を抑える為に、ヘブル民族の男子は、生まれたら殺すように命じるまでになりました。モーセはこのような時代に、ヘブル人の両親から生まれました。両親はモーセを3ヶ月間家に隠していましたが、隠し切れなくなったで、パピルスで編んだ籠に赤子を入れ、ナイル川に流します。不思議な導きで、その籠はエジプト王の娘に拾われ、モーセはエジプト王の一族として育てられるようになります。成人したモーセは、やがて自分がヘブル人の生まれであることを知り、同朋が奴隷として酷使されているのを見て、心を痛めます。40歳の時、エジプト人の監督が、ヘブル人を虐待しているのを見て、そのエジプト人を殺してしまいます。これがエジプト王の知るところとなり、モーセは追われて、ミディアンの地に逃れ、その地で、祭司エテロの保護を受け、娘チッポラを与えられ、羊を飼うものとなりました。
・それから40年の時が流れ、彼は今安定した生活の中にあります。自分と家族の生活だけを考えればよいからです。そのモーセが神の突然の召命を受けます。それがテキストの個所です。モーセは燃える柴の間から語りかけられる神の声を聞きました「イスラエルの人々の叫び声が、今、私の元に届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9-10節)。モーセはしり込みます「私は何者でしょう。どうしてファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)。
2.インマヌエル
・「私は何者でしょう」と彼は言います。モーセはヘブル人として生まれ、エジプト人として育てられ、今はミディアン人として生活しています。彼はヘブル人としてのアイデンティティーを持てません。だから言います「何故私が、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。それに彼はエジプトからの逃亡者です。エジプトに行けば命の危険があります。「何の力も無い個人が、強大な軍事力を持つエジプト王と戦うことが出来るはずがありません」と彼は言いました。彼は80歳になり、もう若くはありません。「何故今の安定した生活を捨ててまで、危険を冒してエジプトに行く必要があるのですか」とモーセは反論しています。
・神はモーセの問いには直接答えられず、「私は必ずあなたと共にいる」(3:12)と言われます。“インマヌエル”です。ヘブル語では“エフイエー=有る”、“イムマーク=共に”、“私は共に有る、共にいる”です。この“イムマーク=共に”に“エル=神”をつけますと、“インマヌエル=神共にいます”という言葉になります。神は私がいるから心配することはないと言われます。モーセはそれでもためらいます「彼らに、あなたたちの先祖の神が、私をここに遣わされたのですと言えば、彼らは、その名は一体何かと問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(3:13)。エジプトにいる同胞は私のことを信用しないでしょう。第一、彼らにあなたのことを何と説明すればよいのですか。説明しようがないではありませんかとモーセはさらに反論します。
・それに対して神は答えられます「私は有る。私は有るという者だ」(3:14)。ヘブル語では“エフイエー・アシェル・エフイエー”という言葉です。 「エフイエー=有る」とは、「私は存在している、私は存在を続ける」という意味です。常にあなたと共にいる。さらにその言葉は「私は有らしめる者だ」との意味も含んでいます。“無から有を創造する”、その力を持つ者だと言われています。「その私があなたを派遣するのだ、恐れることはない」と神は主張されます。そして言われます「私は民の苦しみを見て、彼らの叫びを聞いて、彼らの痛みを知った。だから行為する、そのためにあなたを用いる。あなたが何を言ってよいか判らない時は言うべきことを教え、何をしてよいかわからない時はするべきことを教える。エジプト王がいかに強大であってもあなたは常に私の守りの中にあるから、恐れることはない」。この神に押し出されて、モーセはためらいながら、エジプトへの旅を始めます。モーセの召命は80歳の時でした。彼は人生の三分の二を終えた時に召命されましたが、ここから、モーセの本当の人生が始まります。私たちも遅かれ早かれ、この召命を体験します。自分のために歩む人生から、他者のために生きる人生に変えられていきます。この召命を通して、私たちも新しい人生へと歩みだすのです。
3.共にいると約束される神
・今日の招詞に申命記8:3−4を選びました。次のような言葉です「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」。
・申命記は約束の地カナンを前にモーセが民に語った言葉です。彼は120歳となり、約束の地に共に入ることは出来ません。彼は民に、神が何をして下さったかを覚えて、新しい地での生活を始めるように教えます。「今日、私が命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる」(申命記8:1)。彼は続けます「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」(8:2)。主が何故、あなたたちを40年間も荒野に導かれたのか。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(8:3)とモーセは言います。「人はパンだけで生きるのではない」。パンは人が生きるために必要ですが、そのパンを与えてくれるのは神であることを知るために、あなたたちは荒野に導かれたのだ。「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」。主は「共にいる」という約束を40年間守られたではないかとモーセは言います。
・イスラエルの民は、どのような思いを抱いて、荒野を歩いたのでしょうか。今を我慢すれば、「乳と蜜の流れる地に暮らすことが出来る」ことを目指していたのでしょうか。最初はそうであったでしょう。エジプトでの奴隷生活から、自由な生活に脱出することが、彼らの願いでした。しかし、民が約束の地に導かれたのは、40年の荒野放浪の後でした。40年とは一つの世代が交代するほどの長い時です。エジプトを出た第一世代の大半は荒野で死にました。もし約束の地に入ることが救いであれば、荒野で死んだ人々は救われなかったのでしょうか。そうであれば、主は何故人々をエジプトから導き出されたのか疑問が生じます。エジプトでは過酷な奴隷労働があったかもしれませんが、水も食べ物もありました。荒野よりも生活条件は良かったかも知れません。
・出エジプト記は記述します「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」(13:21-22)。民数記は言います「雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した」(9:15-17)。宿営している間、人々はその場所で生活しました。日常生活の中でいろいろなことがありました。水が無い時には、岩が開かれて水を与えられました。食物が無い時には、天からマナが降りました。肉が必要な時には、うずらが与えられました。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはありませんでした。救いの約束とは、はるか先に成就する夢のことではなく、今生かされていることだったのです。現実の厳しさの中で、「あなたと共にいる」という神の約束が成就し続けていることを見ることこそ、救いなのです。約束の地に入れずに、荒野で死んでいった人たちもまた、約束されたものを十分に受取ったのです。
・約束の地に入ったイスラエルの民は、やがて豊かさの中で、神を忘れ、勝手気ままに生きるようになります。国は乱れ、イスラエルは困難な道を歩み始めます。神が共におられなければ約束の地は滅びの地になり、神が共におられれば荒野もまた天国になって行きます。このことは私たちに一つの真理を伝えます。私たちは死んでから天国に行くために、この教会に集まっているのではありません。今現在を充実して生きるために、既に来ている神の国の住人として生きるために、来ているのです。私たちは神の業に参加するために、召されてここにいるのです。神が共におられれば、悩み多い毎日の生活こそ天国であり、神が共におられなければ、豊かな物質生活も、幸福そうに見える家庭生活も実は地獄なのです。先週、私たちはアドナイ・エレという言葉を学びました。主が備えて下さるという言葉です。主が備えてくだされば、明日の生活を心配する必要はありません。必要なものは主が与えて下さるからです。今週、インマヌエル=主が共におられるという言葉を学びました。主が共におられるのであれば、現実の生活がどのように困難であろうとそこに不安はありません。道は開かれていくからです。この二つの言葉、“アドナイ・エレ”と“インマヌエル”を信じていくのが信仰です。そしてこの信仰さえあれば、生きるのに他に何もいらない、そのことを改めて、今日確認したいと思います。