江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年11月26日説教(サムエル記下5:1‐5、その王は私たちと共に) 

投稿日:2006年11月26日 更新日:

 
おはようございます。東京バプテスト神学校神学専攻科2年、日本バプテスト女性連合の岩瀬 礼と申します。本日は、このような機会を与えて下さりありがとうございます。また、女性連合に対しての日頃の御支援を心から感謝申し上げます。本日から世界バプテスト祈祷週間が始まります。福音の広がりのために、何よりもまず熱心に心合わせて祈り、喜んで献げる者としていただきたいと願っています。  さて、少し私がイエスさまに出会った時も含めてお証しさせていただきたいと思います。私がイエスさまと“まともに”出会ったのは大学2年生の時です。「まともに」と申し上げましたのは、これまでの人生を振り返ってみると、実は私の人生の端々にイエスさまが働いておられるのを見ることができるのですが、当時の私はまったく気がついておらず、さらっと素通りしているのです。そういうことはよくあることです。後になってみて初めて、「ああ、そういうことだったのか。やっぱりイエスさまは共にいてくださった」ということが分かる。皆さんも信仰生活を送られる中で、そういうことを何回も経験されていることと思います。  大学2年生の時、アメリカに留学しました。行く前のオリエンテーションで、先に留学した先輩たちが「教会には行ったほうがいいよ。ウェルカムパーティはあるし、休みにはどこかに連れて行ってもらえるし、楽しいことがいっぱいだよ」と言うのを聞き、動機は不純ながらせっかくアメリカに行くんだから文化も学ばなきゃということで、着いたその週から早速友人らと連れ立って教会に通い始め、聖書を学び、私はイエスさまを救い主と信じ、受け入れ、バプテスマも受けて帰国しました。  「献身」ということを考えたのも大学生の時でした。中国留学中に訪れた上海の公認教会でのことです。私はそこで、ある中国人女性と話をしたのですが、今日はどんなメッセージがされていたのかを聞くと、驚いたことに彼女は分からないと答えました。彼女は上海語と少しの標準語を理解できましたが、牧師が話しているのは上海の近くにある寧波というところの言葉だったのです。そこに出席した人びとがすべて、彼女と同じだとは思いませんでしたが、彼女のように教会に来ていても恵みをしっかりと受け取ることができない人がいることに愕然としました。ましてや、まだ中国にも日本にも、そしてこの世界にもまだ福音に触れていない人、彼女のような人が沢山いるのだ。そのとき私は「収穫は多いが働き手が少ない」という御言葉を思い出しました。私は願わくはその働き手になりたいと思いました。  大学卒業後、東京バプテスト神学校へ入学したものの、色々な事情が重なり、通えなくなってしまった時期があります。神さまは私の願いを聴いてくださったと思っていたのに、なぜこんなことになってしまったのか。本当に口惜しく思いましたが、神学校から離れていた数年間も神さまは恵みの時としてくださり、さまざまな伝道団体での経験を通して福音を伝えることの喜び、厳しさを学ぶことができました。また、教会の働きを通しても多くのことを学びました。神学校に入学したのはちょうど10年前でした。

さて本日、私たちに与えられている聖書箇所はサムエル記下5章1節から5節です。サウルの家とダビデの家との間には長く戦いが続いていましたが、ダビデの家はますます強くなり、サウルの家はますます弱くなっていきました。サウルの将軍であったネルの子アブネルとサウルの子イシュ・ボシェトも死に、指導者のいなくなったイスラエルの長老たちはダビデのもとにやってきて、油を注ぎイスラエルの王としたというところですが、この短いテキストから私たちは何を学ぶことができるでしょうか?

1 油注がれた者として

 旧約聖書の時代、「人に油を注ぐ」ということは、主がその人を特別な働きに任じられ、選ばれたということを意味しました。選ばれた者は、その特別な働きのために主の御心を求め、その歩みを確かなものとしていただかなければいけません。サウルはサムエルから油注ぎを受け、イスラエルの民を治めるようになりましたが、ある時サウルは主の言葉をしりぞけ、自分の思いを優先させてしまいます。彼は「油注がれた者」としての自分の立場を理解していませんでした。  ダビデは、自分に対して殺意をいだき、追い回すサウルに決して手を出しませんでした。何度も殺そうと思えばできたのにも関わらず、です。それは何があろうとサウルは「主が油注がれた方」であり、その方に自分が手をかけることは主が許されるはずがないと考えていたからです。主がご存じなのだ。主が裁いてくださる。  サウルの心にはダビデに対しての憎悪が渦巻いていたに違いありません。憎悪はやがて殺意に変わり、「なぜ、民はあいつばかりを」「あいつさえいなければ」と肉の心に支配されたサウルはダビデを執拗に追い回し、殺そうとしますが、やがて彼は非業の死を遂げます。アブネルやイシュ・ボシェトも死に、普通であれば「ほっと一安心」といったところでしょうが、ダビデは悲しみを表します。それは「油注がれた者」の重さを知っていたからではないでしょうか。ダビデはイスラエルの長老たちから油注ぎを受け、イスラエルとユダの国を治めました。彼はその人生を通して、主のみ心を求め、歩みました。そして神はダビデに祝福を与え、その歩みを確かなものとされました。  イエス・キリストもルカ福音書で、ご自分のことを「油を注がれた者」と言っています。そして最も特別な働きをされました。それは創造主なる方から離れていた私たちを赦し贖うために十字架にかかり、3日後に復活してくださったことです。そして信じる者に神の子となる特権を与え、永遠のいのちを与えてくださいました。その喜びに私たちは連なる者とされています。

2 主が言われたことは必ずなるということ

 これまでのダビデの生涯を振り返ると、決して平坦な道のりではありませんでした。詩篇を読むとダビデは喜びの時はもちろん、つらい時、苦しい時の慰めも神に求めました。主はダビデを豊かに顧みました。人間は絶望的な状況に置かれた時、主からいただいた約束を疑ってしまう弱さをもっています。私もそうですが、先の見えない不安、「本当にそうしてくださるのだろうか」という疑いにすぐ飲み込まれてしまうのです。先ほども申しましたが、後を振り返って初めて「ああ、そういうことだったのか。やっぱりイエスさまは共にいてくださった」と分かる。私たちには分からないことがたくさんあります。分からないけれども信じますと。祈りのうちに、また聖書のみことばのうちに応答していくとき、必ず主は支えてくださる。  皆さん一人ひとりが自分の信仰生活を支えている体験や聖書の御言葉があるでしょう。ずっと昔に書かれた聖書の中の出来事が、今、現実となって自分のものとなる時、その積み重ねが豊かな信仰生活を形作っていくといってもいいかもしれません。「分からないけれども信じます」と一歩を踏み出す時、主は豊かに祝福してくださいます。私たちが真実でなくても、主はご自分を否むことができないくらい真実なるお方です。主がお約束されたことに目を留め、進んでいこうではありませんか。それが大きな喜びを生み出し、そしてその喜びが教会に流れ、教会全体のものとなる時、私たちはキリストの体として新たな力をいただいて歩みを進めていくことができるのではないでしょうか。

3 その王は私たちと共に

 ダビデはイスラエルとユダの王となり、民を治めました。主は遥か昔から、私たち人間のためにも救いのご計画を立てておられました。私たちの王は「肉となって私たちの間に宿られた」王です。「ユダヤ人の王」と言われたその方は、今、私たちの心の王として住まわれ、私たち一人一人を治められます。そして「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という名前を持ち、喜びも悲しみも共に分かち合ってくださるお方です。  今日の招詞にはマラキ書3:1を選びました。祭司たちが律法から遠くなり、人びとの心も神から離れていた時代。「私はあなたたちを愛してきた」と言う主に対して、「どのように愛を示してくださったのか」と問いかける民。心から待ち望んでいた主はいつも共にいてくださったのに、まったく判らず、かえって「神に仕えることはむなしい」と自分勝手な道に進んでいく民。これは今の世にも通じることです。頼れる物はお金、名声、目に見えるもの。神は一体何をしてくれたのか?  喜びの時はもちろん、人間は実に勝手ですから、悲しくて辛い時、「神さまは私をお見捨てになったのではないか」と思ってしまう。しかし、そんな中にあっても、やっぱり共にいてくださって「もう大丈夫。恐れることはないよ」と言ってくださる。「神に仕えることはむなしい」と思っていた民に対しての無償の贈り物として与えられた「インマヌエル」なる神、イエス・キリストの恵みに目を留めたいと思います。クリスマスは人間に対する神の愛のあらわれです。その愛に今日、あなたも招かれています。  来週よりアドベント(待降節)に入ります。この時、今一度、私たちを愛したもうゆえに主が与えてくださった私たちの王イエス・キリストに思いをはせ、この時をご一緒に過ごさせていただきたいと願っています。

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