江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年10月1日説教(1コリント11:23-34、主の晩餐を共にいただく)

投稿日:2006年10月1日 更新日:

1.主の晩餐とは何か

・今日、10月第一主日は世界聖餐日です。「聖餐」は(私たちの教会では「主の晩餐」と呼びますが)、教会によっては毎週執り行うところもあれば、私たちのように月に一度、第一主日のみに行うところ、年に数回しか行わないところもあります。ただ、どの教会にとっても主の晩餐はバプテスマと並ぶ大事な行事です。ですから、年に一度、世界中の教会が同じ日に主の晩餐式を執り行い、教会は一つであることを覚えようというのが、この世界聖餐日の意味です。今日は、この世界聖餐日を記念して、主の晩餐はどのような意味を持っているかを共に覚えたいと思います。
・教会が主の晩餐式を執り行うようになった経緯については二つの流れがあるといわれています。一つはイエスご自身が十字架で死なれる前日に弟子たちと最後の食事を取られた事を記念するものです。ルカ福音書は次のように記しています「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である』」(ルカ22:19-20)。イエスは最後の晩餐の翌日十字架で死なれ、三日目に復活されました。イエスの死後、弟子たちは復活の日である日曜日を「主の日」として覚え、礼拝を持つようになりますが、この礼拝の中で、主の晩餐を執り行うようになりました。パウロが伝承として受けたものもこの流れの中にあります。〓コリント11:23−25の言葉はルカの伝える最後の晩餐でのイエスの言葉です。イエスが弟子たちと取られた「最後の晩餐」が、弟子たちがイエスの死と復活を覚えて行った「最初の主の晩餐」になったのです。
・もう一つの流れは、イエスが群集と共に取られた荒野の食事に起源を持ちます。マルコ福音書によれば、イエスは集まった群集が食べるものもないのを憐れまれ、手元にあったパンと魚で5000人を養われたとあります。大勢のものが一つのパンを食する、今日で言えば愛餐の食事が、主の晩餐式になったと考える人もいます。初代教会では、この最後の晩餐と、荒野での会食が一つになって、主の晩餐式が執り行われました。人々はそれぞれが食べ物を持って教会に集まり、礼拝の後、共に食事をする、それを主の晩餐として行っていたようです。ところがコリント教会では、その主の晩餐がとんでもない方法で行われていたことが手紙から読み取れます。
・コリントはギリシャにある町ですが、当時は人口60万人の大都市でした。そのうち、自由人は20万人、奴隷は40万人であったといいます。教会には豊かな人もいたでしょうが、多くは奴隷や貧しい人々であり、彼らは日曜日も働かなければなりません。従って、主日礼拝は朝ではなく、みんなが集まることの出来る夕方から持たれ、その中心が『主の晩餐』と呼ばれる共同の食事でした。当時、教会堂はありませんでしたから、大勢が集まることの出来る、裕福な信徒の家で礼拝が持たれました。家の教会です。
・裕福な人たちは午後にはそれぞれの食べ物をもって家の客間に集まり、自分たちだけで祈って、パンを裂き、ぶどう酒を分けて食べました。日が暮れると、貧しい教会員の人々が一日の仕事を終え、おなかを空かして礼拝に来ました。しかし、その時にはパンはほとんど残っておらず、先に来た人たちはぶどう酒の酔いで顔を赤くしているという状況でした。そのことをパウロは伝え聞き、怒ります「何故自分たちだけが先に食べて、貧しい人々を食事から除外するようなことを平気で行うのか、それが主の晩餐としてふさわしいのか」。その間の事情を伝えるものが11:20−21の記述です。「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」。

2.主の晩餐とは教会を一致させるもの

・今日の招詞に、私たちは〓コリント10:16−17を選びました。次のような言葉です「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。
・私たちは何故教会に集まるのでしょうか。教会は神を求める人々が一つの心で集まり、互いに良いものを分け合うところです。みんなで一つのパンをいただくから、そこに大勢の人がいても、教会は一つになります。主の晩餐式は教会が一つであることを覚えるためにあるのです。それなのに、コリントでは、金持ちは金持ちで勝手に集まって自分たちの宴会を行い、貧しい人を食事から除外しました。それは主の晩餐でも何でもない、そのようなことを行っても無意味だとパウロは言っているのです。
・私たちは教会に共に集まり、パンとぶどう酒を共にいただきます。何故パンとぶどう酒をいただくのか、それはイエスが私たちのために、十字架上で自分の肉を裂き、血を流して下さったからです。ですから、主を覚えて共に食べ、共に飲むことは、信仰の行為であり、宴会ではないのです。パウロは言います「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。・・・主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(11:27-29)。ここで言われていることは「主の晩餐は自分の晩餐ではなく、教会で行われる共同の晩餐なのだ。一部の人を除外して晩餐式を行っても、それは自分自身に対する裁きを飲み食いすることだ」と言うことでしょう。
・このことは私たちにも反省を迫ります。私たちは礼拝に来られた人は、信仰告白をされた方であれば、他の教会の人であっても、晩餐に参加されることを歓迎します。しかし、私たちの教会には、病気で礼拝に来ることのできない人、あるいはつまずきを覚えて教会から遠ざかっている人もいます。彼らも共に食べないと主の晩餐にはならないのです。教会によっては、主の晩餐に加わることの出来ない人の家を訪ね、その家で晩餐式を執り行う努力を行っているところもあります。私たちの教会でも検討したい行事の一つです。
・また主の晩餐は単に主イエスの死を覚えるだけでなく、その復活を覚える時でもあります。カトリックでは、司祭が祝福した時、パンとぶどう酒が文字通り、キリストの肉と血になり、晩餐式で主の体そのものをいただくのだという理解があります。私たちはそのような理解をとりません。他方、死と復活の記念としてパンとぶどう酒をいただくのであって、パンとぶどう酒はあくまでも象徴なのだという考えがあります。私たちはこの考え方にも賛成しません。私たちは、信仰を持ってパンとぶどう酒をいただく時、復活の主が今ここに共におられると信じます。パンとぶどう酒は食べれば、心が温かくなるとか、元気になるという魔法の食べ物ではありません。しかし、主が私たちのために死んで下さったことを信じる時、それは私たちを生かす恵みの食物になるのです。
・主の晩餐式は、キリストがやがて来られる、神の国がまもなく来ることを待望する時でもあります。パウロは言います「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(11:26)。イエスと弟子たちは最後の晩餐を「過ぎ越しの食事」としてとられましたが、過ぎ越しとは主がイスラエルをエジプトの奴隷から解放して下さったことを覚えるだけでなく、全世界に散らされたユダヤ人が再び集められ、神の都エルサレムで民族の回復を喜び祝うことを待ち望む食事でもありました。同じように、私たちも、主の晩餐を守るたびに、キリストが再び来られて、私たちの救いを完成させて下さる時を待ち望みます。私たちは罪から解放されましたが、なお肉を持ってこの世に生きています。この世においては、悪があり、裏切りがあり、涙があり、病があり、死があります。私たちは罪の責めから救われ、罪の支配から自由になりましたが、いまだ罪の存在そのものからは救われていません。神の国は、まだこの地上には来ていないのです。「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という主の祈りを晩餐式でも待望するのです。
・私たちは、今日が世界聖餐日であることを覚えて、主の晩餐式を行います。私たちは今日、礼拝が終われば、家に帰って、昼食を食べます。日本では、誰でもおなか一杯食べることが出来ますが、世界では、食べることの出来ない人たちもいます。発展途上国の急速な人口増加によって飢餓に直面している人口は十億人、世界の六人に一人は十分に食べることが出来ない状態です。日本の平均寿命は81.9歳ですが、エチオピアは48歳、ジンバブエは38歳、シオラレオーネは34歳です。この平均寿命は国民一人当たりGNPと密接に関係しています。豊かな国の人たちは十分な栄養を取り80年の生涯を楽しみ、貧しい人たちは栄養不足のため40歳になる前に死んでいく。この現実は、豊かな人たちが主の晩餐の前にお腹一杯になり、貧しい人たちが来たら何も食べるものがなかったというコリント教会の状況に酷似しています。私たちは聖書をどのように読むのかがここに問われています。
・この世界の飢餓の状況は、貧富の格差や食料の非効率的配分といった難しい問題が絡んできます。私たちに出来ることは少ないと思いますが、私たちは無関心ではおれません。少なくとも出来ることから始めて生きたいと願います。私たちの教会の今年の標語は「地域に福音を」です。地域の人たちと共に主の晩餐をいただきたいと私たちは願います。それもまた難しい問題を抱えています。近隣のある教会ではホームレス支援を教会の課題として取り組んでおられますが、ホームレスの人が礼拝に参加したらそれを嫌がって礼拝から遠ざかる人も出てきたと聞いています。現実は厳しい、この現実の中で、今私たちに何が出来るか、どうすれば主の晩餐にふさわしい教会形成が出来るか、これが私たちの教会に与えられた課題です。この課題をどう具体化するのか、私たちは今年後半話し合っていきたいと考えています。「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。この言葉の意味を考えながら、今日の晩餐をいただきたいと思います。

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