江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年9月24日(日)2コリント9:6-15 『豊かに種を蒔く人』  山本佐智子

投稿日:2006年9月23日 更新日:

1.エルサレム教会への献金

・本日私達は、聖霊降臨節第17主日を迎えます。聖霊降臨(ペンテコステ)の日はキリストの教会が誕生した日です。それは、エルサレム教会で起りました。エルサレム教会で生まれた福音は使徒達の働きで、各地へ広がります。使徒パウロが、この手紙を書いたとされるAD55年頃までにはローマ帝国内に多くの教会が建てられました。その一つコリント教会は、ユダヤ人以外(異邦人)の集まる教会です。一方エルサレム教会は、伝統的な律法(割礼や食物の規定など)を徹底して守るユダヤ人の教会です。エルサレム教会の人々は、律法を守らない異邦人達の教会に対して「どこか自分達の信条とはかけ離れている。本当に神の教会であろうか?律法を厳守する我々ユダヤ人こそ神の民だ。果たして異邦人は、神の民としてふさわしいのだろうか?」といった受け入れ難い感情を抱いていました。特にコリントという町はパウロの時代、商業的に繁栄し東西の諸文化・宗教・人種が混在していた中で歓楽的な町となり、道徳的に頽廃し秩序がみだれていました。「コリント人」というとみだらな人々という代名詞となったほどでした。そのような状況の町におかれているコリント教会は、エルサレム教会にとって疑惑の対象であったと考えられます。   
・さて、エルサレム教会は経済的に貧しく困窮していました。パウロは異邦人の諸教会に向けて、「あなた達の母教会であるエルサレム教会を覚え、特に貧しい人々の困窮が解消されるように援助して下さい。」という趣旨で献金を募りました。これは、エルサレム教会と異邦人教会の関係を改善させて、キリスト教会全体の一致を計ろうとするパウロの配慮でした。「もし異邦人教会が惜しみなく施しをすれば、そこでキリストの教えが実践されていることを知ったエルサレム教会の人々は、異邦人教会の人々を真のキリスト者として受け入れるはずだ。そして、福音の広がりを神に感謝し、異邦人教会のために祈ることだろう・・・」とパウロは期待しました(〓コリ9:12−14参照)。コリント教会は、このパウロのエルサレム教会への募金計画に最初に感激し賛成した人達でした。コリントの信徒への第一の手紙16:1−4には、既にエルサレム教会への献金を要請していた手紙の一部が残されています。けれども、コリント教会で既に始まっていたはずのこの献金が、何か教会内の問題のために一時中断されていたのです。
・一方パウロはその頃、マケドニア地方にいました。同じ異邦人教会であるマケドニア教会に対して「コリントではエルサレム教会への献金はすでに始っていて、もう一年目にはいっています」と語っていました。これに刺激されて、コリント教会より遅れてマケドニア教会でも献金が始ります。マケドニア教会はその頃、経済的に貧しかったにもかかわらず、コリント教会よりも早く献金を集めることができました。「貧乏人を助けるのは貧乏人」と俗に言いますが、彼らはエルサレム教会の貧しさを自分のことのように覚え、惜しみなく施すことができたのかもしれません。
・このような状況の中、パウロは再びコリント教会に手紙を書きます。マケドニア教会を引き合いに出して、彼らがいかに惜しみなく施したかを伝えます。もう一度この献金のことを思い起こしてほしいと訴えます。そして、惜しみなく捧げることがどんなに素晴しいことかと、献金の祝福を表現しているのが、今日の御言葉コリントの信徒への手紙二9:6-15です。
・クリスチャンは、時々こんな質問を受けます。「何故あなたはそこまでして教会に尽くすのですか?あなたの大切なお金・時間・労働・・・それらを教会に捧げて何になるのですか?」・・・皆様は、何とお答えするでしょうか?今日は、前述した背景で筆をとったパウロの言葉を通して改めて、「捧げること」とは私達にとって何を意味するのか?ご一緒に考えてみたいと思います。

2.惜しんでわずかしか種を蒔かない人 と 惜しまず豊かに蒔く人

・コリントの信徒への手紙二9:6-7「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」ここでパウロは、献金を種蒔きにたとえています。捧げるとは“蒔く”ことであって、失い手放すことではないことを知ります。種蒔きの仕方で、その収穫は決まります。6節の<わずかしか>は「しぶしぶと」「けちけちと」という意味です。<豊かに>とは「好意に満ちて」とも訳せます。惜しんで、しぶしぶ・けちけちと捧げる人は収穫もそのようになり、逆に惜しまないで好意に満ちて捧げる人は収穫も喜びに溢れるということです。そしてパウロは言います。仕方なく強制されて捧げるのではなくて、各自が「こうしよう!」と心に決めたとおりになさいと。喜んで与える人を神は覚えられ、愛され、それは祝福となるからだと。ここでは、献金はその額ではなくて、私達の態度や心のあり方が問われているのです。
・ここに言う献金とは何でしょうか。聖書では、献金とはいただいた収穫物の十分の一を神に捧げることだといいます。レビ記では「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す(レビ記27:30)と記します。あなたが種を蒔くが、雨を降らし、日を注いで成長させてくださるのは神であり、神の恵みなしでは収穫はなかった。神から収穫という恵みをいただいたのだから、その一部は神に返しなさいというのです。神ご自身は捧げものを必要とされません。しかし、必要とする人々がいます。神は私たちの捧げものを用いて、他者を養われるのです。このような聖書の記述から、教会では収入の十分の一を捧げることを基本とします。
・私は11歳の時バプテスマを受けました。その礼拝後、月約献金の袋を財務執事の方から渡されました。この時、月約献金額は収入(おこづかい)の十分の一がふさわしい事を教えてもらった記憶があります。早くからアルバイトをしたので、十分の一献金はすぐ身につきました。高校・短大時代はアルバイト代の十分の一を月約献金としました。昨年春まで11年ほど社会人として収入を得ていましたが、給与が変わるたびに月約献金の額が変動しました。十分の一だからです。今思うと、どこか事務的であったかもしれません。
・このようなことを一瞬でも、感じたことはないでしょうか?「今まで、何十年もの間、収入の十分の一を、いやそれ以上を教会へ献金した。はたしてそれはよかったのだろうか?他に、有効な使い道はなかったであろうか?それだけのお金を、他に困っている人に・・・たとえば飢餓に苦しむ何人の人々の何食分になったであろうか?」・・・と。以前、ある教会の礼拝に出席しました。礼拝の後話し合われた内容は「じゅうたんにシミがついてとれないから新しく購入しましょう。書棚が使いづらく、古くなったので買い換えましょう。」といった内容でした。確かに必要でした。けれども私は違和感を覚えました。「教会に否、神に捧げられた献金は、何に使われるべきなのだろう?」・・・独りよがりな思いに駆られました。ちょうど私はその頃、海外旅行から帰ってきたばかりでした。旅行先のスラム街で貧しい生活を強いられている人々の様子を目の当たりにしショックを受けていました。十数年前のことです。若気の至りでしょうか。そのように物事を冷静になって考えられない自分に嫌気がさしたのを覚えています。
・私は、教会に毎月収入の十分の一を献金してはいたが喜んで捧げてはいなかったのです。その使い道に疑問を抱いていたのです。一方、災害など緊急を要する募金・国際飢餓問題に取組む団体その他自分が資料をみて納得した慈善団体には、喜んで自分で決めた額を寄附していました。使い道に自分が納得できるからです。しかしながら教会で捧げる献金に対しては、どこか義務的な自分がいました。そして、惜しんで捧げる者になっていました。
・昨年、退職してから幾日か経ったある日家計簿をつけていました。月約献金の額が目にとまりました。「・・・これを減らせれば、先月の赤字は解消されるかな。」一瞬頭によぎりました。十分の一と言っても、実際金額はわずかなものです。ですから私は「惜しんでわずかしか種を蒔かない者(9:6)」の一人となります。十分の一献金を、しぶしぶとけちけちと惜しんで捧げるのなら、私達に益とはならない。自分自身に喜びがない、感謝がないからです。「刈入れもわずか(9:6)」です。神は100分の一であろうと5分の一であろうと、献金の額とは関係なく収入の何%かとは関係なく、喜んで惜しみなく捧げる人に祝福を与えられるからです。このように考えると、この祝福(刈入れ)とは、献金する際すでに備わっている私達の心のあり方でもあると思います。自分自身に喜び・感謝がある人はそれ自体、神に祝福されていると言えます。

3.必要は満たされる

・9:8「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」という御言葉から、神は私達のあらゆる必要をご存知でそれを満たされる方であると分かります。
・惜しんでわずかしか種を蒔かなかった私は、経済的な不安を少し持っていました。しかしその不安は解消されるようになりました。数日後私は、(主人に聞えるように)つぶやきました。「洋服なんてズッーっと買ってないな~」しばらくして、教会の方から古着が一度に沢山頂きました。出産に備え、必要最低限のものだけをと思っていましたが「ベビーカーだけは・・・」と購入しました。数日後、職場の先輩から「新しいベビーカー1台余っているから、ほしくない?」と電話がありました。心配しなくても必要は満たされることを示されました。それから、お下がりの子ども服やベビー用品などが、親戚から山ほど届くようになりました。恥ずかしい話ですが我が家の家計は、周囲の方々に支えられて成り立っています。最近、また私は懲りずにつぶやいてしまいました。「はあ、神学書ってホント高いなあ。」二日後、教会の壮年会から「神学書を買うためにお使い下さい」とお金の入った封筒が届きました。この様なことは日常的によくあることですが、私にとっては“神様からの贈り物”です。私達の日常に降りてきて下さったのがイエス様なのです。「・・・『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。(マタイ6:31)」とイエス様は言われます。でもその方は、私達のつぶやきと思い煩いを、聞いて下さるお方です。そして「・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(マタイ6:32)」と教えられます。すべては神から与えられる。与えられたものを“神様からの贈り物”として感謝する時、(特に主婦の)生活観は変わります。家計簿をつけている時の気分が違います。
・本来、すべては神のものであると、私達は概念で理解はしています。人間の所有と思われるものはことごとく神のものであり、自分自身もまた神の所有であると。私達の信じる神は、宇宙万物を創造された神であるからです。けれども、私は些細なことでそれを忘れていたのです。私達の必要をすべて知っておられる神は、御心のままにそれを満たされます。この方の御心に私達が信頼する時に初めて、教会を通して神に捧げられる献金を喜んで捧げ、その使い道をも信頼しゆだねることができるのではないでしょうか。神は私達が願う以前から、祈る前から私達の必要を覚えて下さるお方です。
・パウロはコリント教会に対して、献金を前もって準備しておくようにと勧めます。(9:3-5参照)よい贈物とは、必要に迫られるまで待っているのではなく、要求がおこって来る前に既に与えている、そんな贈物ではないでしょうか?お願いする前から「あなたが必要になると思って準備しておいたのよ」と渡された贈物に私達は感動します。神は、私達が「必要です。助けてください!」と願う前からその必要を知っておられる。そして、御心(神ご自身の計画)のままに満たされるお方です。ローマの信徒への手紙5:10でパウロは、私達がまだ「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた・・・」と述べます。私達が、イエス・キリストを救い主と気付く遙か以前に、キリストは既に私達のために救いの業を成し遂げて下さりました。

4.一番すばらしい贈り物

・エルサレム教会への献金の手紙の最後(〓コリント9:15)においてもパウロは、この神のすばらしい贈り物へと目を向けさせます。「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」この“贈り物”とは、人間の言葉では表現出来ないほどの贈り物、イエス・キリストご自身です。この贈り物を「地球上に存在したあらゆる(過去・未来・現在の)人間が、神に捧げたものをすべて足したとしても、到底たどりつく事は出来ない、それをはるかに越える神の最高の贈り物」と表現した人がいます。私達はこの贈り物を自分に贈られたものとして受け取り確信しなければ、その贈り主なる神に、感謝と喜びをもって捧げることは出来ません。
・捧げるということは、多少なりとも自分の大切な物あるいは自分自身を捨てることになります。その対象が自分以外へと向かうからです。他者のために多くをのぞむのであれば、必然的に自分自身に残るものは少なくなります。捧げるとは自己犠牲的な愛の行為であると言えます。しかし、私達はなかなか他者のために自分を捨てることは出来ません。目に見えない、耳で御声を聞くことも出来ない神という存在のために自分を捨てることが出来ません。自己犠牲的愛に欠けているからです。
・今日の招詞は、ヨハネの手紙一4:9-11です。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」
・イエス・キリストその方が、まさに自己を犠牲にされました。私達は罪のために裁かれ死ぬべき存在でしたが、この方によって生きるようになりました。私達がイエス・キリストを救い主と受け入れた時、神の内に永遠に生きることが約束されたのです。イエス・キリストはご自身の栄光を捨ててこの世に来てくださり、人間の姿かたちをもって十字架に死に、私達の身代わりとなりました。それは父なる神のご意思でありました。神ご自身が、私達を愛するがあまり、独り子であるイエス・キリストを十字架につけられたのです。この神の愛がまず先行します。自己犠牲そのものである、この神の愛に私達が迫られ押し出されなければ、心からの捧げものは出来ません。イエス・キリストは、私達をただ愛するがゆえに貧しくなられたのです。献金の意義は、イエス・キリストが私達を富ませるために、自ら貧しくなられたことを思い、惜しむ気持ちからではなく喜んでするところにあります。主が貧しくなられたのだから私も貧しくなろうとするところに、喜んで捧げる思いが与えられるのです。
・私達は礼拝で献金をする時祈ります。「只今捧げた献金を、神様の御心のままお使い下さい」と。篠崎教会で捧げられた献金は、教会内部の運営や伝道の為に用いられますが、それだけではありません。礼拝のあと、子ども達が「一円献金お願いします!」と奉仕して下さっています。ここで捧げられた献金は重症心身障害児施設の久山療育園に寄附されます。他にも、世界祈祷献金・神学校献金・バプテスト連盟協力献金・・・教会の外へ向けられても、献金が捧げられます。コリント教会にとっての、エルサレム教会への献金も似た性質を持っていました。コリントから見てエルサレムは、はるか地中海の向こう側の、遠く離れた地です。会ったこともない人々のために、なんで自分達が・・・そう思う人もいたかもしれません。ましてコリント教会内部の問題・課題が山積みでした。教会内で何か重大な問題が起きたとき、教会の外へ向けた関心が薄らぐことはありがちです。篠崎教会から見て、久山療育園は九州福岡県の施設ですから、遠い存在かもしれません。世界祈祷献金はさらに遠い、どこかの国で用いられていると・・・規模が大きいので漠然とします。会った事もない神学生。行ったことのない連盟事務所・・・けれども、献金が捧げられることによって、キリスト者としての一致が与えられます。受け取る側には、それが神へ感謝・讃美(神礼拝)につながります。捧げる側には、喜び・祝福となるのです。
・まず神が自己を犠牲にして私達を愛し、イエス・キリストの十字架にその愛を示されました。この愛に迫られ押し出された時、私達は惜しみなく捧げることができます。豊かに種を蒔くのです。蒔かれた種は、また私達に祝福となって収穫をもたらすのです。その種さえも、神は備えていて下さります。私達は、ただ神に与えられ、ただ愛され、ただ赦されている・・・「ただで受けた(マタイ10:8)」存在にすぎないのです。この神の恵みに信頼し、応える私達となりましょう。

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