1.贖われたルツ
・今、私たちは、夜の聖書研究会で、旧約聖書・ルツ記を読んでいます。ルツ記は今から3千年ほど前の話です。ある時、飢饉がイスラエルを襲い、ベツレヘムに住んでいたエリメレクは妻と二人の息子を連れて、異国のモアブに移り住みます。エリメレクはやがてその地で死にます。妻のナオミは息子たちにモアブ人の嫁を迎えさせますが、二人の息子もまた子が生まれないうちに死にます。ナオミは先に夫を亡くし、今は二人の息子も失い、異郷の地で独りになってしまいました。ナオミは、今はモアブに留まりたいとは思いません。彼女は故郷で死ぬことを願い、ベツレヘムに戻る決心をします。そして、二人の嫁に、里に帰り再婚するように勧めます。一人はナオミの言葉に従って去って行きましたが、もう一人のルツは離れようとせず、ナオミはしかたなくルツを連れて故郷に帰ります。故郷に帰ったナオミは同郷の女たちに言います「私をナオミ(快いとの意味)ではなく、マラ(苦いとの意味)と呼んでください。主が私を打たれ、今の私には何の希望もありませんから」と。夫と息子を亡くしたナオミにあるのは、人生に対する諦めだけです。
・しかし、人は生きなければなりません。二人は落穂拾いで当面の生活を支えることとし、ルツが働きに出ます。そのルツが落穂拾いをした畑は、たまたまエリメレクの親戚ボアズの畑でした。ボアズは見知らぬ女が落穂拾いをしているのを見て誰かと問い、その女がナオミの嫁ルツであることを知ると、彼女に好意を示すようになります。ルツはボアズのおかげで、たくさんの落穂を拾って家に帰ります。ナオミは収穫の多さに驚きますが、それがボアズの親切によるものだと知ると、心に一筋の光を感じます。彼女は言います「その人は買い戻しの権利のある私たちの親類の一人です」。ナオミが言った「買戻す」という言葉は「贖う(あがなう)」との意味です。当時の律法では、近親者が借金を返せずに土地を没収されたり、奴隷に売られたりした場合は、縁続きの者が買い戻す権利が定められていました。不幸な状態を終わらせるための規定が、この買戻し権です。ボアズは親戚として、買戻し権利者(ゴーエール)であったわけです。そのボアズがルツに親切を示したことをナオミは主の憐れみ(ヘセド)としてとらえるようになります。やがてボアズはこの買戻し権を行使して、ナオミとルツの畑を買戻し、ルツはボアズの妻となり、オベドを生みます。このオベドからエッサイが、エッサイからダビデが生まれ、このダビデの家系から主キリストが出られました。ナオミの嫁ルツは、買戻し=贖いを通して、キリストの系図を構成する者となっていきます。ボアズの贖いはナオミとルツの買戻しでしたが、この贖いが全人類のためになされた行為こそキリストの十字架であり、キリストこそ贖い主=ゴーエールであるというのが新約聖書の信仰です
2.贖われたコロサイの人々
・その信仰を示している箇所が、今日読みます「コロサイの信徒への手紙」です。パウロは言います「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者として下さいました」(1:21-23)。あなた方はイエスの十字架の死によって買い戻されたのだ、だからそれにふさわしく生きなさい、「揺るぐことなく信仰に踏み止まり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(1:23)とパウロは言います。
・「揺るぐことなく信仰に踏みとどまりなさい」とパウロは強調します。何故なら、コロサイの人々の信仰が揺らいでいたからです。コロサイはエペソの東部にあり、パウロの弟子エパフラスの宣教によって、その地に教会が立てられました。ところが異端の教えで教会が混乱したため、エパフラスはローマの獄中にいるパウロを訪ねて教会の問題について相談し、パウロは要請を受けて手紙を書きます。コロサイを混乱させていた異端は「グノーシス」と呼ばれるものです。「グノーシス」とはギリシャ語で知識という意味で、ギリシャ哲学の影響を受けた異端です。ギリシャ哲学では「肉体は魂の牢獄である」と考えます。霊は清いが肉は汚れていると考えたコロサイの偽教師たちは、「神は霊であり、イエスも神の子であれば霊であるはずであり、従って十字架で死ぬはずもないし、体が復活することもありえない」と主張していました。
・十字架と復活を否定する教えをパウロは容認できません。パウロは反論します。「神は、御子の十字架の血によって平和を打ち立て、・・・万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(1:19−20)。神は御子を十字架につけ、その血により私たちを贖われ=買戻され、その贖いによって死ぬべき私たちが生きるものとされたとパウロは言っています。十字架の贖いによって、闇の中にいた私たちが光の中を歩む事を許された、だから私たちはキリストに従っていくのだ、キリストこそ私たちの命の恩人だ、キリストのために苦しむ必要があるなら喜んで苦しもうとパウロは言います。パウロは今ローマの獄中にありますが、そのことをキリストの故に喜びます。彼は言います「今や私は、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(1:24)。
・私たちもかつては闇の中にありました。その闇が他者に向かう時、妬みや憎しみや怒りとなり、自己に向かう時、傲慢や絶望になります。そういう罪の縄目から、キリストは私たちを買戻して下さった。それを知って私たちはバプテスマを受けました。水に入れられて死に、水から引き出されて、新しく生きるようになりました。このバプテスマから、私たちの聖化が始まります。この聖化とは、自分が清められて完成に向かうことではありません。聖化の努力が自分に向かう時、福音が曲がって行きます。断食をする、苦行をする、禁欲する、そこから生まれるのは自己満足、自己讃美であり、守らない人を攻撃する事を通して他者の救いを閉じます。
・正しい信仰は常に他者に向かって開かれていきます。だから彼は言います「私は、あなたがたのために苦しむことを喜ぶ」。聖書は愛とは、「相手が何をしてくれるか」を求めることではなく、「自分は何が出来るか」を求めていくことだと教えます。人を愛する事は自分が損をしていくことです。贖われたのだから今度は贖う者となる生き方です。それをパウロは「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす」と表現します.
3.贖われた者から贖う者へ
・今日の招詞にヨブ記19:25-26を選びました。次のような言葉です「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう」。私たちは人生において多くの苦難に出会います。その苦難はある時には限界を超えているように思われ、絶望した人たちは自殺していきます。しかし、苦難には意味があり、苦難を通して神が語られていることを知る者は、苦難が時の経過と共に祝福に変えられていくことを知ります。苦難の問題を正面から取り上げたものがヨブ記です。主人公のヨブは財産に恵まれ、家族に恵まれ、社会的にも尊敬され、自分を正しい人間だと思っていました。しかし、災いが起こり、財産は奪われ、子供たちが取り去られ、彼自身も重い病気に冒された時、神を呪い始めます「あなたは何故こんなにも私を苦しめるのか」。長い苦闘の中でヨブは、「神は神であり、私は人間に過ぎない」ことを知り、悔改めます。その悔改めの言葉が今日の招詞です。
・「私は知る、私を贖う方は生きておられる」。人がこのことを見出した時、外面にどのような苦難があろうとも平安が与えられます。瞬きの詩人と呼ばれた水野源三は次のような言葉を残しています「三十三年前に脳性まひになった時には神様を恨みました。それがキリストの愛に触れるためだと知り、感謝と喜びに変りました」。彼は、脳性まひにならなければキリストに出会わなかった。だから脳性まひになって良かったと言っているのです。彼は9歳の時に赤痢に感染し、高熱が続いたために脳性まひになり、手足の自由と言葉を失いました。14歳の時、牧師の訪問を受けて聖書を読み始め、信仰が与えられます。しかし、相変わらず、動くことも言葉を発することも出来ません。主治医の指導で、目の瞬きを通して意思を伝達する手段を与えられ、詩を書き始めます。病状は変化なしです。寝たきりの状況は変らないのに、彼は生かされていることを喜び、その喜びを、人々に伝えました。彼の詩により、多くの苦難にある者が慰められました。彼は贖われることを通して贖う者となったのです。
・人は平和の時には神を求めません、神がいなくとも生きていけるからです。そしてこの世の出来事に一喜一憂して人生を送ります。多くの人の人生はこのようなものです。苦難を与えられた人は、最初はその苦しみを自分で解決しようとし、次には他の人の助力を求めます。そしてどうしようもなくなった時初めて、神を求めます。神は求める者を贖って下さいます。苦難なしには滅びがあるだけであり、平穏な人生は必ずしも祝福ではありません。苦難こそが神が与えられる祝福です。何故なら、人は苦難を通して神に出会うからです。「私を贖う者は生きておられる、生きて私と関わりを持とうとされている」。これが福音であり、私たちの信仰です。地上では救いはまだ完成していません。多くの人が苦しみの中にあり、キリストはいまだに十字架を負われたままです。だから私たちもキリストの十字架を共に担わせていただく。これがキリスト者の聖化です。キリスト者はイエスの贖いを通して、今度は自らが贖う者となっていくのです。そのことを今朝は覚えたいと思います。