江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年6月19日説教(使徒行伝4:32-36、信仰を生活の中に)

投稿日:2005年6月19日 更新日:

1.全てを共有化した初代教会

・聖霊降臨の日にペテロは民衆に向かって、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神がよみがえらせて下さった。私たちはその証人だ」と説教した。聞いていた人々は「自分たちは神の子を殺した」事を知り、悔い改めた。そしてペテロの勧めに従ってバプテスマを受けた。3千人が群に加わり、教会が生まれた。その初代教会の生活の有様が使徒行伝4章に記されている。今日は、私たちの教会生活の出発点ともいうべき初代教会の生活を振り返り、それが今日の私たちに何を指し示すのかを共に学びたい。

・使徒4:32-34は、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。・・・信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と記す。土地や家を持っている人は、それを売って代金を使徒たちの足元に置き、お金は必要に応じて分配された。この結果、貧しい者は一人もいなくなったと言う。初代の信徒たちは、ユダヤ当局の迫害にも関らず、イエスの復活を大胆に宣べ伝えた。そして、共に集まり、持ち物を分け合った。聖霊に導かれたに群は、外に向かってはイエスを証しし、内に向かっては、所有に対する執着から解放されて持っているものを差し出した。「分かち合いの共同体」がここに生まれた。この共同体は、自然発生的に生まれた。信仰の熱心が共に住み、共に祈る生活へと導き、「自分の持ち物を売って施しなさい」(ルカ12:33)との主の教えが文字通り、実行された。人々は持ち物を売ることを強制されなかったし、売ったお金を捧げることも義務ではなかった。多くの人々は信仰に燃え、売った代金を教会に献げた。バルナバはキプロス生まれの帰国ユダヤ人であったが、代々受けついだ故郷の畑を売り、その代金全てを教会に献げ、信徒たちを励ました。

・しかし、すべての人が信仰に燃えていたわけではない。5章にあるアナニアの記事はそれを示す。アナニアはバルナバの行為が人々の賞賛を得た事実を見て、当初は信仰に燃えて自分の地所を売った。しかし、その後で全てを献げるのが惜しくなり、売った代金を誤魔化した。彼は土地を売る必要は無かったが、バルナバに負けまいとして売った。一部を自分のために残すことも出来たが、賞賛を得ようとして、全てを捧げる形をとろうとした。彼の問題は一部を捧げたことにあるのではなく、献げ物を誤魔化すことを通して、神を欺こうとしたところにある。ペテロはアナニアに言った「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。・・・あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(使徒5:3-4)。アナニアは死んだ。

・使徒6章は、お金の分配について教会内に争いが起きたことを伝える。豊かな教会員の寄付によって維持されていた金庫から貧しい人々の食を賄うためにお金が出されていたが、その配分をめぐって、ギリシャ語を話すユダヤ人から、自分たちへの配分が少なすぎるとの苦情が出た。配分していたのはヘブライ語を話すユダヤ人であり、恐らくは本国生まれのユダヤ人と帰国ユダヤ人の間に争いがあり、それがお金の配分への不満として表面化したのであろう。このように、初代教会の生活の全てが理想どおりに言っていたわけではない。また、彼らの共同体においては、消費だけが共同化されたため、やがてお金が無くなって行き詰まった。初代教会の共同生活はこのようにして崩れていった。しかし、彼らの信仰の熱心は崩れなかった。

2.信仰の生活化こそ

・今日の招詞に使徒2:41-42を選んだ。初代教会の人々の信仰生活を記した別の記事である。「ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。

・人々はペテロの説教に心打たれ、悔い改めて、バプテスマを受けた。彼らはペテロの説教を自分たちに語られる神の声として聞いた。そして、自分たちの罪を知り、悔い改めた。悔い改めとバプテスマを通じて、神が彼らを召されている事を知り、招きに応えて教会に集まった。彼らは毎日、心を一つにして、集まった。「使徒たちの教えを聞き、相互に交わり、共にパンを裂いてイエスの十字架を覚え、祈るためである」。彼らは毎日、それを求めた。生まれたばかりの子どもは毎日母親の乳を求める。それがないと死んでしまうからだ。生まれたばかりの信徒たちは毎日御言葉を求めた。それが無いと生きていけなかったからだ。ここに教会とは何かの答えがある。信仰は燃えるだけでなく維持することが必要だ。聖霊に燃えた群は、更に「教会」というキリストを頭とした共同体になっていかなくては、信仰は消えてしまう。そのためには四つのことが必要だと聖書は教える。

・第一は「使徒の教えを聞く」ことである。使徒たちはキリストから聞いた教えを人々に伝えた。いかに霊に燃えてもそれが「知識の言葉」にならなければ、自分で理解できないし、人に伝えることも出来ない。初代教会の教えを、私たちは新約聖書という形で継承している。教会は主の御言葉の上に立つ。御言葉の学びなしに信仰は維持できない。

・次に相互の交わりである。この交わりとは「共に預かる」ことだ。初代の信徒たちは持っているものを差し出して、具体的に生活を支え合った。自分だけが「良し」とする信仰ではなかった。教会の交わりが人間的な親しさを中心におけば、その教会は遅かれ早かれ崩れる。親しさのみではエゴとエゴが衝突した時、それを乗り切る力は無いからだ。

・だから「パン裂き」が必要だ。パンを裂くとは十字架で肉を裂かれたキリストを覚え、そのキリストに従うことを誓うことだ。主が十字架を負われたように私たちも十字架を負っていく、十字架無しには、信仰は曲がってしまう。十字架を負うとは、日常生活で他の人のために損をすることだ。バルナバの献金のようにである。献金とは、大事なお金を差し出すことを通して、自分が貧しくなる行為だ。財産のあるところに私たちの心もあるから、その心を差し出す。必要な金額は自分のために残しても良いが、必要以上に残そうとした時、アナニアの例が教えるように、献金がサタンの業になる。

・最後は祈りだ。教会の交わりは祈りを忘れた時、崩壊する。他者のために祈る時、私たちはその人を憎めなくなる。他者のための執り成しの祈りが、人をキリストの弟子にしていく。

・初代教会に於いては、この交わりが具体的生活にまで及んできた。彼らは毎日集まり、共に生活した。彼らの生活の中心は礼拝だった。私たちの生活は個人個人の生活が中心であり、教会は日曜日だけ来る。週の6日は自分のために生き、1日だけ主のことを考える。このような生活では、信仰は成長しにくい。6日の世での生活が私たちを支配するからだ。私は50歳で牧師になるまで30年間信徒生活を送った。毎週の礼拝は欠かさなかった。しかし、自分がキリストの弟子になったと思えたのは、牧師になって毎日聖書を読むようになってからだ。毎日教会に集まるのは、現在の私たちには無理だ。それを補うためには、自宅での毎朝、または毎夕のデボーションが不可欠になる。また、せめて、週の半ばに設けられている教会の祈祷会に、無理をしてでも、出席して欲しい。祈祷会の不振な教会は衰退する。

・次に経済の問題に目を向けるべきだ。アナニアの惜しむ心は私たちにもあるし、教会におけるお金の使い方が分裂を引き起こすことも見てきた。「教会では何かと言うと財政のこと、献金のことが問題になる。もっと霊的なこと、信仰や伝道のことをこそ真剣に話し合うべきではないか」という批判を耳にする。しかし、経済を真剣に考えなかったから、初代教会の共同生活が揺らぎ始めた。教会におけるお金の使い方にもっと目を向けるべきだ。霊はバルナバに働きかけ、自分の畑を売り使徒たちに代金を差し出すことを可能にした。聖書はバルナバをほめない。何故なら、それは聖霊の働きだからだ。与えられたお金をどう用いるかは、信仰の出来事なのである。

・最後に礼拝を大事にする心を持ちたい。初代教会の信徒たちは毎日集まって礼拝を捧げた。出エジプトの民は幕屋(教会堂)を真ん中にして、周囲に天幕を張って生活した。中世の町は広場(教会堂)を中心にすえて構成された。信仰は燃えるだけでなく、維持していくことが必要だ。小さな火でも燃え続ければ水を湯に変える力を持つ。今の私たちに必要なことは教会に集う人が増えることではなく、集う私たちの信仰が強められることだ。私たちにとって教会は生活の中心でもなく、最大の関心事でもない。ここに私たちの教会の弱さがある。初代教会の生活について使徒業伝は書く「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(2:46-47)。私たちの信仰の熱心が人々をこの教会に招く。私たちの信仰が生活化された時、この教会の教勢は盛んになっていく。

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