江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年6月12日説教(2コリント8:1-15、恵みに富む)

投稿日:2005年6月12日 更新日:

1.献金についてのパウロの手紙

・エルサレムで生まれた福音は、パウロたちの働きにより、アジアやヨーロッパに伝えられ、紀元55年頃にはローマ帝国内のあちらこちらに教会が立てられた。やがて、異邦人教会の方がユダヤ人教会より大きい存在になって行くが、このことが問題を発生させた。母教会であるエルサレム教会は伝統的な律法(割礼や食物の規制)を守らない異邦人キリスト者を神の民としては相応しくないと考え始め、異邦人教会は律法や規制を押し付けてくるユダヤ人教会を保守的で頑迷な教会と反発していた。初代教会の中に対立が生まれた。パウロは経済的に貧しいエルサレム教会を支援するための献金を異邦人教会から募り、それを捧げることによって、両者の一致が成ることを願った。そして異邦人諸教会へ献金の依頼を始めた。

・フィリピやテサロニケのマケドニア諸教会は豊かではなかったが、パウロの要請を受けて、「力に応じて、また力以上に」捧げものをした。しかし、裕福なコリント教会は非協力的だった。そのため、パウロは数回にわたり、コリント教会へ献金要請の手紙を書く。その手紙の一部が、〓コリント8-9章として残されている。今日は、そういう時代背景の中で書かれたコリント教会への手紙8:1-15を中心にして、献金の問題を考えてみたい。

・献金は微妙な問題だ。現代の教会でも、牧師が献金を講壇から奨励するのは善くないとの考え方がある。お金の問題は卑しい問題であり、信仰の問題ではないとの考え方は根強い。金銭に対しては、当時も同じ状況にあった。コリント教会はパウロからの献金要請に反発していた。一つにはパウロに対する個人批判があった。パウロは自分の懐を暖めるために献金に熱心なのだと陰口を叩く者さえいたらしい(〓コリント11:8)。それ以上に、何故自分たちが海の向こうのエルサレム教会を助けなければいけないのか、エルサレム教会には世話になっていないし、捧げる余裕もない、と言う反発である。

・そのコリントの人々にパウロは書く「あなたがたはすべての業において豊かなのだから、慈善の業においても豊かな者になりなさい」(〓コリント8:7)。献金は、自分の持っている物を、その財力や資力に応じて差し出す行為だ。その結果貧しくなるが、それで良いではないか。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」(8:9)。キリストはあなたがたのために死んで下さった。キリストを通して神の子とさせていただく富をいただいた私たちが、どうして貧しい兄弟を見て、見ぬ振りが出来ようか。主が貧しくなって下さったのだから、私たちも貧しくなろうではないか。献金は信仰の行為なのだとパウロは言う。

・パウロはこの献金の業を数年がかりで進めていた。コリントは豊かな教会員も多かったから、出そうと思えば相応に出せた。しかし、パウロは言う「心から願って捧げなさい。そうすれば、神は受け容れて下さる」。出せば良いというものではない、今、あなたがたがエルサレム教会のために苦労することが、意味があるのだ。あなたがたの現在のゆとりがエルサレム教会の欠乏を補えば、将来はエレサレム教会のゆとりがあなたがたを助けるようになるだろう。コリント教会もエルサレム教会も同じくキリストの体を構成する部分なのだ。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」のだ(〓コリント12:26)。それが教会なのだとパウロは説く。

2.献金とは何だろうか

・パウロは出エジプト記16:18の記事を引きながら、コリントの信徒たちに語りかける。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」。エジプトを出た民は荒野に導かれた。荒野には満足に食べるものはなく、民はつぶやき始めた「エジプトでは肉の鍋の傍らに座り、飽きるほどパンを食べていた。ここには何も無い。エジプトの方が良かった」。その民に対し、主は天からマナを降らせて、養われた。モーセは民に言った「おのおの必要なだけを集めよ。明日はまた主が下さる」。ある者は多く、ある者は少なく集めたが、計ってみると「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」。しかし、ある者は欲を出して、明日の分まで集めた。翌朝になると、多く集めたマナには虫がつき、臭くなった。

・パウロは言う、必要なものは主が与えて下さる。今、あなたがたが生きるために必要なもの以上をいただいていれば、それを主に捧げなさい。多く持つことにより、私たちの心の中に惜しむ気持ちが生まれる。宝のあるところに心もある。必要以上のゆとりは腐ったマナに成りかねないのだ。必要以上に持っているものを、持たない人と分かち合う行為が献金なのだ。キリストは私たちを愛するあまり、貧しくなって下さった。だから、私たちも他者のために貧しくなるのだ。若しあなたがたがエルサレムの兄弟のために心を痛めないなら、あなたがたの教会は教会でなくなる。共に集まって礼拝を続ける集団は残っても、それはもはや教会ではない。そこにはキリストがおられないからだ。

3.恵みに富む

・今日の招詞に、〓コリント9:6-7を選んだ。次のような言葉だ「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。

・パウロはコリントの教会に献金を勧めて言う「捧げなさい。献げる者は富むからだ」。多く蒔いた者は刈入れも多く、少なく蒔いた者は刈入れも少ない。農夫が種を蒔く時、その種を惜しいとは思わない。なぜならば、蒔いた種の何十倍、何百倍もの収穫があることを知っているからだ。心から喜んで献げる者には、神が何十倍、何百倍にして返して下さる。今捧げるものが与えられていることは恵みなのだ。その恵みを他の人々と分かち合うことによって更に恵まれる。献金を通して豊かになりなさい。恵みに富みなさい。献金は裕福だから、お金の余裕があるから出来るという問題ではない。自分の体の一部に等しいお金を献げるとは、自分自身を献げる行為なのだ。お金を通してあなたの信仰が表されるのだ。

・先週、私たちの教会は執事会で、教会堂の補修問題を話し合った。会堂は32年前に建てられており、そろそろ改修が必要な時期に来ている。特に最近は地震が多く、地震の時大丈夫なのか、それを知るために、耐震診断を受けようと言うことになった。ところが、耐震診断を受けて、仮に補修が必要となった時、壁や屋根の補強で数百万円、場合によって一千万円近い費用が必要になるかも知れない。耐震診断を受けた後、どうするか。執事会の意見は二つに分かれた。15年前に行った会堂増築借入金が今年やっと完済する。今、大規模補修を行うと、また多額の献金を会員にお願いしなければならない。今はその時期ではないという意見があった。他方、増築借入金は今年完済するのだから、新たな借入れを起こす余裕はあり、今から補修準備をした方が良いとの意見もあった。どちらの意見も正しいから困った。とりあえずは、耐震診断を受けるための見積もりを取り、その後で再議論することになった。誰もが会堂補修の必要は認めるし、地震に備えることにも異論は無い。ただそのための献金をお願いするほどの緊急性があるのかが議論の中心である。

・この難しい問題を祈りで解決した教会がある。先週、福岡の壱岐キリスト教会から会堂改修感謝文集が送ってきた。私たちの教会にも献金協力の依頼があり、いくばくかを献金した。そのお礼として、文集が送られてきた。壱岐教会は離島の教会だ。かっては栄えたが人口流出等により教会運営が困難になり、1991年から10年間無牧で、礼拝は細々と続けられていた。2001年4月に松元牧師夫妻が行かれて、教勢は回復したが、それでも礼拝10名の小さな群れだ。会堂は1953年に建てられ、牧師赴任時は廃屋に近い状況にあった。祈りの中で改修工事の願いが生まれたが、資金調達の目処はない。教会は祈って、献金の範囲内で修復しようと計画を立てた。教会員への献金割り当ては行われず、献金約束だけをとり、その範囲内での工事が始まった。屋根がはがされ、壁が取り払われ、床がはがされて、改修工事が始まった。建物は骨組みを残して全てが取払われ、そこに新しい瓦やレンガが積まれていった。その過程で必要資金は膨れ上がって行ったが、献金額も同様に増えてきた。結果的に1000万円の資金が借入金なしで集まった。幽霊屋敷かと思われていた会堂がきれいになり、地元の人々が来始めた。文集の中で一人の子どもは言った「こんなにきれいになったのは、神様の力とたくさんの人の献金と協力があったからだ」、会堂改修を通じて、多くの人が神を讃え始めた。コリントの手紙でパウロの言う出来事が起こったのだ。

・パウロはコリント教会の人々に告げる「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」(〓コリ9:11-14)。献金は信仰の行為なのだ。自分を献げる行為なのだ。捧げたい心が満ちた時、私たちも会堂の改修に着手しよう。心を合わせれば、不可能なことではないのだ。

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