1.人間の判断と神の判断
・イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人の群集を養われた出来事は非常に有名であり、4つの福音書全てに記事が載っている。それはガリラヤ湖のほとり、ベツサイダという村の近くで起きた出来事だった。ヨハネ福音書は次のようにその様を描き始める。「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」(ヨハネ6:1-2)。イエスの周りには病気のいやしを求めて大勢の人が集まって来ていた。医学の発達していない当時、病気の治療は薬草を飲んだり、祈祷してもらったり、あるいは寝ているだけで、後はその人の自然治癒力にゆだねられていた。周りの人は感染を恐れて病人には近寄らなかったが、イエスは進んで病人のところに行かれ、励まし慰められた。そのイエスの慰めが多くの人に病気に勝つ気力を与え、病をいやした。イエスは集まってきた群集を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とマルコ福音書6:34は書く。
・そのうちに日が落ち、暗くなってきた。場所は寂しいところだ。弟子たちは群集を解散させ、それぞれの食べ物を買いに行かせたほうが良いと思い始めていた(マルコ6:36)。イエスはそのような弟子たちの気持ちを見透かすように、弟子の一人ピリポに問われた「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6:5)。ピリポはベツサイダの出身であり、その地方の事情に通じていたからだ。ピリポは即座に計算した。ここには男だけで5千人の人がいる。こんなに大勢の人にパンを与えることは無理だ。彼は答えた「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金で、1家族が1日に必要な食料を買うだけの金額だった。仮に1デナリオンで家族5人が食べられるとしても、200デナリオンで1千人がやっとだ。そんなお金はここにはないし、仮にそのお金があったとしても、こんな寂しい場所で、そんなにたくさんのパンを買える訳がない。ピリポの答えは正しい。ここで5千人の人に食べさせるのは無理だ。
・もう一人の弟子アンデレは食べ物を持っている少年を探し出して来て言った「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6:8-9)。子供が、自分の弁当用に大麦のパンと干した魚を持っていたのであろう。しかし、5千人の人を前にそれが何になるだろうか。5千人にどうやって食べさせるかと言う議論をしている時に、パン5つと魚二匹では何の足しにもならない。アンデレもまた正しい。
・しかし、イエスは、手元に五つのパンと二匹の魚が与えられたのを見て、人々を座らせなさいと言われた。そして天を仰いで感謝の祈りを唱えてから、人々にパンを分け与えられ始めた。また、干した魚も同じようにして分け与えられた。5千人の人が食べて満腹した。
2.何が起こったのだろうか
・二人の弟子は言った「200デナリオン分のパンがあっても足りません」、「ここにはパン5つと魚2匹しかないのです」。「絶対量が足りないのです。量さえあればうまくいきます」と弟子たちは訴えた。今日の私たちも同じことを考える。世界で10億人以上の人が飢餓で苦しむのは、食糧の絶対量が不足しているからだ。だから食糧を増産すれば、世界から飢餓は無くなる。国連は1974年に世界食糧会議をローマで開き、100億人を養うに足りる穀物の増産を米国やカナダ等の穀物生産国に要請し、10年以内に飢餓はなくなると宣言した。それから30年が経った。今では世界人口の1.5倍の人を養うだけの穀物が生産されているが、飢餓はむしろ拡大している。豊かになった人が穀物ではなく、肉をたくさん食べるようになり、増産された穀物の大半は家畜の飼料となってしまったからだ。牛肉1キロを生産するためには、8キロの穀物が必要という。「富の分配、絶対量の確保」という人間の考えは問題を解決しないのだ。
・私たちは目の前の5千人の人を見て、また手元に5つのパンしかないのを見て、「これではとても役に立たない」とあきらめる。ピリポはこれだけの人数にパンを与えるのは無理だとあきらめた。アンデレはパンを持っている子供を見つけたが、5つのパンでは何の役にも立たないとため息をついた。彼らは「神が働いてくださる」という信仰を持たなかったからだ。小さな子供は弟子達が困っているのを見て、自分の手元にある5つのパンを差し出した。差し出してどうなるという当てはなかったけれど、自分が食べるのをあきらめて差し出した。イエスはそこに子供の信仰を見られた。その信仰さえあれば、神は答えて下さるとイエスは信じられ、天を仰いで感謝された。
・聖書学者たちは想像する。当時は出かける時には、相応の食糧を携帯するのが当たり前だった。この子供が持っていたのも彼のお弁当であった。『何か食べるものを持っている者はいないか』と必死に探し回る弟子達の声に励まされて、一人の子供が自分の食べるはずだったお弁当を差し出した。イエスはその子供の行為を喜ばれ、そのパンを与えてくださった神に感謝して、それを裂き、分け与え始められた。それを見て、自分の食べ物を出さなかった大人たちは恥ずかしくなり、それぞれが持っている物を差し出した。この結果、5つのパンしかなかったものが、数十個、数百個のパンとなり、みんなが満腹して食べるほどの量になったのだと。多分、そういう出来事が起きたのであろう。いずれにせよ、5つのパンが5千人を養うに足るだけの量に増えた。そして、この奇跡を導き出したものは、自分の食べるものを喜んで差し出した子供の信仰だった。
3.あなたのパンを水の上に投げよ
・今日の招詞に民数記11:21−23を選んだ。次のような言葉だ。「モーセは言った『私の率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、肉を彼らに与え、一か月の間食べさせようと言われます。しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば足りるのでしょうか』。そのモーセに神は言われた『主の手が短いというのか。私の言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう』。」
・人間は自分の尺度で計算し、物事の成否を決める。民を率いてエジプトを出たモーセでさえ、何もない荒野で、神が肉を与えると約束された時、その約束を疑った。成就する見通しがつかなかったからだ。その民に神が与えられたのは大量のうずらであった。うずらは4月ごろにアフリカからヨーロッパに移住するが、その途中、パレスチナを通る。雲のように大群をなして風に乗って飛来するが、紅海を超える時には疲れ果て、陸に着くと地面に舞い降りる。疲れて、もう飛ぶ余力もないから、採り放題に捕まえる事が出来る。人々はそれを捕まえ、焼いて、腹一杯食べて満腹した。
・神の業がどのように成就するのか、私たちには予想もつかない。5つのパンで5千人を養うのは奇跡である。しかし、手元にあるパンを差し出すことは誰でも出来る。そのパンを用いて神は必要なことを為される。このパンの奇跡が教えるものは、私たちが与えられたものを感謝して受け取り、隣に不足している人がいた時、それを分け与えれば、そこから神の業が始まると言うことだ。そのとき、自分の分がなくなると心配することはない。パンが私たちに必要であることは、神はご存知であり、必要なものは与えてくださる。伝道の書は言う「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」(伝道の書11:1)。
・5つのパンは、自分ひとりで食べれば、5つのままだ。しかし、それを神のもとに差し出せば、そのパンが50にも100にも増える。この世は神が働いておられる世界なのだ。それを信じて、パンを差し出すことを、私たちは求められている。