江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年2月15日説教(ヨハネ5:1-9、起きて、歩きなさい)

投稿日:2004年2月15日 更新日:

1.38年間病気に苦しんだ人

・祭りの時にイエスはエルサレムに上られ、ベテスダの池に行かれた。ベテスダは、エルサレムの北にあった貯水池で、そこには、五つの回廊があった(ヨハネ5:1-2)。池を取り巻いて5つの建物(回廊)が建てられていたのであろう。その回廊には、大勢の病人が集まっていた(5:3)。その池は病気をいやす奇跡の池として知られていた。池の水が動いた時に最初に池に入る者はいやされるとの言い伝えがあり、そのため大勢の病人が集まり、その病人を世話するための施設がつくられ、雨露をしのぐために回廊が設けられていた。ベテスダとはヘブル語で恵みの家という意味である。

・その池は間欠泉であったと思われている。間欠泉は地下水が地下の空洞に貯まり、それが一定量を超えると圧搾されていた空気の圧力で、池の中に流れ込む。地下を通って水が湧き出すので、水の中に多くの鉱物が含まれ、病気をいやす成分も含まれていたのだろう。今日では、温泉や鉱泉には病気をいやす作用がある事は知られている。その間の事情は、新共同訳では欠けている5章4節を見るとわかる。口語訳では「主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」と書いてある。

*新共同訳で5:4が欠け、口語訳であるのは、翻訳の基礎になった写本=底本が異なるからである。

・「そこに38年の間、病気に悩んでいる人があった」(5:5)。38年は長い時間だ。当時の平均寿命は40歳から50歳位であろうから、38年間病気だったということは、生涯の大半を病気に苦しめられてきた人だ。恐らくは、病気のいやしを求めて多くの医者にかかり、薬を求め、加持祈祷もしてもらったが、治らなかったので、今、最後の頼みとして、評判の高いベテスダの池に来ていたであろう。

・イエスがその人に「治りたいか」と声をかけられた時、彼は答えている。「主よ、水が動く時に、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が入りかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」(5:7)。「池の中に私を入れてくれる人はいません」と彼は答えた。最初は家族や友人が彼を助けてくれたであろう。しかし、病気が長引くにつれ、誰もいなくなった。また、彼は言う「行きかけると他の人が先に降りていくのです」。慰めといやしが必要な病人の社会にも生存競争があり、彼は寝たきりだから、その競争に勝って一番に池に入ることが出来なかった。過酷な現実がここにあった。

・その人にイエスが声をかけられた「治りたいか」。治りたいのに決まっているのに、その人は「治りたいです」とは答えることが出来なかった。「治りたいか」という問いかけに、この人は文句を言うことで答えた「誰も助けてくれないのです」「みんなが私を押しのけて先に行ってしまうのです」。この人は、余りにも長い間失望ばかりしてきたから、治りたいという意欲さえもなくなり、もはや病の床に伏すのが当たり前であり、本当に治りたいのかも良くわからない惰性の中に生きてきた。そしてイエスの問いかけを聞いても、何も期待するものはないので、けだるく答えただけだった。38年間何も起こらなかったから、今何かが起こることを期待できなかった。この人の肉体は長い間の病気により衰えていたが、この人の心も同じように病んでいたのだ。イエスの「治りたいか」という呼びかけが、彼の心身の衰えを白日のもとに引き出した。

2.起きて歩きなさい。

・治りたいという意欲さえ失ったこの人にイエスは声をかけられる「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(5:8)。ここにイエスは三つのことを言われている「起き上がりなさい」「床を担ぎなさい」「歩きなさい」。最初の「起き上がりなさい」と言う言葉はギリシャ語のエゲイロウという言葉だ。「起きる」の他に「目を覚ます」、「よみがえる」と言う意味もある。「良くなりたいか」という問いにまともに答えることも出来ない、絶望しきった男を起き上がらせるために、「目覚めよ、よみがえれ」とイエスは言われたのだ。そして「床を担げ」と言われた。この床はこれまで彼がそこに横たわっていた場所、彼を担いでいたものだ。これからはもう床はいらない、もうそれに頼るなと言われた。「歩きなさい」、今いる場所から歩き始めよ。新しい人生を始めよとイエスは言われた。こうして38年間も病の中にあったこの人はいやされた。

・この人の問題は病が重かったことではない。病によってこの人が生きる気力をなくしていたことが問題だったのだ。困難の中にあって、この人はあきらめの気持ちを他人のせいにして「誰も助けてくれない」、「みんなが先に行ってしまう」と文句ばかりを言っていた。自分の境遇を恨んだり、人を責めたり、人をうらやんでいるだけでは、何の解決にもならない。私たちも現在の苦境を人のせいにしがちだが、そこからは何も生まれない。何故ならば、問題は私たちの内部にあるのであり、外部にあるのではないのだから。

・イエスがこの男に語られたことは「あなたは誰も助けてくれず、誰も心にかけてくれないと思っているが、それは違う。父なる神はあなたのことを気にかけ、あなたを探し出し、呼びかけておられる。その神の使いとして、私があなたを探してここに来たのだ。さあ。目を覚ませ、神はあなたを愛しておられる」。このイエスの呼びかけが、この人に力を与え、この人を起き上がらせたのだ。


3.イエスの呼びかけに答えよう

・私たちの人生においては「失う」ということが多く起こる。友達を失う、家族を失う、職を失う。健康もそうだ。年を重ねてくれば、次第に体力は無くなり、目も見えなくなり、耳も聞こえなくなる。誰もが必ず経験する出来事だ。「人生は空しい、若い人がうらやましい」と歎いてもそこには何も生まれない。少なくとも信仰者のすることではないと聖書は教える。今日の招詞に〓コリント4:14-16を選んだ。次のような言葉だ。

「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」

・外なる人、この肉体は衰えるけれど、内なる人は日々新たにされていく。この人の問題は、体が病に侵されて38年間も寝たきりであったことではなく、体の衰え以上に心が衰えていたことだ。だからイエスはこの人に「目覚めよ、起きよ、よみがえれ」と言われたのだ。良くなりたいという思いを持つこと、その願いを祈りとすること、そしてイエスの言葉に従って一歩踏み出すことが新しい人生を生み出していく。いやしを与えるのは私たちの外にあるベテスダの水ではなく、イエスの言葉に従う私たちの心なのだ。

・神が私たちと共にいてくださるという事実は目に見えない。しかし、祈り求めた時に、それは目に見えるしるし、奇跡となる。現代のベテスダの池、恵みの場所は教会だ。教会に来てただ座っていても、そこでは奇跡は起きない。38年間何も起きなかったのだから、今日も何も起きないだろうと思って礼拝に参加しても、何も起きない。「治りたいか、救われたいか」とイエスは毎週の礼拝の中で言われているのだ。私たちがそのイエスの言葉を自分の心で聞き、治りたいという願いを祈り始めた時に、私たちは「目を覚まし、床を捨て、歩き始める」ことが出来るのだ。池のほとりで水が動くのを待っていても、何も起こらない。いやされるのはイエスであり、神であり、そして、私たちが信じて求める時にいやしは与えられる。

・私たちの教会の来年度の主題聖句はローマ書12:15「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」だ。私たちは一人ではない。神が共にいてくださるし、兄弟姉妹も共にいてくれる。私たちが祈り求めれば、この教会は「恵みの家」になる。それを信じきる信仰こそが、この教会を新しく建てると思う。

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