1.戦争に明け暮れた時代からの声
・今週から、私たちはアドベント、キリストの降臨を待つ待降節に入る。待降節でよく読まれる聖書個所が今日の聖句、イザヤ2章4節だ。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。人類は歴史以来、戦争ばかりして来た。いくら止めようとしても止められなかった。それは人間の中にある根源的な罪=原罪のためであり、その罪を贖い、殺し合いを止めさせ、真の平和を打ち立てるために、イエスが来られたと聖書は語る。待降節はそのイエスが来られたことを喜ぶ時だ。
・イザヤ2章4節はニューヨークの国連ビルの土台石に、この言葉が刻み込まれていることでも有名だ。二度の世界大戦を通して、世界は苦しみ、血を流した。「もう、戦争は止めよう、武器を捨てよう。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌としよう」と言う理想を掲げて、国連は設立された。しかし、現実の世界では、朝鮮戦争があり、ベトナム戦争があり、多くの地域紛争があった。今でも、アフガンやイラクで戦火は続いている。どうすれば戦争をなくすことが出来るのか、それについて聖書は何を語るのかを、今日は御言葉から聞いてみたい。
・この言葉を述べたイザヤは紀元前700年頃のユダヤの預言者である。イザヤの時代は戦争に明け暮れた時代であった。ユダヤはメソポタミヤとエジプトの狭間にある小国であり、絶えず大国の侵略を受けてきた。当時、メソポタミヤのアッシリア帝国が勢力を伸ばし、中東の国々に軍事的圧力を加えてきた。その中で、シリアと北イスラエルは軍事同盟を結んでアッシリアに対抗しようとして、ユダヤも同盟に加わるよう求めた。ユダヤはこれを断わった。するとイスラエル・シリア連合軍はユダヤに侵攻した。この時イザヤは「主に信頼し、中立でいなさい」と王に勧めるが、王は苦境を切り抜けるためにアッシリアに援助を求めた。アッシリア軍が来て、北イスラエルは滅ぼされ、ユダヤはアッシリアの属国にされてしまった。やがてユダヤは、アッシリアへの重い税に苦しみ、アッシリアで内紛が起きた時、今度はエジプトに援助を求めてアッシリアからの独立を図った。イザヤは「剣に頼るな、主に頼め」と主張するが、王は耳を傾けない。ユダヤはアッシリアの大軍に攻め込まれ、エルサレムは包囲された。
・イザヤ1章はこの時になされた預言と言われている。1:7「お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で、異国の民が食い尽くし、異国の民に覆されて、荒廃している」。アッシリア軍はユダヤの町々を攻め落とし、国のほとんどは焼き払われ、エルサレムだけが残された。1:8「そして、娘シオンが残った、包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように、きゅうり畑の見張り小屋のように」。イザヤはこのアッシリア軍の来襲に、ユダヤに対する神の怒りを見ている。それでも神はエルサレムを残してくださった。この神の憐れみの前に頭を下げて悔い改めよとイザヤは言う。それが1:9の言葉だ「もし、万軍の主が私たちのために、わずかでも生存者を残されなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう」。この時は、エルサレムはかろうじて守られ、ユダヤは生き残る。しかし、やがてアッシリアを滅ぼした新興のバビロンに攻め込まれ、ユダヤは国を滅ぼされる。先にイスラエルは滅び、次にユダヤも滅んだ。
・イスラエルとユダヤは、神により、エジプトからカナンの地に導き出された約束の民だ。それなのに神はご自分の民を捨てられた。それはヤコブの家が「主により頼むことを止めたからだ」とイザヤは言う。「この民がペリシテ人のように、東方の占い師と魔術師を国に満たし、異国の子らと手を結んだからだ。この国は銀と金とに満たされ、財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない。この国は偶像に満たされ、手の業、指の造った物にひれ伏す」(イザヤ2:6-8)。神に寄り頼まないで、自分の軍馬に寄り頼んだから滅んだとイザヤは見ている。
2.剣を取る者は剣で滅びる
・イエスは言われた「剣を鞘に収めなさい。剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26:52)。ユダヤの国はアッシリアが強くなるとアッシリアになびき、エジプトが強くなるとエジプトになびいた。その結果、国は滅びた。イザヤにはそれがわかった。だから言う「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(2:4)。武力には武力で対抗するやり方では、平和は来ない。武器を捨てること以外、国が生き残る道はない。だから「主により頼んで武器を捨てよう」とイザヤは言った。イザヤの預言は、国と彼自身の挫折、敗北、を通して神から示されたものだ。
・国連も、二度の悲惨な戦争を通して苦しみ、悲しんだから、二度と戦争はしないという悲願から出発したが、戦争を止めさせることは出来なかった。今日の招詞にゼカリヤ書9:9-10を選んだ。次のような言葉だ「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。
・ゼカリヤは「あなたの王が来る」と言う。「王」とは「この世を救う方」、メシアである。そのメシアは、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」。猛々しい軍馬に乗ってではなく、柔和なろばに乗って、戦争をするためには何の役にも立たない子ろばに乗って来る。「武力には武力で」という泥沼のような悪循環から世界を救い出すためには、武器を捨て、柔和であることが唯一の方法であると預言者たちは洞察していた。
3.柔和な方が来られる
・旧約聖書を貫く思想は「神はこの世界を見捨てられない、救済者としてメシアを遣わされる」というメシア待望の願いだ。そしてメシアは「軍馬ではなく、柔和なろばに乗って来られる」という信仰である。「軍馬の思想」は断固として斥けられる。旧約聖書には戦争を肯定するような記事も多いが、実はそれらの真只中に、「軍馬否定の思想」が途切れることなく流れている。イザヤ2章もそうであるし、詩篇46:10には「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを絶ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」とある。「軍馬」は、今日の言葉に置き換えるならば、銃や機関銃、ミサイルや戦車や軍艦等々であろう。メシアがこれらを装備することは決してない。あくまでも柔和に「ろばに乗って」来る。人を脅さず、善意を呼び起こし、人の心を和ませる有様でメシアは来る。イエスはろばの子に乗って、エルサレムに入城された。
・イエスは「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)と言われた。この「柔和な人々」とは「力を持たない者」とも訳せる。これは単に弱い人という意味ではない。腕力や政治的権力、膨大な経済力や軍事力を使って無理やり人に言うことを聞かせようとしない人のことだ。これら柔和な者にこそ、将来は約束される。今の世界には、結局ものを言うのは「力」だという信仰が根強くある。大人しくしていたらやられる。武器をより多く持つ者が勝つ。この考えが抜き難くあるために、世界には攻撃と反撃、テロと報復の悪循環が絶えない。そしてそれは増幅する。「やられたらやり返せ」、これが軍馬の思想だ。
・多くの「現実主義者」は、この世界ではそれだけが現実的な行き方だと言う。しかし、人類の歴史上、「軍馬の思想」で本当の平和が達成されたことはない。パレスチナでもアフリカでもアジアでも、この思想はより激しいテロを生み出しただけだ。今イラクで繰り広げられている戦争を見ても、まさにそうだ。新しい生き方が生まれなければならない。やられてもやり返さない、一方的に争いを止める。そういう方法でなければ、平和は来ない。聖書が私たちに教えるのはそうであり、それが最も現実的なあり方なのだ。柔和なイエスがこの世界の歴史の中に誕生したということは、新しい世界が、これまでの世界とは異なる世界が、始まったということである。イエスが来られて、時代はBC(Before Christ)からAD(Anno Domini)に代わった。私たちはイエスがメシアとして来られたと信じるから、私たちから変わって行く。「殴られても殴り返さない。踏まれても踏み返さない」、私たちが職場や学校や家庭でそれを実行し始めた時、私たちの周りから平和が、主にある平和が広がり始める。