江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年11月21日説教(ヨハネ黙示録19:11−16、最後の審判)

投稿日:2004年11月21日 更新日:

1.再臨のキリスト

・ヨハネ黙示録は、ローマ帝国の迫害下にある諸教会に、ヨハネが送った励ましの書簡である。ヨハネ自身も捕らえられ、地中海の孤島パトモス島に幽閉されている。そのパトモス島でヨハネは神からの啓示を受けた「このような不義の世界はいつまでも続かない。悪は滅ぼされ、世界は再創造され、人々の涙はことごとく拭い去られる。そのような日が来る」。ヨハネは権勢を誇るローマ帝国の滅亡の幻を見る。それが黙示録18章のバビロン滅亡の記事だ。その後、キリストが再臨され、悪を滅ぼされる様を見る。それが今日与えられたテキストの黙示録19章の幻だ。

・ヨハネは天が開かれ、白い馬に乗った騎士が地上に降りてくるのを見た(19:11)。その名は「誠実」及び「真実」と呼ばれ、正義をもって裁き、戦われる。馬は軍馬、白は勝利だ。白い軍馬に乗ったキリストが裁き主として来られる様をヨハネは見た。「その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった」。そして「血に染まった衣を身にまとっており、その名は神の言葉と呼ばれる」(19:13)とヨハネは書く。再臨のキリストの衣は血に染まっている。これが誰の血かについては、意見が分かれる。ある者は「滅ぼされた敵の返り血」だと読む。別の者は「十字架で流されたご自分の血」だと理解する。私たちがこのどちらを自分の読み方にするかは、非常に大事なことだ。

・キリストは最後の審判の時、軍馬に乗ってこられ、悪に満ちた人々を剣で裁かれると考えるのが、今アメリカの多くの人々を捕らえている「栄光のキリスト」像だ。アメリカ大統領のG.ブッシュはキリストを裁き主と理解し、アメリカはそのキリストのために異教徒と戦う使命を与えられていると信じている。彼がアフガンに侵攻し、今またイラクに攻め入った理由は、テロに対する戦いであると同時に、反キリストの異教徒を神に代わって裁くという信仰があると言われている。彼は演説の中で言う「テロリズムとの戦いは神の戦いだ。神はこの戦争を支持される」。しかし、黙示録を詳しく読む時、聖書の示す神はそのような方ではないことがわかる。また、今のイラク情勢が神の祝福下にあるとは思えない。自分の思いを聖書に読み込むのではなく、聖書の使信を耳を澄まして聞くことが大事だ。

2.神の言葉は生きている

・15節「この方の口からは鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒す」。一読すると、キリストが剣で敵を倒されるように読めるが、剣を取って立ち上がったペテロに対して「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言われたキリストがそのようなことをされるとは思えない。黙示録19:13には「その名は神の言葉」とある。キリストは剣ではなく、神の言葉と言う武器で敵と戦われるのだ。従う天の軍勢は、鉄のよろいではなく「白い麻の布」(19:14)を着てキリストに従う。キリストの名のために殺されていった殉教者の群である。キリストの衣を染めている血は、敵の返り血ではなく、御自身の十字架で流された血と後に従う殉教者の血だ。「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と言われた地上のキリストは、悪を御言葉によって裁かれる天上のキリストと同じ方である。

・著者ヨハネも神の言葉を通してローマと戦っている。彼が迫害に苦しむ諸教会に送ったものは、武器ではなく、神の啓示を記した書簡だった。その書簡に書かれた幻を通して「ローマと戦え、体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ 10:28)と彼は諸教会に呼びかけている。「信仰を持って殺されよ」と彼は呼びかけているのだ。そんなことが出来ようかと私たちは反論する。しかし、神の言葉は無力ではない。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブル4:12)。この神の言葉に信頼し続けよとヨハネは述べている。

・この世には悪が満ちているとしか思えない現実があることを私たちは知っている。人間の歴史は殺し合いの歴史であり、力の強い者が弱い者を殺して栄華を競ってきた。黙示録の書かれた時代にはローマ皇帝を礼拝しないという理由で、キリスト教徒が殺され、ヨハネ自身も流刑にされた。そのヨハネに神は天上の幻を見せ、神がいつまでも悪の存在を許される方ではないことを示された。ヨハネは、与えられた啓示を文字にして、諸教会に送った。それから200年後、ローマはキリストの前に跪く。キリストを殺し、キリストに従う者たちを殺し続けたローマ帝国が紀元310年にはキリスト教を公認し、380年には国教とした。そして今、ローマの繁栄の跡は、遺跡に残るだけであり、他方キリストの教会は世界中に立つ。正に黙示録の預言が成就し、「神の言葉は生きている」ことを示した。

3.生きた神の言葉を信じ切る

・今日の招詞にマルコ9:22−24を選んだ。次のような言葉だ「『霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。お出来になるなら、私どもを憐れんでお助けください』。イエスは言われた『出来ればと言うか。信じる者には何でも出来る』。その子の父親はすぐに叫んだ『信じます。信仰のない私をお助けください』」。

・イエスの元に癲癇の子が連れられてきた。当時癲癇は悪霊の働きによる病だと思われていた。父親は息子のいやしをイエスに願った「悪霊は息子を捕らえ、癲癇の発作により、何度も死にそうになりました。私どもを憐れんでください」。息子の癲癇は父親をも深く苦しめ、父親は「私どもを憐れんでください」と懇願する。しかし同時に「お出来になるなら」と言葉を添えた。イエスならいやしていただけるとの確信は父親には無かった。イエスは言われた「出来ればと言うか。信じる者には何でも出来る」。神の力は人間のように限定されたものではない、神には出来ないことはない、それを信じるかとイエスは言われたのだ。父親は応えた「信じ切れない私の不信仰を癒して下さい」。息子はいやされ、同時に父親の不信仰もいやされた。

・このような癒しの業は現代でもあるのだろうか。それともイエスだから出来たのであって、この話は現代の私たちには無縁の話なのか。ヨハン・クリストファー・ブルームハルトという牧師が体験した出来事を考えてみたい。彼は1840年ごろ、南ドイツの小さな村で牧師をしていたが、その村に精神の病を持つ一人の女性がいた。彼女は幻覚を見たり、幻聴を聞いたり、突然激しい発作に襲われたりしていた。今日で言う精神分裂病にかかっていたのであろうか。相談を受けたブルームハルト牧師は医者に相談したり、家族から報告を聞いたりして2年以上に渉って彼女の相談相手になり、祈り続けたが、何の改善も見られなかった。1842年6月、いつものように女性と話していると、女性は発作を起こし、意識不明になった。ブルームハルトは怒りに駆られて彼女の手を握って祈った「手を合わせて祈りなさい。主イエスよ、助けて下さい。私たちはずいぶん長い間悪魔の仕業を見てきました。今度はイエスがなさることを見とうございます」と。イエスが今なお生きていて、力を発揮することを彼はこの時信じた。

・この夜が決定的な転機になって、病状は徐々に好転し、ついにその年の年末に女性は癒された。その後、女性はブルームハルトの牧会やいやしの手伝いをするようになった。これは「神の国の証人ブルームハルト」(新教出版)という本に記載されている話だが、著者の井上良雄牧師はあとがきに書く「今日、教会に最も必要としているものは、ブルームハルト的なもの、活ける神への立ち帰りと神の力への素朴な信仰ではないか」。神の国は単なる心情の問題ではなく、人間生活全てに力と働きを持って関る出来事であり、私たちが神の国の証人として生きるとは、聖書を素朴に信じ、与えられる問題に「イエスは生きておられ、共にいたもう」事を信じ続けることではないか。

・ヨハネ黙示録の世界を単なる幻想と思う時、それは何の力も持たない。しかし「イエスは生きておられ、勝利される」という現実の出来事がヨハネの時代に起こり、現代でも起こり続けていることを私たちが信じる時、天上の勝利が地上の勝利に変わる。この世には闇の力としか思えないような、出口の見えない苦しみ、どうしていいかわからない苦難が現実にある。その時、「神には出来ないことはない。イエスは勝利者だ」と本気で信じて行為していった時、現実が変えられていく。信仰とは、日曜日に教会に来て個人的な慰めを受ける、ただそれだけではない広がりを持つ。私たちが毎日の生活の中で生きて働かれる神を証し続ける時、私たちを取り巻く現実が変わり始める出来事であることを今日確認したい。

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