江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年12月5日説教(イザヤ59:12-20、神自らが行為された)

投稿日:2004年12月5日 更新日:

1.現在の世界とイザヤの時代の世界

・今日、私たちは待降節第2主日を迎えた。クリスマスはキリストが来られたことを喜ぶ時だ。そのキリストは人間の側の力が尽きたため、神自ら行為された出来事として来られたと聖書は言う。イザヤ59:16「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業」。世に悪が満ち、しかもそれを憂えたり、執り成したりする働き人がいないのをご覧になって、神ご自身が行動を起こされるとイザヤは預言した。その預言の成就がクリスマスであると聖書は言う。

・主自らが行動されると預言したイザヤの言葉は、バビロン捕囚からの帰還がなされた紀元前530年ごろを背景としている。ユダヤは国を滅ぼされ、人々はバビロンに奴隷として連れ行かれ、苦しい50年を過ごした。そして、開放の時が来て、喜び勇んでエルサレムに戻ったが、神の都といわれた町は見る影もなく荒れ果て、自分達の住まいには異邦人が住んでいた。それでも彼らは勇気を奮い起こし、畑に鍬を入れ、神殿の再建に取り掛かった。しかし、神殿を再建しようにも、材料もお金も無い。神殿の土台石は築かれたが、やがて工事は中断し、再開のめどは立たなかった。そこに激しい飢饉が襲い掛かり、人々は生きるのが精一杯の暮らしに追い込まれた。せっかく国に帰ったのに、現実の生活は彼らの期待を裏切り、明日に希望が持てない。彼らの喜びはさめ、つぶやき始める「主の手が短くて、私たちを救えないのではないか。主の耳が鈍くて、私たちの声が聞こえないのではないか」。イザヤ59:1の言葉の背景には、民の嘆きがある。

・しかし、イザヤはいう「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げている」(59:1-2)。お前達はうまく行かないとすべてを神のせいにする。しかし、神を責めるのではなく、自分を振り返れ。「御前に、私たちの背きの罪は重く、私たち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪は私たちと共にあり、私たちは自分の咎を知っている」(59:12)。正義が退き、公平が損なわれたのは、私たちの罪とがのためだ。それを悔いることなく、神が悪い、社会が悪い、と不平ばかりをつぶやく。あなたは平和を神に祈ろうともしないし、虐げられている人のために執り成そうともしない。

・「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った」(59:15)。人間ならばこのような社会は捨てる、「あなた方は救いようが無い。だから見捨てる」と。しかし、私たちの神は違う。神は言われる「あなた方は救いようが無い。あなた方は自分で自分を救えない。だから、私自身が行動する」。人間に絶望された神は自ら行動される。「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」(59:20)。


2.神の直接行為としてのイエスの来臨

・今日の招詞にルカ4:18−21を選んだ。次のような言葉だ「『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』。イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。

・イエスが引用されたのはイザヤ61章の言葉だ。前に見たように、イザヤの時代は、前途に希望が無かった。社会に希望がない時、人々の考えることは自分の事だけだ。自分だけは生き残り,良い暮らしをしたい。だから、富める者、力のある者は、その富や力を使って、さらに貪ろうとする。孤児ややもめは虐げられている。神の支配など、どこにも感じられない。その中で、イザヤは神が直接行動されるとの言葉を聞いた。神がメシアを遣わし、この世を改めて下さる。そのような幻を見た。その幻がイザヤ61章の預言だ。

・その幻をナザレで育ったイエスも見られた。自分がメシアとして聖別され、世に遣わされたことを確信された。故にイエスは宣教の始めに、故郷ナザレの会堂でイザヤ書を読まれた「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである」。そして言われた「この言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。私がそのメシアである」と。

3.イエスが来られて何が変わったのか

・イエスの時代もまた、前途に希望の持てない時代だった。ユダヤはローマの植民地であり、ローマと、ローマの任命する領主の双方に税金を納めなければならなかった。税金を払えない人は妻や子供たちを売り、それでも払えなければ投獄された。人々は小作人として働き、地主に収穫の半分以上を取られていた。飢饉の時には大勢の餓死者が出た。豊作の時でさえ、食べるのがやっとの生活であった。病気に罹れば、治療を受けることなく、死んでいった。人々は約束されたメシアが来て、生活が良くなることを待望していた。その人々にイエスは言われた。「私がそのメシアだ。あなた方の救いは、今日私の言葉を耳にした時に成就した」と。

・神が行為された。キリストが来られた。世の中は変わった。しかし、人々は言う「何も変わっていない。私たちはイザヤの時代と同じ状況にいるではないか。イエスの時代と何が違うのか」。現代の日本を見よ。政治家は賄賂をもらって国政をゆがめ、役人は権益保護のために作る必要のない道路や施設を作り、財政は破綻状況にある。財政負担を減らすために医療や年金の保険料は上がり、生活は苦しくなっている。学校に適応できない子供たちは不登校になり、就職できない若者は家に閉じこもり、未来に希望をもてない者は自殺していく。イエスが来られたのに、世の中は何も変わっていないではないか。彼らはつぶやく「主の手が短くて、私たちを救えないのではないか。主の耳が鈍くて、私たちの声が聞こえないのではないか」。

・にもかかわらず、この世界は根本から変わった。ゲルト・タイセンという聖書学者は「イエス運動の社会学」という本を書き、イエスが来られて何が変わったのかを分析した。彼は次のように書いた「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、この

ヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストが来られることによって、「キリストにある愚者」が起こされた、それが最大の変化だとタイセンは言った。キリストにある愚者とは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストが来られた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちだ。

・ロバート・スチブンソンと言う小説家がいる。宝島を書いた人だ。彼はあるとき、らい病の人たちが収容された島を訪れた。その島では、修道院のシスター達がらい病者の世話をしていた。彼は次のような詩を歌った。「このところには哀れなことが限りなくある。手足は切り落とされ、顔は形がくずれ、さいまれながらも、微笑む、罪のない忍苦の人。それを見て愚か者は神なしと言いたくなろう。一目見て、しり込みする。しかし、もう一度見つめるならば、苦痛の胸からも、うるわしさ湧き来たりて、目にとまるは歎きの浜で看取りする姉妹達。そして愚か者でも口をつぐみ、神を拝む」。

・なぜ、らい病のような忌まわしい病気があるのかわからない。らい病は肉を溶かし、骨を溶かして、最後には死に至る不治の病であり、伝染病ゆえ、人々から忌み嫌われた。不信仰者はそれを見て「神の平安がどこにあるのか」とうそぶく。にもかかわらず、らい病者のために自分の生涯を捧げる人がいる。この人たちこそ、キリストにある愚者であり、神に執り成しの祈りをする人たちだ。私たちも、社会が悪い、世の中が悪いと不平を言うのを止めよう。キリストにある愚者になり、自分に出来ることをしよう。神が直接行為されてキリストが来られた。私たちもキリストに従う者として、神から聖別され、この世に遣わされた存在なのだ。

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