江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年7月4日説教(ヨハネ4:27-42、今は種蒔きの時)

投稿日:2004年7月4日 更新日:

1.サマリアの女の回心

・先週、私たちはヨハネ4章を通じて、サマリアの女とイエスの出会いを学んだ。イエスは旅の途中で、サマリアのシカルという町を通られ、井戸端で休息をとられた。そこに一人の女が水を汲むために来た。女は水を汲む時間ではない昼の一番暑い時に、しかも町から遠い井戸まで水を汲みに来ていた。イエスとの対話を通じて、女がこれまでに何度も結婚に失敗し、今は内縁の夫と同棲している身であること、そのために町の女達からはふしだらの女として村八分され、町の井戸を使いにくくなっている事情が明らかになっていく。イエスは女の最大の問題が、のどの渇きではなく魂の渇きであることを見抜かれ、女に「あなたに命の水を与える」と慰められた。

・その時、町に出かけていた弟子たちが食べ物を持って帰ってきた。弟子たちはイエスが一人で女と話をしておられるのを見て、驚いた。通常、教師(ラビ)は外で女と話すことはしないし、ましてや女は宗教的に汚れているとされたサマリア人だった。彼らはイエスに何も言わなかったが、心の中では非難していた。弟子たちは気まずい気持ちのままでイエスに勧めた「ラビ、食事をどうぞ」。

・イエスの慰めを通して女は回心した。でも、何故、こんなに突然に回心したのだろう。それは女の置かれていた状況を考えればわかる。女はサマリア人であり、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、道で遭っても口を利かない。それなのに、ユダヤ人のラビであるイエスは女に声をかけた。彼女は女であり、当時の女性は一人前とみなされず、結婚前は父の、結婚後は夫の財産だった。教育を受けることも許されず、神殿の礼拝に参加することも許されなかった。その彼女に、イエスは父なる神はあなたを愛しておられると説かれた。彼女はふしだらな女として周りからつまはじきにされていたが、イエスはその罪を告発するのではなく、そのような生き方では幸せにはなれないことを女に示された。これまで誰も彼女のことを真剣に受け止めてくれなかったのに、今ここに彼女のために祈る方が現れた。しかも、この方は自分をメシアであると告白されている。女は根底から変えられた。

・女はそれを契機に場を離れた。彼女はその時、水がめを置いたまま帰っている。水を汲みに来たのに、そのことを忘れてしまった。それほどにイエスの言葉が彼女を捕らえた。彼女は町に戻ると、人々に告げた「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(ヨハネ4:29)。彼女は罪の女として町の人たちからのけ者にされていた。その彼女が自分の最も触れられたくない部分、自分の罪を人々に示して言う「この人は私が犯した罪を全て知っていました。この人こそメシアです」。町の人々はこの女の日常を知っていた。彼女は隣人を避け、隣人も彼女を避けていた。その女が今は人々の目を避けないで見つめて言う「私はメシアに出会いました」。何事かがこの女性に起こったのだ。だから、人々は町を出て、イエスの元へ走った。

2.伝える者の喜び

・一方、井戸端におられたイエスは疲れておられたし、空腹でもあられた。しかし、今、一人の人が神に出会い、その喜びを伝えるために走り去ったのを見て、空腹と疲労を忘れられた。だから、食事を勧める弟子たちに言われた「私にはあなた方の知らない食べ物がある」。一つの命がよみがえった。そのことがイエスを満たした。やがて女はサマリアの人々を連れてここに来るだろう。その時、不毛と思われていたこのサマリアの町で、福音の種が芽を出し、成長し、豊かな収穫を結ぶようになる。だからイエスは言われた「収穫はまだ先だとあなた方は言うが、畑を見よ。既に色づいて収穫を待っている。あなた方はこの地から豊かな収穫を挙げるのだ」。

・穀物の場合、種を蒔く者と収穫する者は同じである。しかし、伝道は違う。伝道において収穫を自分の生きている間に見ようと考えるのは難しい。イエスが言われたように「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」(4:37)。イエスは種を蒔かれた。収穫するのは弟子たちである。仮に、私たちが今年、伝動の収穫ができるとしたら、それは私たちの前任者が蒔いた種が実ったのである。成人してから教会に来て、クリスチャンになる人の多くは、子供のころ教会学校に行っていたとか、若い時にミッションスクールに通っていたと言う人が多い。どこかで聖書を読み、神の言葉を聞いた魂が、やがて時間の経過の中で芽を出し、教会に導かれる。

・私たちも次の世代のために種を蒔く。弟子たちは、サマリアは異邦人の町であり、単なる通過点に過ぎないと思っていた。しかし、イエスは通過点をも豊かな収穫の場とされた。私にとっても、この篠崎の地は単なる通過点ではない。江戸川区は下町であり、伝道の難しい地と言える。しかし、私たちはここに種を蒔く。そして次の人が収穫するのを待つ。今日の招詞であるイザヤ55:10-11を共に読みたい。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」。

・伝道は収穫するまでに長い時間のかかる仕事だ。しかhし、伝道は伝える人に平安と喜びを与える。イエスは伝道の喜びで胸が一杯になられた。サマリアの女は証し人になることによって、町の人々との間にあった「隔ての壁」を崩してもらった。伝道は種蒔きだが、種を蒔くと必ず反応がある。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える」。伝道を通して、人はそれを実感する。その喜びをみんなが味わったら、この教会は生き生きした教会になるだろう。

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