江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年11月14日説教(申命記8:1−10、救いの約束)

投稿日:2004年11月14日 更新日:

1.約束の地に入ることが救いか

・インターネットで知り合った人々が、車の中に練炭を持ち込んで、集団自殺する事件が続いている。11月7日の朝日新聞朝刊に、集団自殺を試みて未遂に終わった人の記事が載っていた。彼は大学を卒業して1年、就職活動で30社以上に断られ、データ入力のアルバイトをしていた。与えられた数字をひたすら打ち込みながら、彼は思った「何のために生きているのだろう。この人生は自分のものなのか」。そんな時、インターネットの自殺サイトを通して、一人の大学生と知り合った。大学生はある企業に就職が内定し、事前研修に出て「一生あんな仕事を続けるなら死んだ方がいい」と思うようになった。帰り際、自殺を持ちかけられ、断る理由も無かったので、応諾し、他に二人の仲間を見つけて、集団自殺を図ったが、失敗した。「何のために生きるのかわからない」、両親の人生を見て「あのような人生だったら、生きる価値がない」と思う人が増えている。私たちは何のために生きるのか、救いとは何だろうかを、40年間も考えさせられたのが、荒野をさまよったイスラエルの民であった。
・今日は申命記8章から御言葉を学ぶ。申命記は40年の荒野の放浪の後に、約束の地カナンに今入ろうとしている民にモーセが語った告別説教である。モーセは40年間民を導いてきたが、彼自身は罪を犯したため、約束の地に入ることは出来ない。そこで、彼は民を集め、神が何をして下さったかを覚えて、新しい地での生活を始めるように、民に教える。最初にモーセは言う「今日、私が命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる」(申命記8:1)。何故戒めを守るのか、それは主が命の主だからである。2節「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」。
・主が何故、あなたたちを40年間も荒野に導かれたのか。それは「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(8:3)とモーセは言う。「人はパンだけで生きるのではない」。イエスが荒野の誘惑の中で述べられた言葉はこの申命記8章からの引用だ。パンは人が生きるために必要である。そのパンを与えてくれるのは主なる神なのだということを知るために、あなたたちは荒野に導かれたのだとモーセは民に言った。そして主は「あなたたちを養う」という約束を40年間守られ、今、あなたたちは約束の地を前にしている。そこは乳と蜜の流れる地、豊かな大地である。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。・・・あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思ってあなたの神、主をたたえなさい」(8:7−10)とモーセは言う。

2.荒野の40年を振り返る

・荒野を旅するイスラエルの民は、どのような思いを胸に抱いて、40年を過ごしたのであろうか。今を我慢すれば、「乳と蜜の流れる地に暮らすことが出来る」ことを目指して、荒野を歩いたのであろうか。最初はそうであったに違いない。エジプトでの奴隷生活から、自由な生活に脱出することが、彼らの願いだった。しかし、主が民を約束の地に導きいれたのは、すぐではなく、40年の後であった。40年とは一つの世代が交代するほどの長い時だ。エジプトを出た第一世代の人々の大半は荒野で死んだであろう。もし約束の地に入ることが救いであれば、入れなかった彼らは救われなかったのか。そうであれば、主は何故人々をエジプトから導き出されたのか。エジプトでは過酷な奴隷労働があったかもしれないが、水も食べ物もあった。約束の地に入ることが救いであるとすれば、そこに至ることの出来ない荒野の40年間は地獄の生活であっただろう。
・しかし、11節以下をあわせて読むと、「約束の地に入ることが救いではない」ないことをうかがわせる。12−14節「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」とモーセは言う。約束の地に入れば、民は物質的に満ち足りて、もはや神を求めなくなるであろうことを、モーセは知っていたのだ。そしてやがて「自分の力と手の働きで、この富を築いた」(8:17)と思うようになる。その時から、堕落が始まるであろう。救いとは約束の地に入ることではないのだ。
・今日の招詞に出エジプト記13:21−22を選んだ。次のような言葉だ。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」。荒野の民は旅を急がなかった。荒野の生活を記す民数記は述べる「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。・・・この雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した」(民数記9:15-17)。宿営している間、人々はその場所で日常生活をおくった。その日常生活の中でいろいろなことがあった。水が無い時には、主は岩を開いて水を与えられた。食べる物が無い時には、天の雲を開いてマナをお与えになった。マナは荒野で取れるパンのような植物の実であった。肉が必要な時には、渡り鳥のうずらを与えてくれた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。救いの約束とは、はるかな先に成就する夢のことではない。今生かされていること、それこそ救いなのだ。現実の生活の厳しさの中で、「あなたを養う」という神の約束が成就し続けていることを見ることこそ、救いなのだ。約束の地に入れずに、荒野で死んでいった者達もまた、約束されたものを十分に受取ったのだ。

3.善き力に囲まれ

・今日、私たちは新しい賛美歌を歌う。新生讃美歌73番「善き力に我かこまれ」という歌だ。この歌は、D・ボンヘッファーというドイツの牧師が家族に当てた手紙の一節だ。彼はヒットラー率いるナチ政権を批判したため、国家反逆罪で捕らえられ、殺された人だ。処刑される半年前の1944年のクリスマスに、彼は獄中から家族に手紙を送った。彼自身は牢獄の中にいて、いつ処刑されるか分からない。彼の家族は牢獄の外で連合国軍の空爆に日夜おびえている。その状況の中で彼は歌う。「善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。夜も朝もいつも、神は我らと共にいます」。牢獄の外は空爆のため、焼け野原になっている。牢獄の中では、一人の囚人が処刑を待っている。しかし、その囚人は不平もつぶやきも言わない。神が共にいてくださる。それだけで彼の心は満たされている。
・先に見たように、約束の地に入ったイスラエルの民は豊かさの中で、神を忘れ、勝手気ままに暮らすようになる。やがて国は乱れ、イスラエルは困難な道を歩み始める。神が共におられなければ、約束の地は滅びの地になり、神が共におられれば、荒野もまた天国になって行く。救いとは困難の中で、神の恵みを受け続けることなのだ。だから、モーセは民に言った「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」ではないか(申命記8:4)。
・「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は、荒野から豊かな土地に入ろうとしている民に与えられた言葉だ。良い地の豊かな生活の中で「食べて飽きた時」、人は何のために生きるかがわからなくなる。その時、この世で何事かを成し遂げることが人生の目標になり、死んで天国に行くことが救いになる。しかし、そのようなことでは人は生きることが出来ない。今ここに生かされている事を知る、与えられた毎日を充足して生きる、そのことこそ救いなのだ。毎日の意味のわからないデータ入力を通して、神は私たちを導こうとしておられる。毎日の洗濯や炊事の繰り返しの中に神の導きがある。豊かさの中でそれが見えなくなるから、神は私たちを時に荒野野中に、困難の中に導かれる。「善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、世の悩み共に分かち、新しい日を望もう。過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も、騒ぎ立つ心鎮め、御旨に従い行く」(賛美歌73番1−4節)。ボンヘッファーの言葉をかみしめながら讃美して行こう。

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