1.教会創立35周年を迎えて
・今日、私たちの教会は創立35周年を祝う。篠崎教会が新小岩教会の伝道所としての初めての礼拝を持ったのが、1969年11月6日、今から35年前だった。35年の間、いろいろのことがあった。ある時には1年間の受浸者数が15名になった時もあった。最盛時には礼拝出席者は50名を上回っていた。その後様々の試練の中で、教会が元気を失くして行った。今、私たちは教会を新しく建て直す途上にある。私たちはこれからどのような教会を形成していくのか、神は私たちに何を望んでおられるのかを探し求めたい。創世記12章から御言葉を聞こう。
・創世記12章は、約束の地に導かれたアブラハムに与えられた試練についての物語である。アブラハムはメソポタミヤのウル(現在のイラク)に住んでいたが、「その地を離れて、私の示す土地へ行け」との神の召しを受けた。彼は故郷を離れ、カナン(現在のパレスチナ)の地に行き、そこに祭壇を築いて「主の御名を呼んだ」(創世記12:8)。ところが約束の地で最初に与えられたものは、飢饉であった。行けと言われて来たのに、来て見ると、食べるものもない。このままでは死んでしまう。アブラハムの前には三つの選択肢があった。一つは約束が幻だったとして故郷に戻ることである。故郷は豊かな土地であり、飢饉もない。二つめは、約束をなおも信じてカナンの地に留まることであった。神は「あなたを祝福する」(12:2)と言われたのだから、養って下さると信じて留まり続ける。三つめの選択肢は、しばらくの難を逃れるために、他の土地に行くことであった。信仰的には留まることが望ましいであろうが、アブラハムにはそこまでの信仰は無かった。何故ならば、導かれる神がどのような方であるかを彼はよく知らなかったからだ。
・アブラハムは、三つめの選択をして、エジプトに下ることにした(12:10)。アブラハムは依然として信仰者である。しかし、今、彼は神の御旨を問うことをせず、自分の力を頼みにした。その結果、信仰は不従順となり、内側から挫折していった。挫折した信仰は憂いを招き、憂いは不安をもたらす。エジプトに行く道すがら、彼は妻サラがひときわ優れて美しいことが気になる。妻が美しいことは夫にとって誇りであるが、神のない世界では不安材料だ。強い者が力ずくで妻を奪う心配があるからだ。不安に駆られたアブラハムはサラに言う「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。
・アブラハムの想像は現実となった。エジプトに着くや、人々の視線は美しいサラの上に集中し、うわさは宮廷にも届き、エジプト王(ファラオ)はサラをハーレムに迎え入れた。そしてアブラハムは王から富を与えられた。新参の外来者が妻の出世によって裕福な財産家になった。アブラハムは信仰の父と言われる人だ。その人が、生涯の始めにおいては、妻を売って身の安泰を保ち、金持ちになったという経歴を持つ。それは人間的に見て卑しい行為であり、また信仰的に見ても神の約束を反故にする行為だ。アブラハムは姦淫の罪を犯した。
2.神の救済と赦し
・神はそのアブラハムを救出される。17節「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。神は不正に対して鞭を下された。しかし、その鞭を、不正を犯したアブラハムではなく、ファラオの上に下された。ファラオは突然の疫病の原因がサラを召したことにあることを知らされ、アブラハムを呼び出して言った「あなたは私に何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『私の妹です』などと言ったのか。だからこそ、私の妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい」(12:18-19)。
・ファラオは自分が過ちを犯した事を知ると、すぐに改めた。他方、アブラハムは何も言わずに、与えられた持ち物を持って妻と共にエジプトを去る。アブラハムは恥ずかしい思いと、もう罪を犯すまいという決意をもって家路に向かった。彼がカナンに着いて、最初に行ったのは礼拝であった「彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」(創世記13:4.口語訳)。
・聖書で義人と呼ばれる人は、決して品行方正の人ではない。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を手に入れた。ペテロはイエスの裁判の時、イエスなど知らないと否認した。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者だった。神は人の過ちを通して、人を導かれる。過ちを犯して、人は始めて自分が罪人であり、無力な人間である事を知り、神の御名を呼び求めるようになるのだ。
3.神の祝福
・今日の招詞に創世記13:14―16を選んだ。次のような言葉だ「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう』」。
・アブラハムはエジプトで手に入れた多くの財産を持ってカナンに帰ってきた。一緒に行った甥のロトもまた多くの家畜を持つ者となった。そして「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた」(13:7)。多くの家畜を飼うだけの十分な水と草がそこには無かった。先には食べることの出来ない飢饉という試練がアブラハムを襲った。今度は多くを持ちすぎる故の試練がアブラハムを襲った。しかし、今のアブラハムはもう、自分の力に頼る人ではなかった。赦しの出来事がアブラハムを変えていた。彼はロトに言う「私たちは親類どうしだ。私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう」(13:8-9)。
・一方には肥沃なヨルダン川流域の草地があり、他方には水も牧草も乏しい荒野がある。牧羊者であれば、誰でもヨルダン川流域を選ぶ。しかし、アブラハムはその選択を神に委ねた。叔父であり、年長者であり、強者であるアブラハムが、甥であり、年少者であり、弱者であるロトに選択上の優先権を与えた。罪を犯して無条件で赦されたから、今は、赦して下さった方の御旨に従おうと決意している。だから彼は自分の望みを優先せず、相手の望みを優先した。その結果、争いは回避された。アブラハムが自己の生存権を自力で守ろうとしたら争いは拡大したであろう。今のパレスチナやイラクで戦争が続くのも、お互いが自己の生存権を主張して譲らないからだ。
・アブラハムは新しい土地を示された。しかし、生活者としてのアブラハムの心は平安ではなかっただろう。ロトの選んだ地の方が良いに決まっている。自分に与えられた土地は何も無い荒野だ。その彼に神は言われる「目を上げよ、下を向くな。私はあなたと共にいる。私の祝福はあなたにある」。今、篠崎教会はこのアブラハムと同じ立場にいると思う。荒野にいるから、足らないものは多いだろう。しかし、神は共にいて、この教会を祝福すると約束された。この約束を信じて、私たちは目を上げて将来を見る。私たちの教会も、アブラハムのように罪を犯した。だから大勢いた人々も散らされた。しかし、神は私たちの罪を赦して下さった。だからもう罪を犯すまいと誓った。今、私たちは、この赦された方の御旨に従って、新しい教会を形成する。その教会とは、自分が赦された事を知るから、相手を赦す教会だ。条件なしに相手を抱きしめる教会だ。その時、私たちの共同体の中に和解が生まれる。教会の中の和解が、地域の和解を生んでいく。この地こそ、私たちの約束の地なのだ。