江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年10月31日説教(ルカ15:11-24、放蕩息子の帰郷)

投稿日:2004年10月31日 更新日:

1.放蕩息子の家出

・今日、ルカ15章の放蕩息子のたとえを説教テキストとして選んだ。この物語を選んだのは、昨年上野の美術館にレンブラントの絵を見に行った折、その一つに「放蕩息子の帰郷」という絵があり、その絵に感動して、機会があったら、この物語について、話したいと思っていたからだ。その絵は、死んでいたと思っていた息子の帰還を喜んだ父親が、ごつごつした手で息子を抱きしめている絵だ。

・11−16節が物語の導入部、放蕩息子の家出だ。人間は、特に若くて自分に自信のある者は、束縛されることがたまらなくいやである。弟息子は、窮屈な父の家を離れ、どこか遠くで、自分の能力を生かせる場を求めたいと考えた。彼は一刻も早く、遠い国で自由に生きたいと思った、そのためにはお金がいる。彼は父親に財産分与を要求した。中東では、父親が生きている間に、財産分与を要求することは異例だ。それは父親に「死んで欲しい。あなたが死ぬまで待ちきれません」という非常に無礼な要求をすることなのだ。それにもかかわらず、父親は息子の要求を認め、財産を分けてやった。

・この息子のあこがれた自由とは、異邦の国に行き、故郷では大事なものとみなされた全てを無視して生きることだ。息子はそれが自由だと思っていた。この家には自由が無い、満たしも無い。だから遠い国に行ってそれを探すのだと息子は思った。

・「労せずして得たものは必ず失くす」と言った先輩がいたことを思いだす。昔、私が独立した時も、「大金を持って独立した者は遅れを取る」と言われたことがあった。弟息子は、父から与えられた大金を持って旅に出た。しかし、いくら大金でも、湯水のように使ってしまえば、やがて無くなる。異国の人々は、利用できる時には彼と付き合ってくれた。しかし、財布が底をつき、利用価値がなくなると、誰も彼に関心を払わなくなった。全てが無くなった時に初めて彼は、自分がいかに大切なものを無くしたかに気づいた。食べるものが無く、豚の食べるいなご豆でさえ誰も与えてくれなくなった時、自分は人間として扱われていないことを知った。彼は気づいた。「自分はここには何かがあると思って探しに来たが、何も無かった。自分は見出しえない所に、さ迷っていたのだ」と。

2.放蕩息子の帰郷

・17節からは、弟息子の悔い改め、帰還の話が記されている。彼は豚のえささえ食べることの出来ないところまで追い詰められた。この状態になって初めて、父の家を思い起こした。17節「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。父の家に帰ろう」。彼は放蕩して全てを失った。失った時に初めて、自分は豚ではなく、人間であり、父の息子であることに気づいた。この気づきが父の家に帰る道を選ばせた。

・私たちもこのような状況に追い込まれる時がある「自分は何の価値もない。愛されるに値しない。誰も私のことを気にもかけてくれない」。その苦しみだけを見つめる時、苦しみはますます大きくなり、私たちを圧倒し、ある者はそれに負けて死を選ぶ。しかし、その時「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」(マタイ3:17)という声を聞く者は、その闇から抜け出すことが出来る。自分を愛している者がいる、そのことに気づくとき、私たちは死から生へと転換できるのだ。放蕩息子は「父の子」であることを思い起こした。

・私たちは闇の中で光を見出した時は、その光の方向に歩き出す。弟息子の発見した光は、父の家の記憶であり、彼は父の家の方向に歩き出した。そして彼は父親にこう言おうと決意する「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(18-19節)。彼は自分の罪を認め、もう息子と呼ばれる資格は無いと考えた。自分が失われた人間であることを彼は認めた。自分の罪に目覚めた者は、神の裁きを受け入れる。彼はどのような裁きを受けようとも、父の家に帰ることを決意する。

・そこには悔い改めはある。しかしまだ父に対する信頼は無い。「自分のやり方ではうまくいかなかった。もう頼れるのは父しかいない。父のところへ行こう。そして、最小限の罰で済ましてもらい、重労働と引き換えに、命だけは助けてもらえるように赦しを乞おう」。彼はまだ父がどのような方であるかを知らない。私たちが、神がどのような方であるかを知らないように。


3.無条件に迎え入れる父

・今日の招詞にエゼキエル書18:30−32を選んだ。次のような言葉だ「それゆえ、イスラエルの家よ。私はお前たち一人一人をその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私はだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよと主なる神は言われる」。

・「悔い改めて帰れ、どうしてお前達は死んでよいだろうか」と神はイスラエルの民に言われた。これは放蕩息子の父の気持ちである。父親は今日か明日かとわが子の姿を探して、家の外に出て待っている。息子が父のことを思い出す前に、父は息子の安否を思い続けていたのだ。父は自分を捨てて行った息子の罪を思わず、息子の苦労に共感し憐れんでいる。20節「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。先日、2年ぶりに再会した北朝鮮拉致被害者の曾我さん夫妻が飛行機のタラップの下で、お互いの首を抱き、接吻した。そこには強い愛情の表現がある。父は愛情を込めて息子を抱きしめた。

・父は息子に謝罪のいとまも与えない。息子が赦しを懇願しようとした矢先に、先手を取って赦しを与える。息子が雇い人の一人にしてもらおうと思っているのに、息子に一番良い服を着せ、手に指輪をはめ、足に靴を履かせる。もう息子と呼ばれる価値が無い者を、再び息子として、相続人として迎える。父は彼を罰することを望まない。子は既に自分のわがままな思いと行動によって、十分すぎる罰を受けている。父が子に行うことはその首を抱いて接吻することだけなのだ。私たちが創造主である神から逃げ出し、その関係を絶った時、私たちは死と滅びの中に迷い込んで行く。神はそのような私たちに言われる「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私はだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよと」。そして、私たちが悔い改めて帰って来た時、神は私たちの首を抱いて、喜んで下さる。天の父はそのような方だとイエスは私たちに言われる。

・ヘンリー・ナウヘンというカトリックの司祭がいる。彼は「放蕩息子の帰郷」についてこう書いている。「もし放蕩息子の物語の意味するものが、人間は罪を犯し、神はそれを赦すというだけなら、私たちはこの物語の本当のメッセージを理解していない。この物語が私たちに問いかけるものは、あなたは相続人であり、この父のようになりなさいということだ」。父もかっては息子だった。今はその息子を無条件で赦し、迎え入れる者となった。神があなたに求められているのは、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れむ深い者となりなさい」(ルカ6:36)とのイエスの言葉の実現なのだ。もし神が罪人たちを赦すのであれば、あなたも罪人たちを赦しなさい。もし神が罪人たちを家に歓迎するならば、あなたもそうすべきだ。もし神が憐れみ深い方であるなら、あなたも憐れむ深くありなさい。あなたはそのような者になるように、招かれているのだ。だから、今日、この教会に招かれているのだ。

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