江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年1月25日説教(ヨハネ2:1−12、命の水)

投稿日:2004年1月25日 更新日:

1.カナの奇跡

・今日、私たちはヴァンルーベン兄のバプテスマ式を執り行った。教会にとって一人の人が新しく生きることを誓うバプテスマ式は喜びの時である。教会のバプテスマは全身を水に浸して行われる。バプテスマの語源となったバプテゾーというギリシャ語は「水に沈める」という意味である。何故、体を水に沈めることが新しい出発になるのか。日本でも、水は清めに用いる。水を用いて体を清め、神の前に出る事をみそぎと言う。しかし、聖書の言う水のバプテスマはこの「みそぎ」とは根本的に異なる。どのように異なるのか、今日は、このバプテスマの意味を聖書から聞いてみたい。与えられたテキストはヨハネ福音書2:1-12である。

・ヨハネ2章は「カナの奇跡」として有名なところだ。物語の舞台は、ガリラヤのカナという小さな村だ。そこはイエスの生まれ故郷ナザレのすぐそばにある。村で婚礼の祝いがあり、イエスの母マリヤは手伝いに行っていた。恐らくは親戚の家の婚礼であったのであろう。だから、マリヤは宴席の料理や飲み物について心配している。当時の婚礼は1週間も続いた。人々の生活は貧しく、普段は十分に食べることが出来ない。だから、婚礼の宴は村中の楽しみの時であり、人々は飲みかつ食べるために集まってきた。その席で主役であるぶどう酒が足らなくなった。これは宴を主催する家族にとっては、一大事であった。マリヤも責任を持つものとして困惑し、同じ席にいた長男のイエスに相談した「ぶどう酒がなくなりました」。どうしたらよいだろう、何とかできないだろうかとの相談である。

・その家には大きな6つの水がめがあった。それぞれに2ないし3メトレステも入る水がめである。1メトレステは39リッターであるから3メトレステは100リッターである。100リッターも入る大きな水がめが、6つも置いてあった。イエスは召使達に「この水がめに水を満たしなさい」と言われ、水が満たされたのを見ると「それを汲んで宴会の世話役の所にもって行きなさい」と言われた。召使達は水がめから水を汲んで世話役の所に運んで行ったところ、それは最上のぶどう酒に変わっていた。世話役は花婿を呼んでいった「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。水がぶどう酒に変わる「カナの奇跡」が起こったのである。

・この物語の中心は「水がぶどう酒」に変えられたことではない。それなら、ただの魔術に過ぎない。物語の中心は、その水が飲むための水ではなく、「清めの水」であったことだ。「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである」(ヨハネ2:6)。この「清め」はユダヤ人にとって大事なことだった。マルコ7:3-4には「ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。」と書いてある。当時のユダヤ人は家から外に出る時も、また家に帰ってきた時も、「不浄を受けたのではないか」といつも心配し、その汚れを洗うために大量の清めの水を必要とした。

・ここに律法にがんじがらめにされた当時のユダヤ人の生活を、私たちは見る。人々は身を清く守るために、汚れから遠ざかろうとした。異邦人と交わるのは汚れだと思い、異邦人の家には絶対に入ろうともしなかった。また、律法を守らない人と交わることも汚れであり、外に出るとそのような汚れた人と道ですれ違ったかも知れないから、手足を洗い清めた後でないと家にも入れない。また食べることを禁止された汚れた食べ物を気づかないで食べたかも知れない。彼らは、いつ汚れを受けたかもしれないとして、戦線恐々として生活していた。だから、毎日の生活の中で大量の清めの水を必要とした。100リッターも入る大きな水がめがいくつもなければ、安心して暮らしていけない毎日であった。

2.解放の出来事としてのバプテスマ

・今日の招詞にマタイ15:10―11を選んだ。次のような言葉だ。「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである』。

・私たちは「汚れる」ことを極度に恐れるユダヤ人をおかしいと笑う。でも、本当は私たちも「汚れる」ことを恐れてくらしているのだ。学校でも職場でも家庭でも、最大の問題は人間関係だ。私たちは人の言葉に傷つけられた経験があるから、今度は傷つけられまいと防御して暮らしている。人の口から出るもの、言葉が人を傷つけるのは、言葉が心にあるものを反映しているからだ。「心にもないことを言う」という言葉があるが、それは真実ではない。人は心にあふれてくることを語るのだ。そして、人の心の中にあるのは、悪い思いだ。私たちが誰かをねたましく思うとき、その思いは言葉となって出てくる。私たちが誰かを嫌いだと思うとき、その思いが言葉となって相手を傷つける。ヤコブはそれを次のように表現する「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。・・・舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブ3:5-8)。私たちは、この言葉が真実であることを、毎日の生活の中で実感する。

・イエスは外からの汚れを心配するユダヤ人達に言われた「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」。汚れは水でいくら洗っても、清くはならない。汚れを気にして、家に何百リッターの清めの水がめを置いても問題は解決しない。私たちの生活もそうだ。人間関係を良くしようといくら努力しても、それは変わらない。何故ならば、汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからだ。

・その汚れを、聖書は「罪」と呼ぶ。私たちの中にはこの罪があり、その罪が人を傷つけ、自分も傷つけられているのだ。その罪は自我、自分のことしか考えられない人間の業だ。この自我という地獄から解放されない限り、平安はない。その私たちの罪からの解放のために、イエスは十字架で死なれたと聖書は教える。このぶどう酒はイエスが十字架で流された血を示している。イエスが清めの水をぶどう酒に変えて下さり、そのことによって、人々が内心の汚れから解放される道が生まれた。私たちもイエスを信じることによって、自己という泥沼から解放される。

・だから、私たちはバプテスマを受けるのだ。先ほどのバプテスマ式で朗読したパウロの言葉がそれを示している「私たちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。・・・死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:4-8)。この水は外的汚れから私たちを清めるものではなく、私たちを根底から変える生命の水なのだ。バプテスマを受けることによって私たちは、罪の過去に死に、新しい命をいただくことが可能になるのだ。

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