江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年1月26日説教(ルカ4:16-30、不信仰者の信仰)

投稿日:2003年1月26日 更新日:

1.ナザレの会堂にて

・イエスは宣教の始めに故郷のナザレに行かれた。ユダヤにおいては毎週土曜日が安息日であり、人々は会堂に集って聖書を読み、説教を聞く。イエスはナザレの会堂で説教者としてお立ちになった(ルカ4:16)。イエスが読まれた聖書個所はイザヤ61章1-2節であった。ルカ4:18-19にその引用が記されている。「主の御霊が私に宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、私を聖別してくださったからである。主は私をつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主の恵みの年を告げ知らせるのである」。
・イエスはイザヤ書に託して、これからなされようとしておられることを語られた。即ち「貧しい人々に福音を伝える」ために、「捕らわれている人々を解放する」ために、「目の見えない人々の目を開ける」ために、「抑圧の中にある人々に自由を与える」ために、自分がメシヤとして遣わされたことを話された。しかし、人々はイエスの言葉を受け入れなかった。
・イエスはここで信仰を求められているが、人々が応えたのはしるしであった。人々は、今現在の苦しみからの解放、今不足している物の充足を求めていた。「今、貧しくて十分に食べられないから、パンが欲しい」、「今、ローマの圧制に苦しんでいるからローマを追放して欲しい」、「今、病に苦しんでいるから、この病をいやして欲しい」等。そしてメシヤならば、今すぐその欲求を満たすしるしを見せて欲しいと聴衆は求めた。イエスはガリラヤ湖畔のカペナウムで多くの病人をいやされ、悪霊を追い出された。その評判はナザレにも聞こえていた。ナザレの人々はここでもしるしを見せてくれと求めた。(ルカ4:23)。
・今日でも人々が宗教に求めるものはしるし、見返りだ。自分のために神を信じる、「家族が安全でありますように」「仕事がうまくいきますように」「子供たちが健康で育ちますように」と。だから神が恵んでくれている間はこれを崇めるが役に立たなくなれば捨てる。「神に仕えることはつまらない。神の戒めを守ったとて何の益があるのか」(マラキ書3:14)、昔から人々はこうつぶやいてきた。現代の人もそうだ、教会がパンもいやしも与えてくれないことを知った時、多くの人は教会を去る。ナザレの人々がイエスに求めていたのも神の言葉ではなく、パンといやしであった。だからそれを与えないイエスに人々は失望し、つぶやいた「この人はヨセフの子ではないか」(4:22)。評判の預言者というので来てみたのに、何のしるしも奇跡も見せないで、「どう生きるべきか」と偉そうなことを言っている。この男はヨセフの息子ではないか。学問を修めて律法学者の資格を得たわけでもなく、祭司になったわけでもない。それなのに、何故偉そうに私たちを教えようとするのか。このつぶやきを聞いてイエスは言われた「預言者は、自分の郷里では歓迎されない」(ルカ4:24)。

2.二人の預言者の話

・そして、イエスは二人の預言者の話をされた、一人はエリヤ、もう一人はエリシャである。共にイエスの時代から900年以上も前の預言者であった。エリヤの時代、人々はご利益を与えてくれる偶像信仰に走り、造り主を忘れた。そのため神はエリヤを遣わして戒められたが人々は聞かず、エリヤは旱魃を預言し、3年も雨が降らずに大飢饉になった。人々は災いを預言したエリヤを呪い、エリヤは逃れてシドン地方に生き、そこで一人のやもめに仕えた(列王記上17:1-24)。自分の民に受け入れられない預言者が異国に行き、異邦人のために働いた。
・27節に出てくるナアマンはシリヤ軍の総司令官であったが、らい病を患っていた。ナアマンは神に救いを求め預言者エリシャを通してらい病を清められた(列王記下1-19)。当時多くの人がらい病で苦しんでいたが、神を求めた異邦人はいやされ、神の言葉を聞こうとしなかったユダヤ人はいやされなかった。この二つの出来事の引用は、選びの信仰の上に安んじている聴衆にとっては一つの刺であった。イスラエル人は自分たちは神に選ばれた民であり、終わりの日に救われるのは自分たちで、異邦人は滅ぼされると考えていた。しかしイエスは、神の救いを受けるとは神を求めるか否かにかかっており、イスラエル人であっても神を求めなければ救いはなく、その時、救いは異邦人に移されることをあえて述べられた。
・選民としての誇りを傷つけられた聴衆は怒った。この男はエリヤやエリシャと自分を同列に置くどころか自分を神の子と宣言している。ヨセフの息子が神の子であるはずはない、この男は神を冒涜している。聴衆は怒り、イエスを崖から突き落として殺そうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた(ルカ4:28-30)。
・何が民衆をこんなに怒らせたのだろうか。それはイエスが、自分たちは選民であるから救われるとの民衆の幻想を吹き払い、神を求めないものには救いは与えられないという真実をお示しになられたからである。神の約束とは契約である。契約であるということは守らないものにはその効果は及ばない。「信じなさい、そうすれば救われる」と言われる時、信じないものものは救われないのだ。また信じると言いながらもそれに相応しい生き方をしなければ救いはないのだ。それが契約だ。神の民として生きるとは、パンやいやしを求めて生きることではない。パンを食べてもすぐにお腹が空く、だから命のパン、神の言葉を求めなさいと言われる。病がいやされてもやがて死ぬ、だから死なないもの、本当の命を求めて生きなさいと言われる。ローマが追放されても新しい支配者が来るだけだ、だから地上の国ではなく神の国を求めなさいと言われる。「神の言葉を聞け」と言われているのに、聞かないものに救いはあろうか。


3.不信仰者の信仰。

・「自分の十字架を背負って私に従って来なさい」とイエスは繰り返し言われた。今日の招詞であるマタイ16:24-25もそうだ。「それからイエスは弟子たちに言われた『だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。』」
・私たちにとって一番大事なものは自分の命だ。たとえ私たちがこの世の栄光の全て、お金や地位や家族の幸せを手に入れたとしても「命」を失えば、つまり死んでしまえば何にもならない。死んでもなくならないもの、永遠の命を求めよとイエスは言われる。その命は、命の源である神に従うことにより与えられる。神に従って生きるとは、自分のためではなく、隣人に仕えて生きることだ。隣人に仕えるとは、自分の一番大事なものでも隣人が必要とするならば与える生き方だ。「返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである」(ルカ6:34)。
・現実の私たちの生き方はどうなのか。私たちがこの世で求めているものは自己の充足、即ち自己実現だ。そのためにいい大学に入り、いい勤め先に入り、いい配偶者を得ようとする。全ては競争であり、競争に負けたものは惨めな暮らしを強いられる。受験勉強に負けたものは高校を中退して家に引きこもるかもしれない。大企業に入れなかったものは零細企業に勤め、失業の危機に怯えているかもしれない。クリスマスもお正月も共に祝ってくれる家族もなく、寂しいと泣いている人もいる。この人たちも神が愛されている人々、神の子だ。もしあなた方がこの人たちと関わりを持って生きないならば、あなた方は私に従うものではないとイエスは言っておられる。しかし、私たちはその言葉が自分に言われているのに気づかない。私たちは目が見えると思っているが、もし泣いている人と関わりを持たないのなら、その人たちが、つまり神が見えていないのだ。
・私たちもまた、イエスの言葉を受け入れなかったナザレの人たちと同じなのだ。このような私たちに救いなどあるはずもない。そうだ、私たちは救われるのに価しないものだ。私たちは不信仰なのだ。いくら教会に来て礼拝しても、私たちの行き方が根本から変えられない限り、そこには救いはない。イスラエル人として生まれただけでは救われないように、バプテスマを受けてクリスチャンになっただけではだめなのだ。私たちは自分が不信仰であることを先ず知らなければならない。そして神の前にひざまずいて悔改めなければならない。イエスを信じる事の出来なかった父親(マルコ9:23)と一緒に「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」と言わなければいけないのだ。救いはそれを知ることから始まる。
・ナザレの聴衆は私たちなのだ。聖書を自分に関係のないものとして読む時、その言葉は私たちを通り過ぎる。聖書を自分への語りかけとして読むとき、その言葉は私たちを生まれ変わらせる力を持つ。私たちは真実が見えないのだから、イエスによって目を開けてもらう必要があるのだ。そしてイエスは「私たちの目を開けよう」と2000年前にナザレの会堂で約束され(ルカ4:18)、その約束は今日も続いているのだ。

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