江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年1月5日説教(ルカ2:21-40、イエスの初詣)

投稿日:2003年1月5日 更新日:

1.イエスの初詣

・ルカ福音書によれば、イエスは生まれて8日目に割礼を受け、40日目に両親に連れられてエルサレム神殿に初詣に行ったとある(ルカ2:21-24)。ユダヤ人はその初子を神のものとして聖別し、これを献げる(出エジプト13:1)。また、産婦は出産後40日間は汚れたものとされ、清めの時が満ちた時に燔祭(焼き尽くす犠牲)の子羊を持って神殿に行き、祭司の手によってこれを神前に献げる慣わしがあった。貧しくて羊を購入できないものは、代わりに山鳩または家鳩を捧げても良いと律法は記す(レビ記12:8)。ヨセフとマリヤは律法の定めに従って、幼な子を神に捧げ、また母親の汚れを清めるために神殿に参った。
・ルカ福音書2章の記事は私たちに次のことを伝える。一つはイエスがユダヤ人として生まれ、ユダヤの律法を満たして成長して行かれたということである。もう一つの事実は、イエスの両親が貧しくて羊を献げる事ができず、鳩を献げた、つまりイエスは貧しい家に生まれられて育てられたことを示す。パウロはいう「神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった」(ガラテヤ4:4)。イエスがユダヤ人として、平民の子としてお生まれになったというのは歴史的事実である。
・私たちは先週マタイ福音書2章を読んだ。マタイによれば、イエスの両親はヘロデ王の迫害を避けるためにエジプトに逃げるように啓示を受け、生まれたばかりのイエスを連れてエジプトに行き、ヘロデ王が死ぬまで(即ちイエスが3歳になるまで)エジプトにいたと言う(マタイ2:13-15)。このマタイの記述と今日のルカの記述は矛盾する。イエスが生後すぐにエジプトに行かれたのであれば、40日目にエルサレム神殿に参ることはできない。私たちはこの両福音書の記事相違をどう考えればよいのか。恐らくルカが示すように、イエスは生まれて40日をベツレヘムで過ごされ、宮参りされた後、ナザレに帰られたのであろう。ただ、イエスが生後すぐにエジプトへ行かれたとの伝承も古くからあった。「最期の救済者イエスは最初の救済者モーセのように現れる」との信仰があったからだ。マタイはイエスがモーセのようにエジプトに行かれ、モーセのようにエジプトから引き出されたと理解して、福音書を書いた。マタイにとってイエスが神の子として生まれられ、旧約のモーセ以上の者として定められていたことこそが大切な信仰告白であった。
・私たちは聖書を読むときに、歴史的出来事と信仰的出来事を区別する必要がある。イエスがユダヤ人としてベツレヘムで生まれられたのは歴史的出来事であるが、その時天が開いて御使いが賛美したとか、東方から三人の博士がイエスを礼拝するために来たとか、イエスがエジプトに行かれたという事は信仰的出来事なのであり、私たちはその真偽を知らない。このような真偽を知らされていない信仰的出来事を歴史的出来事と言い張る時に、人は過ちを犯す。アメリカの保守的教会は、学校でダーウィンの進化論を教えるのは聖書に反するとして進化論訴訟を行っているが、これも信仰的出来事(神が天地を創造されたという創世記の記事)を歴史的出来事と誤認する事であり、そのような誤認によって人々を教会から遠ざけているのは神の御心に反すると言わねばならない。聖書は信仰の書であって歴史の書ではないことを先ず覚えたい。


2.神殿にて

・イエスの両親は神殿でシメオンに出会い、祝福を受ける。これが歴史的出来事であったのかどうか、私たちは知らない。しかし、シメオンの言葉の中に、著者ルカの信仰告白、イエスの生涯をどのようなものとして理解しているのかは如実に出ている。この出来事もまた信仰的出来事なのであろう。シメオンは言った「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」(ルカ2:29-32)。ラテン語の祈り(Nunk Demitis)として有名な個所である。「今、あなたの救いがこの幼な子の中に宿るのを見ました。救いを見た以上、もう死んでもかまいません。全ての人を救うために、イスラエルの子の中にあなたは御子を宿らせられました」とシメオンは言った。ヨセフとマリヤは、子の生誕にまつわる不思議な出来事をいろいろ見てきたが、この時、幼な子をキリストと信じる信仰を持っていた訳ではない。彼らにとってイエスは普通の子であり、だから両親はシメオンの言葉を聞いて驚いた(2:33)。
・シメオンは続けた「この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」(ルカ2:34-35)。シメオンが言ったことは「多くの人がイエスに躓くだろう、そして躓いた人々はイエスを殺すだろう、あなたはそれを真のあたりに見て、あなたの胸もまた剣で貫かれるだろう」ということだ。キリストに接して、人は神の救いを信じるか信じないかを問われ、それによって二分される。そして信じないものはイエスを神の名を汚すものとして殺す。シメオンの言葉の中に、イエスの生涯について悲痛な出来事が預言されているが、注目したいのはルカがそれを祝福(34節)として描いていることだ。シメオンを通してルカは言う「肉を喜ばすものが必ずしも祝福ではない。この子が長生きして立身出世をすることが必ずしも父母に対する祝福ではない。この子が真理であること、世の言い逆らいを受けるほどに真理であることこそ、親に対する祝福なのである」と。


3.預言されたイエスの生涯

・イエスの生涯は、両親の肉の期待を打ち砕くものであった。父ヨセフ亡き後イエスは大工として働かれ、一家の生計を支えられたが、30歳の時に召命を受け、故郷ナザレを出られてバプテスマのヨハネの弟子になられた。ヨハネがヘロデ王(アンテイパス)に殺された後、イエスは独立して宣教を始められたが、その言動が当時の支配階級である祭司や律法学者たちの偽善を批判するものであったため、彼らに憎まれ、迫害された。そのようなイエスを見て、マリヤと兄弟たちはイエスの気が狂ったのではないかとして連れ戻しに来ている(マルコ3:21)。身内の者はマリヤを含めてイエスの言動に批判的であったのである(ヨハネ19:25)。ヨハネによれば、イエスが十字架にかかられた時、母マリヤはその足元にいて、自分の子の胸に槍が突き刺さるのを見た(ヨハネ19:25)。
・このような生涯がシメオンにより幸いなりと祝福されている。何処が幸いなのであろうか。今日の招詞にヨハネ12:24を選んだ。「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
・テレビ番組で日野原重明さんの対談を見た。日野原さんは、91歳の今も現役の医師として有名な人であるが、彼の人生が転機を迎えたのは59歳の時であったという。日航機淀号のハイジャック事件があった時、日野原さんは乗客として乗り合わせ、テロリストたちと4日間を共にした。テロリストたちは失敗したら死ぬつもりでダイナマイトを体に巻き付け、日野原さんもここで死ぬかも知れないと覚悟したと言う。犯人の一人が文庫版の「カラマーゾフの兄弟」を持っており、日野原さんは借りて読み始めた。その冒頭にこのヨハネ12:24の言葉があった。その時、自分の今までの人生がいい医者になろうという自己中心の生き方であり、本当に患者のことを考えていたのだろうかとの疑問に囚われ、60歳を契機に一切の公職を離れ、死の啓蒙活動を始めた。死に直面してみて始めてイエスの言葉が自分に響いてきて、彼はその響きを講演や出版を通して人々に伝える伝道者になった。
・イエスの生涯も自己の幸福追求と言う意味では、悲惨な生涯であった。しかし、他者のために生きるという意味では祝福に満ちた生涯だった。パウロが言うように「キリストは、神の形であられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、己を虚しくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、己を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6-8)のである。その十字架を見てある人は言った「(主は)私たちのために命を捨てて下さった。それによって、私たちは愛ということを知った。それゆえに、私たちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。」(1ヨハネ3:16-17)。今日でも、多くの人々がイエスに出会って、変えられていく。信じることの出来ない者には躓きの石となったイエスの生涯が、信じるものには尊い隅の頭石になったのである(〓ペテロ2:7-8)。
・イエスの生前にはその母と兄弟たちは、イエスを神の子であるとは信じていなかった。しかし、復活のイエスに出会って変えられ、やがてイエスの前にひざまずく(使徒1:14)。十字架と復活を通してマリヤはイエスがキリストであったことを知り、キリストの十字架が自分にとって祝福であることを知り、その時始めて、シメオンの言葉に「アーメン」と言えるものになった。私たちはこれからどういう生涯を送るのだろうか。己のために生きて仮に成功しても、その生涯はやがて過ぎ去り、何も残さない。逆に一粒の麦として己に死ぬことによって、多くの実が残り、その実はまた新しい実を結んでいく。最後に星野富広さんの言葉を新年の言葉として皆さんに送りたい。「木は自分で動きまわることが出来ない。神様に与えられたその場所で精一杯枝を張り、許された高さまで一生懸命伸びようとしている。そんな木を私は友達のように思っている」。神様に与えられたその場所で精一杯に生きる、生かされて生きる。その時、私たちの生は神様に祝福されたものになる。

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