江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年1月12日説教(ルカ3:15-22、イエスのバプテスマ)

投稿日:2003年1月12日 更新日:

1.バプテスマのヨハネの宣教

・ローマ皇帝テイベリウスの治世15年(紀元28年頃)、バプテスマのヨハネと呼ばれる預言者がヨルダン川流域の荒野に現れ、人々に悔改めのバプテスマを勧めた。当時、ユダヤの荒野にはエッセネ派の人々が住み、祈りと断食の修道生活をしていた。彼等は罪を清めるために毎日水に入ったが、ヨハネは体をいくら洗っても人間に内在する罪は洗えないことを神から啓示され、人々に悔改めを促すために預言者として立たされた(ルカ3:1-3)。
・ヨハネは「終末は近づいた。悔改めて相応しい実を結ばないものは、切り倒されて火に投げ込まれるであろう」という審きを告げて人々に悔改めを迫った(3:9)。当時、人々も世の終わりは近いと感じていた。イスラエルではヘロデ大王の死後、その三人の子供たちが領土を争い、混乱の中で首都エルサレムを含むユダヤ中心部はローマ直轄領とされた(紀元6年)。しかし、ローマの支配に反対する人々はたびたび反乱を起こし、世情は騒然としていた。人々はこの乱れた世を救うメシヤ(ヘブル語=油注がれたもの、ギリシャ語訳がキリスト)の到来を待ち望んでいた。人々はヨハネこそメシヤかも知れないと期待した(3:15)。しかし、ヨハネは自分はメシヤではない、メシヤはやがて来られる方だと述べていた(ルカ3:16)。

2.イエスのバプテスマ、公生涯の初め

・イエスはヨハネの宣教の噂を聞いて、故郷のガリラヤを出られてユダヤに来られた。そしてヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられ、ヨハネの弟子となられた(マルコ1:9)。イエスがバプテスマを受けられた時、天が開き、声が聞こえたとルカは記す(ルカ3:21-22「民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者である』」)。この時、イエスは自分がメシヤとしての召命を受けていることをお感じになった。バプテスマを受けられた時、詩篇2:7「おまえは私の子だ。今日、わたしはお前を生んだ」の言葉がイエスに満ち、聖霊が下ったとお感じになったのであろう。イエスの公生涯の始まりである。
・ヨハネはバプテスマについて「私が水でバプテスマを授けるが、私の後に来られる方は、聖霊と火でバプテスマを授けられる」と言った(3:16)。イエスはその公生涯の初めに水によるバプテスマを受けられた。その生涯の最後に十字架の死による霊のバプテスマを受けられた。聖書が私たちに示すことは、私たちもまず悔改めて水のバプテスマを受けることが救いの初めであり、その後イエスが負われた十字架を私たちも負う事によって救いが完成するということだ。水のバプテスマは私たちを洗う。私たちは自分が罪人であることを認め、先ず水に入る。そして信仰の歩みの中で、旧い自分が火によって焼き尽くされ、聖霊に満たされて新しくされる時を迎える。これが火と聖霊によるバプテスマだ。その時、私たちは生まれ変わり、もう以前のような人生は歩めなくなる。
・水のバプテスマを受けるだけでは十分でないことは、私たちが教会でバプテスマを受けても罪を犯し続ける存在であることからも明らかだ。水のバプテスマは始まりであり、完成ではない。水のバプテスマは天国行きの切符ではないし、一生を安心して保証する万能の保険でもない。やはりイエスに従ってそれぞれが十字架を負わなければ本当の救いはない。ルカ9:23-24「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うであろう」の言葉が意味するものはそういうことだ。
・それでは教会のバプテスマの意味は何か。今日の招詞にローマ6:3-5を選んだ。パウロは言う。
「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、私たちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた、新しい命に生きるためである。もし私たちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」。バプテスマを受けることによって、私たちはキリストの十字架を覚え、キリストを降された神の愛を思う。その時、私たちも神の祝福をいただく「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」(ルカ3:22)。この祝福、「私はあなたと共にいる(インマヌエル)」という約束こそが神からの祝福だ。この祝福をいただいた時、私たちはどのような十字架をも負うことが出来る。仮に私たちに重い病が与えられた時、私たちは神がこの病を通して導いておられることを知る。その時、病は祝福になる。仮に私たちに立ち上がることが難しいような挫折が与えられる。その時私たちはこの挫折の向こうに神の祝福があることを知る。その時、私たちはこの挫折を感謝して受け取る。水のバプテスマを通して私たちは「神共にいます」という約束をいただく。そして何時の日か、その約束が成就するという希望を持つ。水のバプテスマを受けることによって救いが始まり、その救いは私たちの人生の歩みの中で完成されていく。


3.許し主イエス

・イエスはバプテスマを受けられた後も、ヨハネの弟子として荒野におられた。その後、ヨハネはヨルダン川東岸の領主であったヘロデ(アンテイパス)を非難したため、捕えられて死海の近くにあるマケロスの要塞に幽閉された。ルカ3:19-20の記事「領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた」はこの間の事情を伝える。イエスがヨハネを離れて独立して宣教を始められたのは、その後である。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔改めて福音を信ぜよ』」(マルコ1:14-15)。
・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届いた。ヨハネの使信は「審きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされるだろう」というものであった。ルカ3:17は預言者の言葉を伝えている「箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、殻は消えない火で焼き捨てるであろう」。人々が収穫した穀物を箕の上に投げ上げる時、実の入っていない殻は軽いため風に吹き飛ばされ、実のある穀物だけが箕の中に戻る。そのように、良い行いをしないものは集められて火に燃やされるというのがヨハネの考える審判であり、メシヤとはその審き主であった。しかし、評判として聞こえてくるイエスの行為は罪人の審きではなく、罪人の赦しであった。ここにおいてヨハネはイエスが本当にメシヤかどうか疑問を感じ、イエスの元に使いを送った。その使いにイエスは答えられた「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清まり、耳しいは聞え、死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。」(ルカ7:22-23)。
・ヨハネは預言者であった。預言者は人々に悔改めを求め、それに相応しく生きることを求める。天に宝を積めばそこに救いがあると彼等は主張する。ルカ3:11-14の言葉がそれを示す(二枚の下着を持っている者は一枚を隣人に分けよ、不正をするな、人々からむさぼるな等々)。しかし、このような道徳的行為では人は救われない。だからイエスが来られた。人間の罪は自己を救うにはあまりにも重いのだ、だから神が地上に来られた、そして十字架で罪の身代わりとして死なれたと聖書は言う。人間の罪、原罪を示すものが、ローマ3章にあるパウロの言葉だ。「義人はいない、一人もいない。・・・彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らの唇には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。」(ローマ3:10-18)。
・私たちはこのパウロの言葉を聞くとき、自分はそんなに罪人ではないと思うかも知れない。しかし、冷静に自分を含めた人間存在を見つめた時、このパウロの言葉が誇張ではないことを知る。全ての苦しみ、悲惨は人間から来る。それは小さな実験をしてみるとすぐにわかる。今、私が言葉で皆さんを喜ばせることは至難の技だ。しかし、傷つけるのは簡単だ。皆さんが一番気にしている弱点、人に知られたくないと思うことをここで述べるだけで皆さんは傷つく。正に「(私たちの)のどは、開いた墓であり、(私たち)は、その舌で人を欺き、(私たち)の唇には、まむしの毒があり、(私たち)の口は、のろいと苦い言葉とで満ちている」なのだ。これが私たちの本性であり、私たちの罪だ。私たちがその罪を知り、罪の縄目の中で奴隷になっている私たちのためにキリストが来られたことを知るのが悔改めだ。その悔改めのしるしとして水のバプテスマを受ける。全てはそこから始まり、霊のバプテスマを受けて完成する。私たちの人生は約束の地を目指して歩む旅人の人生だ。私たちは今、約束のものを受けるために旅をしているのだ。その旅の始まりが水のバプテスマなのだ。イエスのバプテスマを記すルカ三章の記事は私たちにそう教える。

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