江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年3月16日説教(ルカ11:14-26、悪と戦われるキリスト)

投稿日:2003年3月16日 更新日:

1.悪霊につかれたもののいやし

・受難節第2週を迎え、キリストがこの世の悪とどのようにして戦われたのか、それが私たちとどうかかわるのかについて、今日はルカ福音書11章から見てみたい。ルカ11:14によれば、ものを言えなくする霊に取り付かれた人がイエスの前に連れて来られ、イエスがこの人をいやしたとある。並行個所のマタイ12章によれば、この人は「悪霊につかれて目が見えず、口の聞けない」(マタイ12:22)とある。2000年前の人々は、悪霊が取り付くことによって、人は病気になったり、災いを受けると考えた。だから、目が見えず口の利けないこの人も罪を犯したため、神の怒りによって、こうなったのだと思った。従って、悪霊につかれて障害を持つようになったものは、宗教的に汚れた者と見られ、排斥された。この人も社会から排除され、物乞いとして生きていたと思われる。私たちは2000年前の人々の考えを、無知蒙昧と笑うかもしれない。しかし、今日でも基本的情況は変らないのではないか。人々はお正月になれば、神社に行って無病息災を祈り、災いが続くとお祓いをしてもらう。病気や災いの背後には、人間の力ではどうしようもない力が働いていると考えているからだ。2000年前の人々はそれを「悪霊」と名付け、今日の私たちはそれを「宿命」あるいは「業=ごう」と名付けているに過ぎない。
・イエスはこの人が、障害ゆえに排除されているのをごらんになって憐れまれた。そして、この人をいやされた。民衆はこのいやしを見て「この人はダビデの子、メシヤ」かも知れないと噂した(マタイ12:23)。それを聞いて、パリサイ人は反論した「この男の力は神からではなく、悪霊の頭ベルゼブルから来ているのだ」と。彼らはイエスが盲目で口の利けない人をいやされたのを見た。それは否定できない。しかし、彼らはイエスが神の子であると認めるわけにはいかない。だから、イエスは「サタンから力をもらってこのような不思議を行うのだ」と非難した(ルカ11:15-16)。
・ベルゼブルとはヘブル語バアル=主人、ゼブル=家、即ちバール・ゼブル(家の主人=この世の王)と呼ばれたカナン地方の偶像神の名がギリシャ語に翻訳されたものである。即ち、イエスが病や障害に人をいやされたことを、民衆は素直に神の業として驚嘆したが、パリサイ人はこれをサタンの業だと悪口を言った。当時の人々は病気や障害になると、それをいやしてもらうために魔術師の所に行って、悪霊払いをしてもらった。パリサイ人はイエスのいやしの行為がこの魔術師のような胡散臭い行為なのだと批判した。


2.悪霊を追放されるイエス

・イエスは反論された。「もし、私が悪霊の頭によって悪霊を追い出しているのならば、それはサタンが内輪もめしていることではないか。どうしてサタンがサタンを追い出せようか」(ルカ11:17-18)。そして言われた「もし私が神の霊によって悪霊を追い出しているのならば、それは神の国がここに来ている証拠ではないか」(ルカ11:20)。神の国は既に来ている。今、盲目でおしのこの人がいやされたのは神の憐れみではないのか。何故、それを素直に認めて喜ぶことがが出来ないのか。イエスはバプテスマのヨハネの弟子たちが「あなたはメシヤなのですか」と訊ねて来た時、彼らに次のように答えられた。「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」(ルカ7:22-23)。
・しかし、パリサイ人はつまずいた。彼らは人が盲人になり、おしになるのは、その人たちが神に呪われたからであり、そのような罪人には救いはないと考えた。救いは神の戒めを守っている自分たちにある。先日、ある婦人から電話相談を受けた。彼女は折り合いの悪い友達について、次のように言われた。「あの人はみんなから嫌われています。あの人の息子がうつ病になり、また娘が離婚して家に戻って来たのは、お母さんのせいではないかとみんなが言っています」。今日でも、人々はパリサイ人と同じ様に考えているのではないかと思う。
・人は原因のわからない病気や災いは悪霊のせいにする。今日でも精神の病気は悪霊に結び付けられやすい。精神の病でもうつ病は理解できる。悲しみや苦しみがその人の許容量を超えた時、人はうつ状態になるからだ。しかし、精神分裂病(今日では統合失調症)は理解が難しい。何らかの脳の機能障害と考えられており、薬である程度は抑制できるが完治は望めない。よくわからないだけに「気味の悪い」病気に映る。そのような人たちを社会は精神病院に隔離する。何処の精神病院に行っても、10年、20年入院している人が大勢いる。このような人たちは私たちの隣人だろうか。私たちは、このような人々が「悪霊に取り付かれている」として、排除していないだろうか。イエスは私たちにそう問いかけておられる。

3.悪霊ではなく、神の霊を受けなさい。

・イエスは言われる。汚れた霊が人から出て行っても、やがてまた人に戻ってくる。そうすると、その人の情況は前よりも悪くなる。それが24節からのところだ。ルカ11:24-26「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。
・この言葉の背景には、当時の悪霊払いの民間療法があったのではないかと言われている。ある人が精神的な疾患を発した場合、人々は彼を魔術師に連れて行き、悪霊払いをしてもらう。精神の疾患の場合には一時的には良くなることもある。しかし、やがて再発し、情況は前よりも悪くなる。雑草は抜いてもまた生えてくる。雑草が生えないようにするためには、雑草の生える余地がないように花を植える必要がある。そうすれば庭はきれいな花で満たされる。私たちもそうだ。イエスを信じて罪を清めてもらうだけではだめで、神の命を私たちのうちに満たしてもらわなければ、元の木阿弥になってしまう。教会に来て聖書の言葉を聞いても、それを実行しなければ、神の言葉は死んでしまい、やがて私たちは信仰をなくして教会を離れる。
・今日の招詞にルカ11:13を選んだ。「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
・昨年の4月から「いのちの電話」の相談員として電話を受けている。電話を聞きながら思うことは、「世の中には何故こんなにも苦しみがあるのだろう。そしてこの苦しみに対して自分は何も出来ないのか」という無力感である。ある人は10年前にうつ病を発症した。それが原因で夫とも別れ、今は生活保護を受けながら高校生と中学生の二人の子供と暮らしている。病気のために起きることが出来ず、夕食のご飯は中学生の娘が炊き、おかずは高校生の息子が作る。何も出来ない自分が情けなくて、いつも泣いてばかりいる。この人の訴えに私たちは何を言えばよいのだろうか。また思った、何故このような訴えが教会ではなく、いのちの電話に行くのだろうか。次のような話を聞いたことがある。あるクリスチャン婦人が息子を自殺で無くし、いつまでたっても悲しみが消えないため、教会の友達に相談したところ、「信仰が足りないからいつまでも嘆くのだ」と言われ、もう教会では絶対に語るまいと決心されたと言う。イエスは人の弱さをそのまま受け入れてくれたのに、私たちにはそれが出来ない。悲しいと思う。
・しかし、今日の聖書個所であるルカ11章から教えられることは、私たちには何も出来なくとも、出来る方がおられることである。私たちは悪霊を追い出し、病気をいやす力を持たない。しかし、その力を持たれるイエスの元に、私たちは未解決の苦しみをそのまま差し出せばよいのではないかということだ。今、いのちの電話を受ける時には、一本一本の電話の前に祈る。祈らないと聞いていられないのだ。「どうか力を与えて下さい。あなたが人を憐れまれた、その心を持って電話を聞くことが出来ますように、聖霊で満たしてください」という祈りだ。その時、何にも出来なくとも、相手の電話を聞き続けることの出来る自分を見出す。長い電話は2時間を超える。「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」、その通りだと思う。聖霊に満たされることによって、私たちはイエスが悪に勝たれたその力をいただいて、自己中心の存在から違う者に変えられることが可能なのだと思う。最後に29歳で死んだクリスチャン詩人の八木重吉の詩を皆さんに送りたい。「一筋の道なり、キリストの道なり、我が弱きを強くする道なり」(「八木重吉に出会う本」いのちのことば社より)。

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