江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年1月19日説教(ルカ5:1-11、お言葉に従います)

投稿日:2003年1月19日 更新日:

1.ペテロの召命

・イエスがガリラヤ湖畔におられた時、群衆がイエスの元に押し寄せてきたので、イエスは地元の漁師であるペテロに船を出すように頼み、船の上から群衆に教えられた(ルカ5:1-3)。ペテロと仲間たちは夜を徹して漁をしたが、何も取れず、気落ちして網を洗っていたところであった(5:5)。ペテロは船上で語られるイエスの言葉を聞いたが、何も感じなかった。漁の不作で心がふさがれていたためである。ペテロが求めているものが何か、イエスは承知しておられた。だから「沖に出て網を降ろしなさい」と彼に言われた(5:4)。漁は深夜から夜明けに行うのが通常であり、昼に漁をしても収穫が少ないことをペテロは経験から知っていた。ペテロは漁師であり、漁については専門家であった。他方イエスは漁のことに関しては素人であった。
・しかし、ペテロはイエスに姑の病気を治してもらったことがあり(4:38-39)、またその説教も時々聞いて感服していたので、断るのも気がひけた。「お言葉ですから網を降ろしましょう」と答えてペテロが網を降ろした。すると、多くの魚が網にかかった(5:6)。ありえないことが起こった。ペテロはこれを見てイエスが神の人であることを知り、恐れて「私を離れて下さい」と言った。ペテロはこれまでイエスを信じていなかった。しかし今、ペテロは驚くべき出来事を目の前に見て、自分が神の人の前に立っていることを知った(5:8)。イエスは「恐れるな、私について来なさい」とペテロを招かれ、ペテロは全てを捨てて従った。これがルカの伝えるペテロの召命である。この召命の記事は私たちに「信仰とは何か」について多くのことを教える。

2.イエスの招き

・夜通し働いても一匹の魚も取れず、疲れきって網を洗う現実がこの世にはある。教会の業である牧会や伝道も、ある意味で徒労と虚しさとの戦いである。熱心に数千枚のチラシを播いても誰も来てくれない伝道集会もある。一度は教会に来てくれても、その後便りを出し続けても二度と来ない方も多い。また、熱心に教会に来ていた人が牧師や信徒の一言で躓き、教会を離れることもある。人間の智恵や経験では教会は形成できないと思う、限界がある。その限界を超えるものがイエスの呼びかけである。ちょうど一晩中働いても一匹の魚さえ取れなかったペテロに言われたように、「もう一度やって見なさい」とイエスは言われる。イエスの招きである。
・その招きに「無駄かもしれませんがやってみましょう。お言葉ですから」とペテロは答えた。これが応答であり、その時、虚しい現実が豊かなものになる経験を人はする。ペテロが経験したように「おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった」(ルカ5:6)ことを見る。その圧倒的な神の力に接した時、人は神の前にひざまずく。イエスを「先生」と呼んでいたペテロが(5:5)、イエスを「主」と呼び、自分の罪を告白する(5:8)。罪の自覚、悔改めは恩恵の感動の中で生起する。
・イエスの復活を信じることの出来なかった12弟子の一人、トマスが経験したのも同じ感動だった。トマスはイエスが復活して最初に弟子たちに現れた時、そこにいなかった。トマスは「復活のイエスに出会った」と言う弟子たちに言った「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ20:25)。トマスだけではなく、人間は誰も見なければ信じることは出来ない。そのトマスのためにイエスは再度現れた。自分の目で復活のイエスをみたトマスは、もう理屈抜きでイエスの前にひざまずく。「トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』」(ヨハネ20:28)。この信仰の体験、人知を超えた神の力、働きに触れることなくして信仰は生まれない。生きた神の現臨に触れる、その体験におののくことがなければ、頭だけの信仰では続かない。信仰は自分の身に起こった出来事への感動、応答なのだ。
・罪を告白した者には祝福が与えられる。それは「恐れ」からの解放である。信仰生活を送るとは、主に委ねることが出来るので全ての恐れから解放されることだ。イエスはペテロに言われた。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」(ルカ5:10)。だから人は全てを捨てて従うことが出来る。ルカ5:11「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」


3.私たちの応答

・信仰にはこの原体験が必要だ。では、どうすればこのような原体験をすることが出来るか。招きに応答すること、「お言葉ですから」と従ってみること、それが一番大切なことだ。神が命じられることを文字通りやってみる、聖書の教えの何か一つでも徹底的にやってみる時、私たちは不思議な体験をする。今日の招詞にマラキ書3:10を選んだ。
「私の宮に食物のあるように、十分の一全部を私の倉に携えてきなさい。これをもって私を試み、私が天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」。
・マラキ書は紀元前450年頃の預言書と言われている。バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は紀元前538年のバビロン滅亡により解放され、エルサレムに帰ってきた。彼等は希望に燃えて国の復興に励み、廃墟になっていたエルサレム神殿も前515年に再建された。しかし、神殿が再建されても約束されたイスラエルの繁栄の時は実現しなかった。旱魃や凶作、飢饉が相続き、暮らしは楽になるどころか苦しくなった。期待が外れた人々は神に対して懐疑的になり、「正義の神は何処にあるのか」(マラキ2:17)と言い、またある者は「神に仕えることはつまらない。神の戒めを守ったとて何の益があるか」(同3:14)とつぶやくようになった。その人々に対し、「神を求めてみよ、その時神が何をして下さるかを試してみよ」と呼びかけたのが預言者マラキである。
・このマラキ書3章10節について、アメリカで一つの話が伝えられている(「涙のち晴れ:37-43頁」いのちのことば社)。ジョージ・パーカーという人がロスアンゼルスにいた。彼はかって牧師だったがその後信仰を無くして教会を離れ、今は年を取り、小さな会社の雑役係りをしていた。収入は週25ドルしかなく、蓄えもなかった。彼の妻が死んだが、彼には葬式を出すお金もなかった。彼は知り合いの銀行家を訪ね葬式代として150ドルの借り入れを申し込んだが、銀行家は断った「返す当てのない人にお金を貸すことは出来ません。それにあなたはクリスチャンではありませんか。クリスチャンなら何故あなたの信じている神に助けを求めないのですか」。頼みの綱を断ち切られた老人は疲労と空腹を覚えながら外に出た。その時、銀行家が言ったように「神様の助けを求めてみよう」と思い、近くの教会に入って祈った。何も起きなかった。失望して外に出た時、一人の男に「ジョージ・パーカーさんではありませんか」と呼び止められた。「そうです」と答えると男は小切手帳を出してサインし、彼に1万ドルの小切手を差し出した。「是非、受け取って下さい。ずっと前のことですが、あなたは私に天国の財産を下さいました。これはその時のお礼です」。パーカーは不思議に思って男の顔を見つめた。男は言葉を続けた「私は前にカンザスの刑務所にいました。その時、二人の看守に付き添われてあなたのお話を伺ったことがあります。マラキ3章10節からの説教でした。当時、私は手のつけられない凶悪犯で10年の懲役刑に服していました。『私を試してみよ』とのマラキ書の言葉を聞いた時、私は人生をやり直すことが出来るかもしれないという気持ちになりました。それからまもなく釈放され、多くの困難に出会いましたが、主は私を守り、約束を果たして下さいました。私は囚人として刑務所に入りましたが、あなたのお話を聞いたおかげで、神の子として出所したのです」。
・「どうせだめだ」として網を降ろすことを拒否した時、そこには奇跡は起こらない。だめでもいいから、イエスが言われるのだからとして網を降ろす時、そこに驚くべき出来事が発生する。これは多くの人が経験している出来事だ。個人の信仰も教会の形成もこの驚き、この感動が基本となって形勢されている。この恩恵の体験を通じて人は信じるものとされ、教会はイエスを「主」と仰ぐものにされていく。信仰とは私が信じるのではなく、信じるものにさせられていく出来事なのだ。「教会はイースター(キリストの復活)の後に起こったのではなく、ペンテコステ(弟子たちへの聖霊降臨)と共に始まったのでもない。教会はペテロがイエスの言葉に従って網を降ろし、驚くべき出来事を経験した時に起こったのだ」と言うドイツの神学者ゴルヴィッアーの言葉は正に真実なのである。

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