1.てんかんの子供をいやせない弟子たち
・イエスが三人の弟子(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れて山に登られた時(マルコ9:2)、他の弟子達は村に残っていた。やがてイエスは山を下って来られたが、その時、残っていた弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれていた(9:14)というのが、今日のテキストの始まりである。てんかんに苦しむ子をもつ父親が、イエスの評判を聞いて、この方であれば子供の病気をいやして下さるかも知れないと期待し、子を連れてきた。ところがイエスは不在であったため、父親は弟子たちに病のいやしを願った。弟子達は手をおいていやそうとしたが、出来なかった。いやせない弟子たちを見て、律法学者たちは彼らの無能をあざ笑い、弟子達はそれに反論して言い合いになった。そこにイエスが山から下りて来られた。そういう情況である。
・イエスを見た父親は言った「あなたの弟子たちはこの子をいやせませんでした。もし、出来ますならば、私たちを憐れんでください」。イエスは言われた「出来ればと言うのか。信じる者には何でも出来る」。父親は叫んだ「信じます。不信仰な私を助けて下さい」。こうして子はいやされた。
・ここの個所は重要な問題を私たちに投げかけている。イエスはいやしが出来なかった弟子たちをご覧になって、「何と言う不信仰の時代であろう」とお嘆きになっている。これは弟子たちの信仰が足らないからいやしが出来なかったという意味なのか。つまり、弟子たちの信仰が十分であればいやしは為されたのかという問題を投げかける。また、父親に対して言われた「信じる者には何でも出来る」。これは父親が信じればいやしは与えられるという意味なのか。ある人たちは言う「病になるのは信心が足らない」からだ、あるいは信仰があれば病はいやされると。本当にそうなのか。今日は、私たちにとって大事な信仰といやしの問題を、マルコ9章の奇跡を通して考えてみたい。
2.弟子たちの不信仰
・イエスは多くの病をいやされ、悪霊を追い出された。ここでも悪霊が問題になっている。子供の病は今日で言う「てんかん」であろう。18節「霊がこの息子にとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます」。てんかんは病気や事故で脳が損傷を受けた時に起こる病であることが今日では確認されている。しかし当時は、このような病は悪霊の働きと考えられていた。父親は「霊がこの子に取り付くと」と表現しているし、イエスも「霊を叱って」子供の病をいやされている。
・弟子達はてんかんの子をいやせなかった。そのため、群衆から「病をいやせないではないか、あなたたちは本当に神から遣わされたのか」と問い詰められている。当時、神から遣わされた者は神の力、即ちいやしの力を持つと信じられていた。いやしが出来ないということは神の力を持たない、神から遣わされたものではないことになる。弟子達はいやせなかった言い訳を律法学者たちにしている。弟子たちにとって、子供の状態よりも自分たちの正当性が疑われたことの方が重要だった。だから子供は放り出して、律法学者と論争している。イエスはその弟子たちを見て嘆かれた。病をいやせなかったことよりも、苦しむ子供を放置して論争している弟子たちの姿を不信仰と嘆かれた。
・イエスが弟子たちに求められたのは、子をいやすことよりも、神の愛が何かを知ることであった。神はこのてんかんの子を憐れまれる。そのために弟子達は今、何をすべきかを知るべきであった。体のいやしは信仰の本質ではない、何故なら、体はいやされてもやがてまた、滅ぶ。イエスは教えられた「身体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、身体も魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ10:28)。体はやがて朽ち果てる、それは大事なものではあるが、もっと大事なものは魂ではないか。もし子をいやせなかったら、その子の汗をふき取って楽にしてあげるとか、抱きしめて共に泣くとか、することはたくさんあるだろう、少なくとも律法学者と論争するより大事なことが多くあるのに、あなたたちはそれに気付いていない。だから、あなたたちは愚かで不信仰なのだとイエスは言われている。
・マザーテレサはいやしを求めなかった。彼女がしたことは死んでいく者が人間としての尊厳をもって死ねるように、その人を抱きしめたことだけだった。イエスは弟子たちに言われている、あなたたちは何故この子を憐れまなかったのか、父なる神がこの子を憐れんでおられることに気付かなかったのか、なんと不信仰なのかと。
・病のいやしを求める信仰がこの世にはある。多くの新興宗教はいやしを売り物にするし、キリスト教の中にもいやしを強調する教派もある。しかし病のいやしを求める信仰は偶像礼拝であると聖書は教える。もし私たちの信仰、あるいは信心によって病がいやされるとしたら、そのような神は人間が勝手に作り出した偶像だ。聖書が教えるのは「神は神であり、人間は人間である」という信仰である。全ての力は神にあるのであり、人間の側にはない。被造物にすぎない人間が神を左右できるとしたら、その神は真の神ではなく、偶像である。私たちは病のいやしを神に願っても良い、それは聞かれるかも知れないし、聞かれないかも知れない。聞かれない時、私たちの信仰が足らないとしたら主導権は私たちにあることになる。「信仰が足らないからいやされない」、それは悪魔のささやきである。
3.父親の不信仰
・ここには同時に父親の不信仰が明らかにされている。父親はイエスに願う「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」(マルコ9:22)。「出来ますれば」、この言葉の裏には父と子の長い苦しみがある。子供は幼いときからてんかんの発作に苦しんでいた(21節)。父親は何とかして子供の病気を救ってやりたいとして、これまでも多くの医者を尋ね歩いてきたが誰も直せなかった。苦しむ子のために何も出来なかった。今、一縷の望みを持ってイエスの弟子たちを尋ねたが無駄であった。イエスでもだめだろう、父親はそう考えている。今まで失望ばかりしてきたから今回もだめだろうと考えている。この父親は不信仰だ。でも当然の不信仰だ。父親はイエスが誰であるかをまだ知らない。
・父親に対してイエスは答えられた「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」(23節)。いやされるのは神である、神は真剣に求める者には恵みを与えてくださる、これを信じるかとイエスは問われる。父親は即座に言う「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」(24節)。神がいやされることは信じます、しかしこれまでは失望の連続でしたから信じきれない自分が他方にいます、このような私にも恵みは与えられますかという叫びが父親から出ている。イエスはこの父親の言葉を聞いて、子供をいやされた。
・22節ではこの父親は「私たちをお救いください」とイエスに願っている。私たち、私とてんかんの子、病のいやしを求めている。しかし、イエスとの問答を受けた24節では「不信仰な私をお助けください」となっている。私たちではなく、私だ。ここにおいて、もはや子のいやしが問題になっているのではなく、父親の救いが問題になっている。この事を知ることは重要だ。病がいえようがいえまいが、それは信仰の本質には何の関係も無い。体はいずれにせよ、滅びるのだ、だから滅びないものを求めよとマルコ9章は私たちに伝えるのだ。
・私たちの信仰もこの父親と同じだ。父なる神が養って下さることを信じているが、自分の生存を委ねきるまでの信仰はない。だから平日の6日間はこの世の人と同じ生活をし、同じ価値観を生きる。私たちは神を信じてはいるが信じきっていない。しかし、自分が不信仰であることを知ることは大切だ。不信仰であり、信じきることが出来ないことを知っているから神の憐れみを求める、それが祈りだ。弟子たちが、何故いやせなかったのですかと問うたのに対してイエスは答えて言われている「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」(29節)。
・不信仰の自分、何も出来ない自分を認め、ただ神の憐れみのみを求める、それが祈りである。その祈りに答えていやしていただければ感謝をもって受入れる。仮にいやされなかったとしてもそれが最善であることを知るから同じく感謝する。それが信仰であり、それが出来なかったから、弟子たちと父親は不信仰であると言われている。いやすことが出来なかった、あるいはいやしを信じることが出来なかった、そのことが不信仰なのではない。
4.信仰は勇気である。
・信仰は勇気であると言われる。その勇気を私たちはダビデの中に見る。サムエル記上17:47にダビデの言葉がある。「またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。
・これはダビデがペリシテ人ゴリアテに言った言葉である。ゴリアテは青銅のかぶとをまとい、よろいを着、手には大きな槍と刀を持っていた。巨人であり、武力に長け、誰も彼に戦いを挑む者はいない。そのとき、まだ少年だったダビデが出て、ゴリアテに戦いを挑んだ。サウル王や兵士たちも、主が共に戦われるとの信仰はあったが、目の前の巨人ゴリアテを見て、怖気づいた。その中でダビデのみゴリアテに立ち向かう、彼は言う「私は羊飼いとして羊を襲う獣たちと戦ってきた、そして主はいつも私を守られた。だから今回も主は私を守られる。主が私たちを救うためには槍も刀を不要であることをあなた方は見るであろう」。主が共に戦われる、この事を信じてゴリアテに向かうことこそ信仰の勇気である。しかし、ダビデの勇気は根拠なしの、無謀の勇気ではない。この勇気はこれまでも神が守ってくださったから今回も守って下さるという信仰に基づく勇気である。
・高さ数千メートルの空中からパラシュートを背負って地上に飛び降りるには勇気がいる。しかし、パラシュートなしに飛び降りるのは勇気ではなく、愚かである。私たちが祈ればいやされるとして医療を否定するならば、それはパラシュートなしに空中に飛び降りるのと同じであり、信仰の勇気ではない。また、パラシュートがあれば常に無事に降下できると思うならば、それも同じく愚かである、強い風が吹けばパラシュートは壊れてしまう。もし私たちが医学はすべての病をやがては克服できるであろうと考えるならば、それはパラシュートが万全であると信仰するのと同じだ。あるクリスチャンの医者は言った「手術をするのは私である、しかしいやされるのは神である」。これが信仰である。
・信仰が足りないからいやされないのか、違う。いやしは信仰とは関係の無い出来事である。もし、私たちが病の中にあるとしたら、その病を通して祝福を与えるためだと聖書は教える。それがどのような悲惨な病であっても、この子供のようにてんかんで体が引きつり口から泡を吹き、長い間絶望の中に置かれたとしてもそれは祝福なのだ。父親は子の病があるからイエスを求め、そして恵まれた。病が無ければイエスを求めなかった、そして求めない者には命は与えられない、とすれば子の病は祝福ではないか。病があったからこそイエスに出会えたのではないか。病がいやされた時に感謝するのは信仰であり、病がいやされなかった時に感謝するのも信仰であることをこのマルコ9章は教えている。
・私たちを満たすものは外部情況の変化ではない。外部情況が変化しても、例えば病がいやされても私たちは満たされない。当初は感謝するだろう、やがて当然になり、健康であると言うだけでは心は満たされなくなる。私たちを満たすものは、私たち自身の心の変化である。そして、それをもたらすものは私たちが不信仰であり、神に憐れみを求める以外に生きようが無いことを知ることである。私たちの信仰は不信仰者の信仰なのである。