1.最期の預言者、最初の証人
・イエスの生涯を記すものが四つの福音書である。その中でルカ福音書だけがイエスの生誕と同時にヨハネの生誕の次第を書く。それがルカ1章である。今週は待降節第三主日、来週はいよいよクリスマス主日である。今日はルカ1章5‐25節からヨハネの誕生について学び、来週主日は1章26-38節からキリスト誕生を学び、この二つの命の誕生から私たちに何が語られているのかを聞いてみたい。
・バプテスマのヨハネは最期の預言者と言われている。預言者は歴史の転換点で現れ、神の言葉を預ってそれを人々に告げる。旧約聖書はその預言者達の言葉を集めたものだ。旧約の終わり、キリストの降誕以降、預言者は現れていない。キリストが来られた、神が人間の歴史に最終的、直接的に介入された以上、神の言葉を預かる預言者は要らなくなった。キリストこそ生ける神の言葉なのだから。
・バプテスマのヨハネは同時に、最初の証人と呼ばれている。ヨハネは人々に神の言葉を伝えたが、最終的に伝えたのは「イエスこそキリストである」ということであった。ヨハネはイエスより先に生まれ、その活動を先に開始した。ヨハネの宣教の噂を聞いて、イエスは故郷のナザレを出られてヨハネのもとに行かれ、ヨハネからバプテスマを受けられた。従って、ヨハネはイエスの先生であった。しかし、イエスが独立され、人々がヨハネを離れてイエスの元に集まり始めた時、ヨハネは言った「彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:30)。人間的には師であるヨハネが、弟子であるイエスを「神の子」と証言した。ヨハネは最初のキリストの証人だった。そのヨハネの誕生の次第を聖書にそって見ていこう。
2.ヨハネの受胎告知
・ヨハネの父親はザカリヤ、母はエリサベツである。母エリサベツは不妊の女だった。イスラエルの人々にとって子が与えられないことは神の祝福がないことを意味し、子を持てない女性は恥ずべきもの(ルカ1:25)とされていた。二人は熱心に祈っていたが、子は与えられず、もう子を持つことを諦めていた。そのザカリヤ夫婦に御使い(神の使者)が現れ、子を与えるとの言葉が伝えられた「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい」(ルカ1:13)。
・二人はあまりに長い間、祈りが聞かれなかったため、もう祈ることも止めていた。だから、二人とも年老いてしまった今、子を与えるとの約束が御使いからあってもにわかに信じることは出来ない。ザカリヤは答えた「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(1:18)。原文通りに直訳すると、「何によって私は知ることが出来ましょうか」となる。「私たちは長い間祈って待ったのにあなたは子を与えて下さらなかった、いまさら子を与えると言われてもどうして信じることが出来ましょうか。もし、本当に子を与えてくださるなら、そのしるしを見せて下さい」。ザカリヤはそう言ったのだ。
・ザカリヤは神の約束を信じることが出来なかった。人間は情況が絶望的な時には、神の約束を信じることが出来ない。ザカリヤとエリサベツの夫婦は子を持てる年齢を既に越していた。これはザカリヤだけでなく、信仰の祖と言われたアブラハムがイサクを与えられた時も同じだった。アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、子を与えるとの神の約束があったが、アブラハムは信じなかった「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」(創世記17:17)。妻のサラも信じなかった「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」(創世記18:12)。神は往々にして、信じることの難しい約束をされる。それは人生の喜びは神の恵みと力から出るものであり、決して人間の力から出るものでないことを示す為だ。そのために、年老いた不妊の女から約束の子を産ませ給う、それが神の経綸、導きである。
・ザカリヤは信じることが出来ない故にしるしを求め、神はしるしとしてザカリヤの口を閉ざされた。彼はものが言えなくなったである。それはザカリヤが神の言葉を信じなかったためではない。ザカリヤを信じる者へと導くためであった。使徒パウロも神に呼び出された時に盲目にされた。彼はユダヤ教の教師として、ユダヤ教からみれば異端であるキリスト教会を迫害するためにダマスコへ向かっていた。その途上でキリストの光に会い、目を見えなくさせられた。これは方向を誤るパウロの目を一旦閉ざすことにより、正しいものを見させようとされる神の導きである。再び見えるようにされたパウロは教会の迫害者から、教会の宣教者に変えられていた。これが私たちにも苦しみや悲しみが与えられる理由だ。人間は苦しまなければ本当の喜びを知る事は出来ない。ちょうど、闇があるから光が解るように、苦しみは祝福の始まりであると聖書は言う。
・ザカリヤは子が生れるまで9ヶ月の間、口を閉ざされた。ザカリヤは祭司であり、祭司は民に神の言葉である聖書を解き明かし、民のために祈ることが職務である。口が利けなければ勤めを果たすことが出来ない。彼は困ったであろう。また、それ以上に祭司として神に仕える身でありながら、子を与えてくれるよう熱心に祈っていながら、いざ約束を果たそうという神の言葉があった時、それを信じることが出来なかったことに苦しめられたことであろう。しかし、この9ヶ月間の苦しみがザカリヤの感謝を大きくした。子が生れて、再び口が利けるようになった時、ザカリヤの口から最初に出たのは神への讃美である。「ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、『主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。』」(ルカ1:67-68)。
・そして御使いに告げられた通り、子にヨハネという名をつけた。ユダヤでは名前は特別の意味を持つ。ヨハネは「主は恵み給う」の意味で、正に9ヶ月間の口を閉じられるという苦しみを通して、子のヨハネが恵みとして与えられた。高齢になってもう子を持てなくなった時に、子を与えると言われても信じることが出来ないのは当然だ。その信じることの出来ないものに恵みとして神の不思議な業が示され、信じる者とされていく。私たちも同じだ。信じるから救われるのではなく、救われたから信じるのである。ザカリヤが口を閉ざされたのは彼を信仰に導くための神の愛である。
3.一人一人の名を呼ばれる神
・ルカ1章の「二つの命の誕生」から教えられるもう一つのことは、私たちの信じる神は、一人一人の名を呼ばれる神であるということだ。神はザカリヤに現れて彼の名を呼ばれた。ザカリヤは一人の平祭司に過ぎなかった(当時のユダヤには2万人の祭司がいた)。神はマリヤに現れ、彼女の名を呼ばれた。マリヤはナザレの年端も行かない田舎娘にしか過ぎなかった(マリヤは当時14−15歳と推測されている)。その二人に「ザカリヤよ」、「マリヤよ」と主は名前を呼ばれた。私たち一人一人の生もまた、このように覚えられている。
・昔、戦争に負け、バビロンに捕囚として連れて行かれた民は、自分たちの神がバビロンの神に打ち負かされた、だから国が滅んだのだと思った。しかし、彼らがバビロンで見たのは、動物の引く車に載せられて運ばれる偶像の神々だった。それは人に持ち運ばれないと自分では歩くことも出来ない。それを見た時、捕囚の民は知った「私たちの信じる神はこのように人によって持ち運ばれる偶像の神ではなく、私たちを持ち運び、背負われるためにここにもおられる神である」と。その信仰を告白したものがイザヤ46章1−4節の言葉である。
「ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができずかえって、自分は捕われて行く。ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」
・神はザカリヤに現れてヨハネの誕生を祝福された。神はマリヤに現れてイエスの誕生を祝福された。神は私たち一人一人に現れて、その誕生を祝福されている。私たち一人一人は、神の祝福を受けて生れてきた。私たちの神は「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」と約束される方、私たちの一人一人を覚えられる方なのである。
・ヨハネは神の特別な使命を与えられていた。ルカ1:15‐16に依れば次のようになる。
「彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。」
ぶどう酒や強い酒を飲まず主の前に大いなる者になるとは、ナジル人(誓願して身を神に献げる者)として聖別されるということだ。私たちもクリスチャンとして聖別された。ヨハネは母の胎内にいる時から聖霊に満たされた、私たちも生れる前から神の選びの中にある。イスラエルの子等を主に立ち返らせる、私たちも人々に福音を伝えて主を指し示す為に今、教会に集められた。ヨハネがいただいた使命は、私たちがいただいている使命と同じだ。私たちは自分が救われて永遠の命をいただく為に、教会に集められたのではない。私たちはクリスチャンとして聖別され、人々を主の下に立ち返らせるために、ここに集められているのである。
・ヨハネは最初の証人、イエスがキリスト・救い主であることを証しした最初の人であった。そして今、私たちがそのヨハネの後継者として、ここに立てられている。ヨハネの誕生の告知は、私たちの新しい人としての誕生の告知でもあるのだ。待降節第三主日に、御使いはザカリヤに語られると同時に私たちにも語られているのだ。心を鎮めて私たちも語られる主の言葉を聞こう。