江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年12月8日説教(ルカ4:14-21、約束の成就)

投稿日:2002年12月8日 更新日:

1.イエスの宣教の始め

・イエスは宣教の業をガリラヤで始められた。イエスの言葉といやしの業は多くの人々をひきつけ、イエスの評判は高まっていった。しばらくしてイエスはガリラヤのナザレにお帰りになった。人々は郷土出身の名高い預言者が帰ってきたとして、話を聞くために会堂に集まった。イエスが会堂に入られた時、人々はイザヤの巻物を渡した。イエスは聖書を朗読された後、この預言はあなた方が耳にしたこの時に成就したと言われた。
・人々は約束の成就を待ち望んでいた。生活が苦しかったからである。ユダヤの国はローマの植民地であり、ローマと、ローマの任命する領主の双方に二重に税金を納めなければならなかった。税金を払えない人は妻や子供たちを売り、それでも払えなければ投獄された。また、多くの人々は土地を持たない小作人として働き、貴族や祭司等の地主に収穫の半分以上を小作料として取られていた。天候不良で不作の時には大勢の餓死者が出た。豊作の時でさえ、食べるのがやっとの生活であった。病気に罹れば、治療を受けることも出来ず、死んでいった。人々は約束されたメシヤ(救い主)が来て、自分たちの生活が良くなることを待望していた。その人々にイエスは言われた。「私がそのメシヤである。あなた方の救いは、今日私の言葉を耳にした時に成就した」と。
・今日は待降節第二主日である。私たちは2000年前のユダヤに住む人に比べて、生活は豊かになった。食べるものに困っていないし、住む家もある。しかし、満たされていない。家族の不和で苦しみ、病気で苦しみ、将来の経済生活を不安に思っている。私たちも、救い主の降誕を待ち望んでいる。だからろうそくの光をともし、光である救い主が来られる時を待ち望む。その待望していた救い主が来られた。救い主は私たちに何を言われたのだろうか、ルカ4章から学びたい。

2.ナザレにて

・当時のユダヤにおいて、人々は安息日に会堂に集まり、聖書を読み、説教を聞き、祈った。最初に信仰告白が読まれ、次に聖書日課に従って先ず律法の書(旧約聖書の最初の五書)が、その後預言書が読まれ、読んだ人がそれについて短い話をするのが慣例であった。その日の預言書の個所はイザヤ61章であり、イエスは渡された巻物を朗読された。それがルカ4:18-19の所である。
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
・これは、イエスが、イザヤ書61:1-2の預言を、当時の人々の困窮に焦点を当てて語られている個所である。人々は食べるのがやっとの貧しい生活を強いられていたが、その貧しい人々に良い知らせが語られる。税金が払えない人は獄に入れられていたが、彼らは獄から解放される。病に苦しむ人はその病がいやされる。土地を持たず、小作農として苦しむ人には土地が与えられる。
・「主の恵みの年」はヨベルの年を指す。古代のイスラエルでは、50年ごとに債務が免除され、奴隷は解放される習慣があった。その時、角笛(ヨベル)が吹かれたため、この名がついた。それは、エジプトで奴隷として苦しんでいたのを主が救われ、現在の安泰があるのだから、今苦しんでいる人を助ける為にその債務を赦してあげなさいという戒めである。今、その主の恵みの年が実行され、債務の返済に苦しむ者には債務免除が告げられるとイエスは言われた。正にここで「解放」が宣言されている。苦しむ人々を解放する為に、父なる神は私(イエス)に油を注いで聖別し、ここに遣わされたとイエスは言われているのである。
・人々はその言葉に感動した。「彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆し(た)」(ルカ4:22)しかし、人々は続けて言った「この人はヨセフの子ではないか」。大工のヨセフの子、私たちと同じく貧しく、学問も権力もないヨセフの息子が何故このような約束が出来るのか、人々はイエスの言葉を信じることが出来なかった。故郷ナザレの人々は、イエスを子供の頃から良く知っている故にその言葉を信じることが出来ず、たわごとを言うものとしてイエスを追い出した。


3.ユダヤにて

・これはユダヤの他の地でもそうであった。イエスは人々に抑圧からの解放を告げられた。しかし、多くの人々にとって救済とは社会的・政治的救済であった。ユダヤはローマの植民地として苦しんでいたから、人々はメシヤが現れてローマからユダヤを解放してくれることを願った。土地を奪われて生活が苦しかったから、メシヤが土地を取り戻してくれる日が来ることを願った。病で苦しんでいたから、病をいやしてくれるメシヤの到来を期待した。そして、イエスがそのようなメシヤでないことがわかると、人々はイエスを十字架につけて殺した。
・現代の人も、抑圧からの解放とは、たとえばフランス革命において人々がバスチーユの牢獄の扉を打ち破って人々を解放した時に始まったと思っている。しかし、フランス革命で起きたことは、新しく権力を握ったものが反対派を弾圧して殺したということである。歴史が教えることは、武力による革命によって変るのは支配者だけであり、抑圧からの解放はないということだ。
・社会的・政治的救済は一時的かつ相対的なものに過ぎない。貧しい者にお金が与えられても心が豊かになるわけではない。現代の私たちは、明日食べるものに困らないが、心は豊かになっていない。獄にいるものが釈放されるのは救出であるが、悔改めの心がなければまた獄に入るであろう。歴史が進んでも、犯罪は少なくなっているどころか増えているのではないか。盲人の目を開け、病者に健康を回復させるのは治癒であるが、心の目が開かれなければ真の光を見ることは出来ない。目が見えるようにされた人は感謝するだろうが、1年経てば感謝は薄れ、2年後には目が見えるだけでは幸せにはなれない。圧迫されるものを解き放つのは解放であるが、解放されたものはまた新しい抑圧の中で不満を言うだろう。債務の免除はありがたいが、本当の債務、罪の負債は十字架以外では贖うことはできない。
・社会的・政治的救済は無意味ではないが、人の心が変えられなければ、人間の霊的解放が為されなければ、何にもならない。イエスは霊の命を与えようとされたが、人々は物質的なパンを求めた。イエスは神の国を与えようとされたが、人々は地上の王国を欲した。人々の驚嘆と尊敬の中に始まったイエスの宣教が、三年を経ずして、人々の呟きと憎悪の中に、十字架の死をもって終るに至ったのはこのためである。


4.私たちへのメッセージ

・私たちはどうであろうか。私たちはイエスに何を求めているのか。私たちは自分たちが捕らわれており、目が見えず、圧迫され、債務を負っていることを本当に知り、それからの解放を求めているだろうか。私たちは本当にナザレでイエスが宣言されたように神の国は来た、解放の時は来たと受け止めているのだろうか。もし、そうならば何故私たちから応答の行為が出ないのだろうか。
・ルカ4章のイエスの言葉を文字通り受け止めて行動した人々がいる。ジュビリー2000の運動を推し進めた人達だ。ジュビリーとはヘブル語でヨベルの年を意味する。西暦2000年、即ちイエス生誕2000年はヨベルの年、主の恵みの年だった。イギリスの聖公会を始めとするキリスト教諸団体が協議して、発展途上国の累積債務免除運動を主の恵みの年の具体化として始めた。アフリカや中南米等の最貧国と言われる国々は、先進国からの債務の返済が国家予算の半分以上を占め、教育や福祉のお金を削って債務の返済を行っている。その結果、貧しいものがさらに貧しくなるという悪循環の中にあり、これを打破するには累積債務の免除を行うしかないとして国連や先進諸国に働きかけた。99年のケルンサミットの時には1700万人の署名を集めて、債務の一部削減を合意させた。そして翌年の沖縄サミットでは貧困国のためのエイズ基金の設置が合意され、エイズ治療薬を無料で配布できるようになった。エイズは治療薬の開発により先進国では普通の病気になったが、薬を買えない国では依然ペストのような死病である。この基金の創立により、多くの命が救われるようになった。祈りが行為となったのである。
・神の言葉は無力ではない。今日の招詞にイザヤ55:10-11を選んだ。
「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」
イエスは「私がこの地上に来て神の国は始まった」と言われた。2000年後の人々がその言葉を自分たちに言われた言葉として聞き、最貧国の累積債務問題を解放の具体化として取り組んだ。その結果、不十分であれ、目に見える解放が為された。正に神の口からでる言葉は空しく天に帰らず、神の喜ばれることをなし、神が命じられることを果した。今日、私たちが問われていることは本当にイエスの降誕を待ち望んでいるのか、もしそうであるとすればそれをどのように証ししていくのかということである。
・先週、私たちは祈祷会でマタイ14章を学び、弟子たちが持っていた5つのパンが5千人を養ったという記事を学んだ。弟子たちが5つのパンを差し出さなければあの奇跡は起きなかった。神は私たちを使ってその御旨を実現される。私たちはそれを信じるのか、本当に神の国が来ますように祈っているのか。それが待降節、アドベントに私たちが受け止めるべきメッセージである。

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