1.キリストの惜別の辞
・教会は三つの時を大事な時として覚える。キリストが生れられたクリスマス、キリストが復活されたイースター、弟子たちに聖霊が与えられたペンテコステ、この三つである。今年はイースターが3月30日、ペンテコステが5月18日である。今、私たちはイースターとペンテコステの間にいる。復活されたイエスがやがて天に帰られ、そして聖霊として私たちと共にいると約束されたことを覚える時である。そのことを覚える為に、ヨハネ16章から共に御言葉を聞きたい。
・ヨハネ16章はイエスが十字架の死を前にして弟子たちにお別れの言葉を述べられた、その時の言葉を記している。イエスは言われた「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」(ヨハネ16:16)。イエスはやがて十字架で死なれ、弟子たちと離れられると言われた、それは弟子たちにとっては大きな試練だった。弟子たちはイエスの言葉に戸惑い、混乱する。その混乱が17‐18節にある。
「弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」(ヨハネ16:17‐18)。
・弟子たちには言葉の意味がわからない、何故ならばわかりたくないからだ。弟子たちはイエスをメシヤ、救い主と信じて従ってきた。ユダヤにおいてはメシヤ、救い主とはイスラエルを救うもの、地上の王である。当時のユダヤはローマの支配下にあった。弟子たちはイエスの力ある業を見、力ある言葉を聞いて、この人こそメシヤ、ユダヤからローマを追放し、新しい王国を建てられると信じて従ってきた。そのイエスが王になられることもなく、死んでいかれる。弟子たちは困惑し不安になる。イエスが今死なれたらどうなるのか、神の国建設というイエスの事業は中途で挫折し、弟子たちの期待は無残にも裏切られ、弟子たちは散り散りになるだろう。この人はメシヤではなかったのか、不安と困惑が弟子たちに広まる。その弟子たちにイエスは言われた。
・「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。」(ヨハネ16:19‐20)。イエスの死をこの世は喜ぶ、何故ならばこの世はイエスに属していないからだ。イエスの死を弟子たちは悲しむ、何故なら彼等はイエスに属しているからだ。イエスに属さない者達は弟子たちを迫害するだろう。従ってイエスとの別離の悲しみはやがてこの世からの迫害の苦しみになる。その苦しみこそが生みの苦しみなのだとイエスは言われる。
2.不安の後に喜びが
・「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。」(ヨハネ16:21)。十字架から聖霊降臨までに弟子たちが経験するであろうことをイエスは今、言われている。イエスが捕えられ十字架にかけられた時、弟子たちは逃げ去った。イエスがメシヤではなかったという失望と、自分たちも捕えられ殺されるかも知れないという恐怖からであった。多くのものは信仰を失い、ペテロでさえ再び漁夫としての仕事に戻っている。その弟子たちに復活のイエスが現れ、彼等はエルサレムに集められ、そして聖霊を受ける。イエスの十字架の時に逃げ去った弟子たちが再び集められ、やがて彼等は「あなた方が十字架につけて殺したこの人こそ神の子である、神はイエスを復活させることによってそれを示された。私たちはその証人である」。逃げ去った弟子たちがイエスの名によって死んでいくものとなった。何が起こったのか、彼等は子を生む前の女のように彼等は不安と恐れの中にいた。しかし、彼等に聖霊が与えられた時、子を生んだ後の女のように、もうその苦しみを覚えていない、新しい生命が与えられた喜びに満たされた為である(ヨハネ16:22)。
「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。」
・あなた方に与えられた喜びは取り去られることはないとイエスは言われる(22節b)。この世の喜びはすぐに消え去る。金銭や物質を得ても、それらがなくなると喜びは消えていく。あるいはなくならなくても、やがてそれだけでは満足できなくなる。名誉や権力もそうだ。権力を得ても更に大きな権力が欲しくなるだけだからである。この世の喜びは全て外のものによって支えられており、それらの支えがなくなれば消えうせてしまう。外から来るものは本当の喜びになりえない。然し、聖霊による喜びは人の内側から湧き上がってくる喜びであり、何ものもそれを取り去ることが出来ない。
・前に水野源三の話をした。瞬きの詩人と呼ばれた水野源三は次のような言葉を残している。「三十三年前に脳性まひになった時には神様を恨みました。それがキリストの愛に触れるためだと知り、感謝と喜びに変りました」。水野源三は9歳の時に集団赤痢に感染し、高熱のため脳性まひになり、手足の自由と言葉を失った。14歳の時、牧師の訪問を受け聖書を読み始め、やがて信仰が与えられる。しかし、彼は相変わらず、動くことも、言葉を発することも出来ない。主治医の指導で、瞬きを通して意思を伝達する手段を与えられ、詩を書き始めた。脳性まひになって三十年」、信仰を与えられても相変わらず手足は動かせない、寝たきりの人生である。寝たきりの状況は変らないのに、それを感謝する者に変えられている。外部の条件は変らなくとも内部が満たされることにより、悲しみが喜びになる。これが聖霊が与えられたものの喜びであり、この喜びは誰も奪い去ることは出来ないし、消え去ることもない。
・その聖霊はイエスの十字架を通して与えられる。イエスは言われる。
「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」(ヨハネ16:7)。
イエスが生きて弟子たちと共におられるときには聖霊は与えられない。イエスと一緒の時、弟子たちは何かにつけイエスを頼った、そのイエスが亡くなられた、弟子たちは不安になり、戸惑う。その時弟子たちは直接に神の名を呼び求めるようになり、神はその呼びかけに答えられる。私たちもいろいろなものに依り頼んで生きるが、その依り頼むものを打ち砕かれた時が一つの恵みの時である。病気になったり、事業に失敗したり、あるいは人に裏切られたりしたとき、私たちは困惑し、戸惑い、不安になる。満たされている人は神を求めない、神がいなくとも不安も恐れもないからだ。私たちは失望し、苦しみ、どうしてよいかわからなくなったとき、初めて神の名を呼ぶ。そういうときこそ、私たちが最も神に近いところにいる。生みの苦しみなしには喜びはない、苦しみは喜びを与えられる為の祝福の始めである。
・ここでイエスがこれらの言葉を話された時の状況を改めて考えてみたい。最期の晩餐の時、イスカリオテのユダは既にイエスの元を離れ、祭司長たちとイエスを捕える話し合いを始めている。この晩餐の後、イエスは弟子たちとオリーブ山に行かれるが、そこで祈っておられる時に追手が来て、イエスは捕えられ、翌日には処刑される。今、死を前にイエスは語っておられる。イエスの前には闇しかない。その闇の中で弟子たちを励ますためにイエスは光について話される。この悲しみはやがて喜びに変るであろうとイエスは弟子たちに言われている。
3.この世の苦しみの意味
・やがて弟子たちに聖霊が与えられるだろう、その時には「弟子たちがイエスに問うことは何も無くなる」(16:23)。全てを知るようになるから問わないのではなく、わからなくても神が最善を為されることを知るから問わなくなる。そして求めるものは与えられる(16:24)。仮に今すぐ与えられないとしたら、それは最善を下さるための準備の時と受け止めることが出来る。聖霊が与えられるとは、霊的体験をしたり、異言を語ることではなく、どのような状況の中でも、神に信頼し、依り頼む心が与えられることである。この信仰が与えられれば他に何がいるだろうか。
・今日の招詞に第一ペテロ1:8−9を選ばせていただいた(新約聖書366頁)。招詞は8‐9節のみであるが、5節から読んでみたい。
〓ペテ1:5-9「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」
・これが聖霊を与えられたものの生き方である。この世に属さないからこの世ではいろいろな試練がある。しかし、その試練は人を金よりも価値あるものに精錬する為に与えられている。その人はイエスに肉で出会ったことは無いが、聖霊を受けて喜びの中にある。だから、その人にあってはどのような試練、どのような悲しみもやがて喜びに変るのだ。この言葉が確かであることを私たちは自分の人生を通じて知っている。私たちもまた、「アーメン、その通りです」と証するものに変えられている。それが聖霊の力である。