江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年5月12日説教(ヨハネ17:1−11、十字架を通していのちへ)

投稿日:2002年5月12日 更新日:

1.イエスの祈り

・イースターから6週にわたって、ヨハネ福音書から聞いてきた。今日がその最終日でヨハネ福音書17章からみ言葉をいただく。
・イエスは最期の食事を弟子たちと取られた後、弟子たちにお別れの言葉を述べられた。その言葉が13章から16章まであった。それは世を去ろうとされるイエスが、世に残る弟子たちに与えられた遺言であった。その遺言を語り終えられた後、イエスは弟子たちの為に、天の父に祈られた。
「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。」(ヨハネ17:1)
・「あなたの子があなたの栄光を現す時が来ました」。イエスはこれから十字架にかけられて死なれるが、その十字架の時を栄光の時と呼ばれている。何故、イエスが十字架で死なれることが神の栄光になるのか、人間的には理解が難しい事柄である。パウロも十字架の言葉は理性では理解できないことを認めている。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。」(〓コリ1:23-24)
・ユダヤ人にとって十字架にかけて殺された者は神から捨てられた、けがれた者であった、十字架につけられた者が神の子であるとはとても信じることは出来ない。ギリシヤ人にとって十字架にかけられた者は世の失敗者・敗残者であり、それが救い主であるとはこれも信じることが出来ない。ユダヤ人もギリシヤ人も「十字架を栄光の時」といわれたイエスの言葉を理解できない。しかし、私たちはこの十字架の言葉の中に真理があることを伝えていく。その時、起こる出来事が14節に言われている。「わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。」(ヨハネ17:14)
・世は十字架の言葉を理解せず、憎む、そして十字架の言葉を述べる私たちも世から憎まれるであろう。何故ならイエスが世に属さないように、私たちも世に属さないからだと聖書は言う。私たちは、福音を伝道してもそれを受入れる人は少ないであろうことを覚悟しなければならない。それにもかかわらず、私たちはこの言葉を述べ続ける。何故ならば、この言葉の中にこそ、真理が、いのちがあると信じるからだ。
・イエスは続けて言われる「あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。」(ヨハネ17:2)
この十字架の言葉を通して、永遠のいのちが与えられる。いつの時代でも人々は永遠の命が、この世の中にあると考え、求めてきた。古代中国の王達は不老不死の薬がどこかにあり、それさえあればいつまでも生きられると考えた。エジプトの王達は自分の肉体をミイラとして保存すれば永遠に生きる事ができると考えた。現代の人々もまた、いつまでも生きたいと願っている。ある人は歴史に名を残し、あるいは後世に事業を残し、また子に財産を残すことによっていつまでも生きる事ができると信じている。この世的に成功した人たちは、自分が作り上げた財産をそのまま子供たちに残したいと願い、相続対策に頭を痛める。しかし、子供たちは親の死後、その財産をめぐって相続争いを繰り返す。まさにイエスが言われるように「たくさんのものを持っていても、いのちは財産ではあがなえない」(ルカ12:15)。この世には永遠なるものは無いということを世の人は知らない。
・聖書は言う、永遠のいのちは神とその神が遣わされたイエス・キリストを知ることであると。
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17:3)


2.十字架を通していのちに到る

・永遠のいのちは神と御子キリストを知る事によって来ると聖書はいう。聖書で「知る」と言う時、それは知識で知る、頭で知ることではない。「人はその妻エバを知った。彼女は身ごもり、カインを生んだ」と創世記4:1が言う時、アダムは知識としてエバを知ったわけではなく、人格的・肉体的にエバと交わり、知っている。同じ様に私たちはキリストと人格的に交わりを持ち、その結果父なる神を知り、神の子とされる。そして、神の子とされることによって永遠のいのちを与えられる。これが聖書で言う「知る」である。
・では私たちはどのようにしてキリストを知るのか、十字架を通してである。十字架はイエスが身をもって示された神のことばである。だから、私たちも私たちの十字架を背負うことによってイエスを知る。
・今日の招詞として、マルコ8:34−35を選んだが、ここでイエスは言われている。(新約聖書65頁)
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」
・イエスに従うことによって、その十字架を自分も背負うことによって、私たちは命を得る。マルコ福音書に出てくるクレネ人シモンは文字通りイエスの十字架を背負うことによって、いのちをいただいた人物である。イエスは捕えられて裁判を受け、鞭打ちの刑を受けられた後、十字架を担いで処刑場への道を歩いていかれた。その時、イエスは十字架の重さに耐え兼ねてそれを落とされ、たまたまそこを通りかかったシモンが無理やりにイエスの十字架を負わされる。マルコはその時の様を次のように書く。(マルコ15:21−22、新約79頁)
「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。そしてイエスをゴルゴダ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った。」
・シモンは北アフリカ・クレネの出身で、過ぎ越しの祭りにたまたまエルサレムに来ていた。その彼がイエスの十字架の道行きに遭遇したことにより、無理やりに十字架を負わされ、ゴルゴダまで十字架を担いで従って行く羽目になる。彼はゴルゴダでイエスが十字架で死なれる様を目撃したのであろう。しかし、その後、シモンがどのようになったかは聖書は何も語らない。しかし、私たちにはその後のシモンを推測させる幾つかの材料が与えられている。マルコによれば、このシモンはアレキサンデルとルポスの父とある。と言うことは、マルコの教会ではアレキサンデルとルポスが信徒として知られていたことを示している。マルコがこの福音書を書いたのは紀元70年ごろと思われるからイエスの十字架から40年が経っている。また、ローマ書はパウロが紀元60年ごろローマの教会に出した手紙であるが、その中で(16:13)パウロは「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」と書いている。このルポスはシモンの息子ルポスと思われる。これらの資料から推測できることは、いやいやながらイエスの十字架を負わされたクレネ人シモンはその後、クリスチャンになり、そのシモンの影響で妻も信仰に導かれてパウロの世話をするほどの熱心な信徒となり、その二人の息子もクリスチャンになったことを示している。文字通りに十字架を負ったシモンが自分と家族のいのちを得る者になった。



3.十字架を背負う

・クレネ人シモンはいやいやながら十字架を背負った。私たちも同じ様に十字架を負うことにより、いのちに到る。皆、それぞれの十字架が与えられている、ある人は先天性の障害を持つ子供が与えられ、別の人は重い病気を与えられる。あるいは信じた人に裏切られ、何を信じていいのかわからないと言う重荷を与えられる。そして、その苦難を私たちが神から与えられた賜物として受け入れる時に、その苦難の意味が変ってくる。十字架を背負うとは、殉教するとかこの世を捨てるとかそういうことではなく、自分に与えられた使命、役割を知ることによって生かされている自分を知り、御名を求めることである。私が6年前、東京バプテスト神学校に入学した時、各人が何故この学校に来たのかを自己紹介する場があり、その時、人は痛みや苦しみを通していのちに近づくことを実感した。ある方は奥さんが自殺した、ある方は息子さんが若くして死んだ、ある方は事業に失敗した、それぞれの苦しみのなかで人生の意味を考え込まされ、神学校に導かれた。正に十字架こそ、いのちに到る道である。
・私たちが与えられた痛みや苦しみから逃げることなく、それを真正面から受け止めていった時、その悲しみや苦しみの意味が変ってくる。例えば、先天性の難病を持つ子供を与えられた時、病院や家族会の交流を通して、自分の子供だけではなく、多くの子供たちが同じく苦しんでいる状況を知る。そして、子供たちがその難病を抱えているにもかかわらず、いやむしろ難病であるからこそかわいいことを知るとき、例えば出生前の遺伝子検査によって異常があればその子を中絶させるこの世のあり方に対し、疑問を感じ始める。障害があってもこんなにかわいい自分の子を持って始めて、障害のある子は不幸であり生まれない方がよいとするこの世の価値観のおかしさに気付く。更にその問題を突き詰めていけば、この国では毎年30万人の子供たちが人工妊娠中絶により闇から闇に殺されている現実に気付く。しかもその中絶は母体の保護や必要から為されるのではなく、男の子が続いたから次は女の子が欲しいとか、これ以上子供を生むと教育費が大変だとか言う親の側の勝手な理由で為されている。それを知った時、私たちの疑問は怒りに変わり、そのような世のあり方に同意出来なくなる。そして神に何故あなたはこれを許すのかと問うことによって、神は応えられ、その応答を通して私たちは自分の中にある罪を知らされ、悔改め、許される。
・十字架の時は栄光の時である。それを理解しないこの世は私たちを憎むかもしれない。しかし、私たちはイエスの守りの中にある。最期にヨハネ17:15−17を共に読んで終わりたい。
「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。」

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