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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年10月27日説教(ヨブ記38:1-18、造り主を覚えよ)

投稿日:2002年10月27日 更新日:

1.教会暦と聖書

・今、私たちは聖書日課に従って聖書を読んでいる。聖書日課は教会暦に従って読むべき聖書個所を定める方法で、その教会暦に依れば、10月27日から新しい暦、降誕前節に入る。キリスト降誕は12月25日であるが、その9週間まえから降誕日を迎える準備をし、この間に創造からキリスト降誕までの契約の歴史を主に旧約聖書から学ぶ。今日は、その第1回目としてヨブ記から創造について学ぶ。
・さてクリスマスは12月25日であるが、教会がクリスマスを祝うようになったのは4世紀頃からで、当時ローマ帝国にあった冬至の祭りが、イエス生誕の日として祝われるようになったと言われている。冬至は一年の中で昼が最も短く夜が最も長い日、つまり一年の中で最も暗い日である。その暗黒のただ中に光が射した、人々はイエスの生誕をそのように理解した。だからクリスマスは光の祭りであり、私たちもクリスマス・イブにはろうそくをともして、光であるイエスの生誕を祝う。
・そして聖書の中で、最も暗い、最も重苦しい書の一つが今日読むヨブ記である。ヨブは神を畏れる正しい人であったが、そのヨブに理不尽な苦難が訪れる。彼は何故自分がこのように苦しまなければならないのか、理解できず、やがて人を呪い、神を呪うようになる。その時、ヨブに神の声が臨み、その声を聞くことによってヨブは自分の罪を認め、悔改め、そして光を見出した。ヨブ記こそキリスト降誕を待ち望む時に最も相応しい書の一つである。

2.ヨブの苦しみ

・ヨブ記のテーマは苦難である。何故、この世に苦しみがあるのか。その苦しみが、何も悪いことをしたとは思えない人にも与えられるのは何故かを問う。何故広島に原爆が落とされて10万人もの人が死ななければならなかったのか、何故幼い子供が事故で死ぬという出来事が起きるのか、私たちにはわからない。彼らはそれに価する罪を犯したとは思えない。ヨブにもわからなかった。だからヨブはそれを神に問うた。
・ヨブ記は「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」と言う言葉から始まる(ヨブ記1:1)。彼は財産に恵まれ、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百頭、雌ろば5百頭を持っていたというから大変な金持ちだった。7人の息子と3人の娘も恵まれていた。1章6節から神とサタンの会話が始まる。サタンは「ヨブが何の利益もなしに神を敬うでしょうか、あなたが祝福を与えるからヨブはあなたを敬うのであって、その祝福をとってみなさい。彼はあなたを呪うようになるでしょう」と言って、ヨブの信仰も結局は御利益信仰だと非難する。神はそれを否定される。そこでサタンはヨブを試すことが許され、ヨブに様々の試練が与えられる。多くの家畜は異邦人により奪われ、財産は全てなくなった。10人の子供を恵まれていたが、彼らも災いにより、全員殺される。彼の体は重い皮膚病に冒され、彼は身をかきむしって苦しむ。これでもか、これでもかと災いがヨブを襲う。妻さえヨブを見放し「神をのろって死になさい」と言うほどになる。
・最初、ヨブは「私は裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(1:21)と試練に耐える。やがて彼に与えられた災いを聞き、三人の友が来る。彼らは当初ヨブを慰めるが、ヨブがあくまで自分は正しい、この苦難は不当だと言い張るのを見て、やがてヨブを責め始める。「罪のない人が滅ぼされ、正しい人が断たれることがあるだろうか、あるはずがない。あなたがこのような災いに会ったのはあなたが罪を犯したためだ。罪を悔改めよ、そうすれば神はあなたをいやして下さる」。友人との対話を重ねるほどに、彼は自分が生れた日を呪うようになり、終には神を呪い始める。その言葉が9:22-24にある、「わたしは言う、『彼は罪のない者と、悪しき者とを共に滅ぼされるのだ』と。災がにわかに人を殺すような事があると、彼は罪のない者の苦難をあざ笑われる。世は悪人の手に渡されてある。彼はその裁判人の顔をおおわれる」。神は正しいものも悪しきものも共に滅ぼされる無慈悲な方だ。災いが罪のない人に及んでも神はただあざ笑われるだけだ。神が何故このようなことをされるのか私には理解できないとヨブは言う。私たちにもわからない。この世は必ずしも正しい者が栄え、悪い者が滅びる所ではない。
・ヨブの神への攻撃は激しさを増す。ヨブはあくまで自分の正しさを主張し、「私はこんな苦しみを与えられるほどの罪を犯したことはない、私は神と争う。神よ、何故私にこのような苦難を与えられるのか答えよ」と言う(27:5-6)。人はその苦難に何かの意味を認めた時には苦難を耐えていける。しかし苦難の意味がわからなくなった時、苦難はその牙をむき出して人に襲いかかる。ヨブは神に答えよと求める。その求めに応じて神が答えられる。それが今日のテキストであるヨブ記38章の場面である。


3.創造者と被造物

・「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた」(38:1)。つむじ風、嵐の中から神の声が響く。神はヨブの問いかけには直接答えられず、あなたは一体誰なのかとヨブに問われる(38:2)。「あなたは私が天地の基を据えた時、何処にいたのか。私がどのようにして天地を測り、どのようにしてその土台を据えたのか知っているのか。知っているなら答えてみよ」(38:4-7)。神が天地を創造された時人間はそこにいなかったし、その全体像さえ知らないではないかと神はヨブに問われる。
・8節から天地創造の具体的叙述が始まる。創造の前、「地は形なく空しく闇が淵の面にあり、ただ神の霊が水の面をおおっていた」(創世記1:2)。地を覆っていた水を上の水である天と下の水である海に分け、それがあふれないようにしているのが私であることをおまえは知らないのか。もし私が天の戸を開ければ雨は果てしなく降り、地は再び水であふれる。もし私が海の戸を開ければ、波は地を飲み込んでしまうであろう(38:8-11)。また私が日に毎朝出るように命じ、日が出ると地は輝きを増し、闇に隠れようとする悪人の姿をあらわにし、その腕を折るのをあなたは知っているのか(38:12-15)。あなたは海の淵、地の淵に行ったことがあるのか。あなたは地の果てまで行ったことがあるのか。地の果てさえも私の配慮の中にあるのだ。さあ、「自分は正しい、あなたは間違っている」と言いつのるあなたは一体何者なのか。被造物にすぎないあなたが、万物を創造し、それを生かしている私をどれだけ知っていると言うのか。神の問いかけは延延と続く。畳み掛けるような神の問いに対して、ヨブは一言も反論できない。
・今日の招詞ヨブ記42:5-6が、問い詰められたヨブが最期に神に答える言葉である。
「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、/ちり灰の中で悔います」。
・榎本保郎「旧約聖書一日一章」という本がある(主婦の友社刊)。その中にこのような話が載っている。
「一人の婦人がいた。彼女の息子は大学の工学部に在学中、山で遭難した。彼女は来る日も来る日も仏前に座って泣き暮らした。食事もとらず、外に出ようともしない彼女を多くの人たちが慰めようと試みたが、彼女は受け入れなかった。ある日、誘う人がいて彼女は教会の家庭集会に出て、それから熱心に教会に通い始めた。1年余り経った時、彼女は受洗を勧められたがこう言って断った『先生は、神様は愛であると言われるが、私には神様が愛であるとはどうしても思えない。もし神様が愛の方であればどうして私の子供を危険から救って下さらなかったのでしょう』。誰もこの質問に答えることが出来なかった。それからまた1年あまり経った時、今度は彼女の方から受洗の申し出があった。『私には子供が何故あんな死に方をしたのか、いまだにわかりません。でも神様がその一人子を私のために遣わし、十字架につけて、私の罪の贖いのために死んでくださったことは信じることが出来るようになりました。いつか神様のところに行き、子供の死もまた神様のご配慮の中で起きたことであることがわかる時が来ると思います』」。
・人が苦しみの中にあって自分の事柄に終始している限り、その苦しみからの脱出はない。目を天に上げてみた時、そこから救いの御手が伸ばされていることに気付く。耳を傾けた時、そこに語りかけておられる声が聞こえる。その時、神により生かされている自分に気がつく。その時、苦しみが何故与えられているかは理解できなくとも、この苦しみが神の裁きではなく、愛であることを感じる。その時、苦しみが苦しみでなくなる。
・ヨブは言った「今まで私はあなたのことを知識として知っていましたが、今は自分の目で見て知っております。私は自分が正しいと思ってきましたが、このような自分こそ罪人であることに今、気付きました。私は自らを恨み、灰の中で悔改めます」。罪には「なしたる罪」と「なさざる罪」があると聖書は言う。確かにヨブはなしたる罪においては清いかも知れない。しかしなさざる罪、たとえば餓えている人に食物を分けないとか、泣いている人のために祈らないという行為も罪としてとがめられるならば、誰一人罪人でないなど言い得るものはいない。「あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである」(マタイ25:45)。人はみな罪びとであり、正しいものなどいない(ローマ3:10)。
・私たちが自分の置かれた境遇の暗さ、悲しさだけに心を奪われた時、苦難を私たちを圧倒する。どうしていいかわからなくなる。今、いのちの電話のボランティアをしているが、かかってくる電話の大半はみな出口の見えない相談だ。飛び降り自殺に失敗して腰を痛め、その後遺症で歩くことが出来ず、家に閉じこもっている人がいる。16歳で最初の子を生み、今はその子を含めて3人の子供を託児所に預けて夜の仕事をしている22歳の女性がいる。どうしたら良いのかと相談されても下を向くだけだ。人間には解決できない、出来ないからただ相手の苦しみを聞く、そして共にもだえる。ただそれだけでも苦しみから立ち直って行く人がいる。目を自分以外のものに向けたとき、私たちが目を上げて創造主を見上げた時、共にいてくださる方を見る。そこから救いが始まる。ヨブはそうであった。榎本先生の知っておられた婦人もそうであった。いのちの電話に電話してくる人たちもそうだと思う。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」(伝道の書12:1)。「あなたの造り主を覚えよ、主は共にいてくださる」、今日は皆さんにこの言葉を胸に持って、教会から帰って行って欲しいと思う。

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