江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年10月20日説教(マタイ5:1-12、天国の市民権)

投稿日:2002年10月20日 更新日:

1.山上の説教

・イエスは多くの人々をいやし、悪霊を追い出された。そのイエスの力ある業を見て、大勢の群衆がイエスのもとにやってきた。「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた」(マタイ5:1)。イエスは人々を祝福して言われた「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである」。有名な山上の説教の始まりである。
・何時の時代でも人々は幸福を求める。イエスのもとに集まった大勢の群衆も幸福を求めていた。あるものは、長い間苦しんでいる病気を直してもらいたくてイエスのところに来たのであろう。別の人は食べるものもない貧乏から解放されたいと集まって来た。精神的な悩みを持つ人は慰めてもらいたくてイエスのもとに来たのであろう。彼らはいずれも現在の情況さえ変れば、即ち今のこの苦しみさえ取り除かれれば、幸福になれると思っていた。その彼らにイエスは「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いである。あなた方は苦しんでいる、しかし苦しんでいるものが幸いなのだ。あなた方には悩みがある、その悩みこそあなた方を幸いにする」と言われた。聞いていた弟子たちも群衆もイエスの言葉を聞いてびっくりし、またがっかりしたであろう。貧しいことが幸いであるとはとても思えなかったからである。
・私たちもびっくりする。何故貧しいものが幸いなのか、貧しいものが富むようになることが幸いなのではないか。悲しんでいるものの悲しみが取り除かれることこそ幸いと言えるのではないか。地を継ぐのは力の強いものであって、弱いものや柔和なものはこの世では捨てられるだけだ。憐れみ深いようなことをしていたら社会の落伍者になってしまうし、心が清いと言うことも世の中では通用しないだろう。
・イエスはここで、この世の中では通用しないことを言っておられる。イエスの弟子になるとはこの世の秩序とは違う秩序で生きることだと言われておられる。新しい秩序、天国に市民権を持つものの生き方がここに表明されている。それはどのような生き方なのか、ご一緒に学んでみたい。

2.貧しいものは幸いである

・イエスは「貧しいものは幸いである」と言われる(マタイ5:3)。貧しいものの反対は富んでいるもの、金持ちだ。イエスは言われた「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ19:24)。金持ちは救われないと聖書は言う。何故金持ちは救われないのか、それは金持ち=富を蓄える人はその富を自分のほうだけに取り込み、他者と分かち合わない。その時他者との関係が切断し、幸福が広がりを持たない。
・たとえば政治の世界を考えてみよう。政界には族議員といわれる公共工事の利権にかかわる人々がいる。彼らにとっては工事をしてお金が動くこと自体に価値がある。たとえば、諫早湾を干拓して水田や畑を作っても、米余りの現状では必要がないとみんな思っている。また堤防を作っても防災効果は低く、何千億円の投資の価値はないことも知っている。諫早湾干拓は、当初はそれなりの必要性があったのであろう。しかし、現在は干拓の必要性がなくなっている。逆に海をせき止め、囲い込むことによって有明海の浄化能力が低下し、のり養殖や魚貝類の被害が高まり始めている。しかし、彼らは工事をやめようとしない。やめればお金が動かないからだ。工事が必要かどうかという他者の視点、社会的視点よりも、お金が必要だという自己の視点から工事が続いている。富を得る行為はどうしても自己の利益を追求するため、他者との関係が切断する。他者との関係が切断した時、その行為は社会を腐らせ、社会に外をもたらすだけだ。
・貧しいものは他者との関係が切断することはない。他者から助けてもらわないと生きていけないからだ。たくさん持っていないから、少しの恵みにも感謝する。そして分かち与える喜び、恵みをいただく感謝を知るから他者にも与える。手元に五つのパンと二匹の魚しかない時も、みんなで分かち合えば5千人が食べることが出来たと聖書は報告する(マタイ14:19)。敗戦直後の昭和20年代、日本は貧しかった。しかし今よりも生き生きとした時代であったと言う人が多い。お互いに助け合って暮らしたからだ。貧しいものは富むものよりも幸いなのだ。
・またイエスは言われる「悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるだろう」(マタイ5:4)。子供を突然の事故で無くして悲しんでいる親がいる。彼らは慰めの言葉さえ拒否するかも知れない。しかしその悲しみを通じてやがて、子供を無くして悲しんでいるのは自分たちだけでなく、実に大勢の人たちが悲しみ、慰めを求めている事実が見えてくる。そして、その人たちのために何かをし始めた時、自分たちの悲しみもいやされてくることを知る。自分の為だけではなく他者のためにも求め始める時、神の声が聞こえてくる。神は静かな細い声で慰めの言葉を私たちに語られる。人間は成功したり富を得たり喜んでいる時にはこの静かな細い声が聞こえない。悲しみに打ちのめされて、初めて静かな声が聞こえてくる。
・このような声を聞いた一人が中田武仁さんだ。彼の息子厚仁さんは1993年、25歳の時に国連ボランテイアとしてカンボジアに行き、任務中に殉職した。お父さんの武仁さんは商社に勤めていたが、息子の死後会社を辞め、息子のために寄せられた義捐金を基に中田厚仁記念基金を作り国際ボランテイアを支援する活動を始めた。彼の活動記録が「息子への手紙」(朝日新聞社)として出版されているが、その終わりに中田武仁さんは次のように書いている「私が今やっている仕事は、厚仁が生涯をかけてやりたかった仕事だったに違いないと思う。そう思えば不思議に力が湧いてくる」。彼は悲しみによって慰めを受けた人の一人だ。悲しむものは現実に慰められるのだ。

3.私たちにとってこの言葉は何なのか。

・人間の幸せとは何なのだろうか。有名な詩がある「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。ああ、われ人ととめ行きて、涙さしぐみ返り来ぬ」。この詩が歌うのは幸福とは空しいものだということである。人はいつも満たされない、何が与えられても不満が残る。そのうちに年をとり、体が衰え、全てに疲れを覚えるようになった時「ああ、あの時が幸福だったのか」と振り返る。しかし、振り返った時にはそれは既に過去の出来事であり、懐かしむだけのこと。幸福とはこんなにもはかないものか、多分そういう意味の詩であろう。
・しかしイエスは人間の幸福とはそんなものではないとここで言われている。現在がどういう情況であれ、それを神から与えられた祝福として受け取る時、人は満たされると言われる。「心の貧しいもの」はこの世に究極の救いがないことを知るから栄誉や成功を求めない。「悲しむもの」は自分が泣いたことがあるから、泣く人と共に泣くことが出来る。「柔和なもの」は自らの力に頼らないから、そこには他者に対する憎しみや報復も生れない。「義に餓えかわくもの」は神の支配を待ち望み、その日は来ると信じる故に現在の不正に負けない。イエスが言われたことには二つの特徴があると思う。一つは思いが自分ではなく他者に向かう。もう一つは思いが現在ではなく、将来に向かう。
・それに対して、人間の求める幸福は思いが自己に、そして現在に集中する。世の人々が求める幸福は、富であり健康であり成功であり栄誉であろう。それらは全て自己の為のものだ。私の富、私の健康、私の成功、私の栄誉だ。そして、誰もが欲しがるから、そこに競争が起こり、競争があれば勝者と共に敗者が生れる。一人が富を得るということは、他の多くは富を得られないと言うことだ。健康が幸福の指標になるとき、健康でないもの、病気や障害をもっている人は不幸にならざるを得ない。また成功とは人より秀でていることを指し、成功者の裏には失敗者がいる。栄誉も勝者にのみ与えられる。突き詰めてみれば、この世の幸福は全て他者の犠牲の上に成り立っている。その時、幸福は広がりを持たず、時間と共に終る。
・この世の幸福は時間的有限性を持つ。現在は健康であっても、その健康はやがて崩れる。また、勝者は何時かは敗者になるが、この世では敗者になれば幸福ではなくなる。現在の幸福のみを求める時、その幸福が何時崩されるのか、常に不安と隣り合わせである。従ってそこには平安がない。この世の求める幸福は広がりを持たず、また平安をもたらさないという限界を持つ。このような刹那的なものが幸福なのだろうか。私たちはイエスの言われる幸福、「貧しいもの、悲しむもの、餓え渇くものこそ幸いである」という言葉は非現実的だと思ってきたが、この世の幸福、富や健康や成功や栄誉がこのようにはかないものであるとしたら、イエスの言われる幸福こそ現実的なのではないかと思える。
・今日の招詞にヨハネ黙示録21:1-4を選んだ。
「私はまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」。
・聖書が描く神の国である。聖書は創世記の失楽園、エデンの園からの追放で始まり、黙示録の新しい天と地の創造、エデンの園への回帰で終る。そこにおいては神が共に住み、人は神の子として愛され、人の目からは涙も拭い去られる。そこにはもはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない。これが、私たちがやがて行く神の国だ。そして聖書は「神の国は既に来た。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)と語る。もし私たちが、私たちの本籍は天にあり、この世は住民登録している地に過ぎないと本気で信じ、共に神の国の実現を求める時、私たちは神の国の出先をこの地上に形成することが出来る。それが教会の本来のあり方だと思う。
・先に触れた中田武仁さんは、カンボジアに息子の死を記念する慰霊碑を建て、そこに「世界市民、ここに眠る」と書いた。私たちも墓碑に「天国の市民として生きたもの、ここに眠る」と書いてもらいたい。山上の説教はそういう願いを私たちに起こさせる。

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