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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年5月18日特別伝道集会説教(マタイ20:1−16、働く者は報われる)

投稿日:2002年5月18日 更新日:

1.多く働いたものと少なく働いたもの。

・イエスはよくたとえを用いられた。たとえを用いて天の国、即ち神の支配とは何かを説明される。マタイ20章もそのようなたとえの一つだ。ぶどう園の主人が収穫のために労働者を雇いに市場へ行く。パレスチナでは仕事は夜明けに始まり、日没で終る。当時は12時間労働が標準だった。主人は夜明けに市場に行き、労働者を1日1デナリで雇う。しかし、収穫期の今、仕事は忙しく、労働者が足らない。彼は9時に再び市場に行き、新たな労働者を雇った。この時には、1デナリの約束はしていない。「相応しい賃金を支払おう」と約束するのみだ(4節)。当時の賃金は1日1デナリが相場だった。9時に雇われた労働者たちは1デナリを期待していない。彼等は12時間の標準を働かないからだ。
・それでも労働者が足りない。主人は12時にも、また3時にも、最期には5時にも新しい労働者を雇う。こうして1日が終わり、支払いの時が来た。最期に雇われた者は12分の1デナリを予期している。彼等は1時間しか働いていないからだ。しかし、主人は彼等に1デナリを払った。彼等の間に驚きが広がり、やがてそれは感謝に代わる。「これで家族も一緒にパンが食べられる」。1デナリは家族の一日分の食費に相当する。当時、多くの人がその日暮らしの生活を余儀なくされていた。一時間しか働かなかった彼等にも家族に食べさせることの出来る賃金が払われた。
・1時間労働者に1デナリが払われたことで、12時間働いた者はもっともらえると期待した。人間の目から見れば当然だ。しかし、彼等に支払われたのも1デナリだった。期待が膨らんだ分、それが不平に変る。
―マタイ20:10-12「最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
・彼等は一日1デナリの約束で雇われた。だから1時間労働者の賃金が少なければ彼等も1デナリで満足したであろう。しかし、一時間労働者の賃金は自分たちと同じだった。承服できない。私たちも彼等の不平は当たり前だと思う。多く汗を流した者が多くもらうのは当たり前ではないか。報酬は業績に比例する。それなのに、ぶどう園の主人は何故、このような非常識な支払いを行ったか。


2.主人は何故、このような扱いをしたのか。

・1時間しか働かなかった人たちは怠けていたのか。聖書は1時間しか働かなかった人たちは一日中立って待っていたと記す。朝の6時から広場に立って待っているのに誰も雇ってくれない。彼等は年をとりすぎていたのか、あるいは頑丈な体つきではなかったのかもしれない。多くの労働者がいればそこでは選別が為される。失望とあせりが彼等を苦しめている。今日働かなければ家族は食べることが出来ない。そこにぶどう園の主人が現れて5時に雇ってくれた。更に驚くべきことに一日分の賃金である1デナリを払ってくれた。ぶどう園の主人は、5時に雇われた人も最初から働いた人と同様に、働く権利とその働きによって家族と共に生きる権利があることを認めてくれた。最期に来た労働者たちは主人の慈しみに感謝した。


3.12時間労働者の罪

・この主人の慈しみが人間をつまずかせる。主人は最初から働いた労働者達に言う。15節「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」。
・妬むと訳された言葉は原語では「悪い目」と表現されている(英語版ではis your eye evil because I am good?'と訳されている)。現実を石のように硬くしてしまう視線、自分の財産や権利を守るために私たちが自分の周りに張り巡らしてしまう視線である。このような視線で見るならば、たとえ他の人にとって正義であっても、それが私たちの既得権を侵すならば不正義になる目である。最初の労働者はこの世的な公平を求め、1時間労働者の賃金が12分の1デナリであれば満足した。その結果、1時間労働者の家族がパンを買うことが出来なくともそれは彼等の関知するところではない。この悪い目、自分の満足のためであれば他人のことを考慮しない悪い目はいたるところにある。私たちはごみの処理場は必要であると思うが、それが自分の家の近所に立てられれば反対する。英語でいうーNot in my backyardである。
・この世は働けないものの悲しさや苦しさは考慮しない。それは生産性に何の寄与もしていないからだ。この世の価値観は能力主義あるいは業績主義だ。私たちの社会は労働能力の劣ったものを「役立たず」として捨てる。しかし、私たちがある人々を「役立たず」として捨てる時、実は私たち自身を捨てている。何故なら、私たちもいつ、無能力者になるかわからない存在なのだ。私たちが病気になるかもしれない。勤め先が倒産し、収入がなくなくなるかも知れない。また、年をとれば誰でも身体的・精神的能力は衰える。他人に起こった不幸は自分にも起こる。能力主義の社会では私たちは何時敗者になるかわからない。勝ち組も遅かれ早かれ負け組になるのだ。そのため、怯えて暮らし、そこには平安がない。
・聖書は主張する、神にとって役立たずの人はいない。それぞれが役割をもって委託された人生を生きる。聖書の立場は存在主義だ。存在することに意味がある。聖書は働くことが出来ない人が、家族のパンを買うことは出来ず、空腹のままで夜を過ごす事は正義ではないと言う。父なる神はそのようなものをも養われると言う。聖書の論理は人間社会の論理とは異なる。働けない者も食べて良い国である。むしろ働けないことによって、悲しさ、苦しさを経験した者はより以上に報われるという論理に立つ。「後の者が先になる」そういう世界だ。


4.教会への招き

・自分が12時間も働いたと考えるものは1デナリの報酬に不平がでる。自分が1時間しか働いていないと考えるものは1デナリに感謝する。同じ1デナリが感謝にもなり、不平にもなる。教会は自分がそれに価しないにもかかわらず、招かれていることを感謝するものの集まりだ。無論、教会の中に罪があることを聖書は隠さない。
・私たちはこの物語が教会に対しても語られていることを知っている。もし私たちが後から教会に加わる人たちを喜んで迎えなければ、私たちもまた最後の者にされることを知っている。一日中労苦と暑さの中で働いた最初の者達が、その不平の故に最後の者になったことを知っている。だから教会の交わりが成立する。自分の中に「悪い目」があることを知るから人を裁かない。だから「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)というイエスの招きが為されるところなのだ。
・全ての人が招かれている。理想を掲げて破綻した人生も神の恵みの中にある。失敗しやり直したいと思う人生も神は肯定される。救いとは死んで天国に行くことのみではない。救いとは誰もわかってくれない苦しみや悲しみも神は知っておられることを確信することによる心の平和だ。満たされない現在が神の肯定によって満たされることだ。恵みに感謝して生きる者達が集められ、讃美するところが教会だ。だから教会に来なさい。ここには本当の休息があるから。神の国こそ、誰にも知られることの無かったあなたの無念さ、あなたの涙が報われる場所だ。働くものは報われる、何を為したかではなく、何を為そうとしたかで評価される世界がここにある。

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