江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年12月1日説教(ルカ21:25-36、終末を生きる)

投稿日:2002年12月1日 更新日:

1.アドベントの時

・今日の説教題は「終末を生きる」である。今日から、教会ではアドベント、待降節の時を迎える。キリストの降誕を待ち望むのがアドベントであるのに、何故、今日の説教は「終末を生きる」なのか。終末とクリスマスがどう関係するのか、疑問を持たれる方もあるかもしれない。
・キリストは2000年前にユダヤのベツレヘムに来られた。私たちはこの出来事をクリスマスとして記念し、その降誕を待つ。それがアドベントだ。同時にこのアドベント(ラテン語=来る)は「私はまた来る」と言われたキリストの再臨を待つという意味もある。従って、クリスマスを待つとは、同時にキリストの再臨を待つということでもある。そして、聖書では終わりの時にキリストが再び来られ、神の国が実現すると記す。だからアドベントの時に、教会は終末のことを考える。
・私たちはキリストがかって来られたことは良く知っている。そのキリストが十字架で死なれた意味もよく知っている。キリストがその死の中からから復活されたことも私たちは信じる。しかし、キリストがまた来られる、再臨されるという聖書の言葉は良く知らないし、それが私たちにとってどういう意味を持つのかも知っている人は少ないだろう。今日は、クリスマスを前に、アドベントのもう一つの意味であるキリストの再臨について、ルカ福音書21章から学びたい。


2.終末の時

・ルカ21章は終末の到来を預言したものとして知られている。終末を世の終わり、世の滅亡の時としてこの聖書個所を読む人たちがいる。カルトと呼ばれるエホバの証人や統一教会の人たちがそうだし、またオウム真理教もそうだ。彼らは世の終わりを滅亡の日、恐怖の日と理解する。だから何時それが来るのかを問題にする。エホバの証人は紀元1975年に破局が来ると考えていた。彼らの理解では天地創造は紀元前4026年であり、それから6000年目の1975年が終わりの時だと考えた。しかし、何も起こらなかった。ノストラダムスは十六世紀の人であるが、彼は1997年7月が世界の破局の時だと預言した。それをオウム真理教の教祖麻原彰晃は信じ、ハルマゲドン(ギリシャ語Harmagedon、最期の時に悪の勢力が神と対決する為に集結するという預言がヨハネ黙示録16:16にある)が来るから、その前に世と戦うとして地下鉄サリン事件等を引き起こした(1995年)。
・しかし、聖書が明らかにするのは、終末は滅びの時ではなく、救いの時、解放の時であるということだ。ルカ21章7節から終末のしるしが述べてあるが、確かに戦争があり、疫病や飢饉があり、天変地異が起こるとあるから、人々が終末を滅びの時と誤解する要素はある。しかし、聖書が教えるのは、終末とはキリストが再臨され、神の国が完成する時であり、救いの時、待ち望む時なのである(ルカ21:27-28)。
「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。
・その時がいつかについて聖書は一言も触れない。それは父なる神がお決めになる時であり、人間は知ることを許されないとイエスは言われている(マタイ24:36)。
「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」。人が知らされるのはその日が来る、だからその日に備えて目を覚ましていなさいということだけだ(ルカ21:36)。
・何時終わりが来るのか私たちは知らないが、終わりは来るという思想は聖書に一貫している。聖書は創世記から始まり、ヨハネ黙示録で終る。創世記は天地創造に始まり、黙示録は神の国の到来で終る。その終わりの時とは世の完成する時であるとヨハネ黙示録は言う。今日の招詞ヨハネ黙示録21:3-4がその個所だ。
「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」。
・聖書の記す終末とは、神が人と共にあり、人の目から涙が拭い去られ、死も悲しみも叫びもない世界だ。この苦しい現在の生を終えた時、すばらしい世界が待つ。だから御国の完成を待ち望みなさいと言われている。
・この終末、世の終わりの出来事は正に私たちの出来事だ。聖書に依れば、人は死によって眠りにつき、世の終わりの時にラッパの音により眠りから覚めるとある(1コリント15:52)。従って個々人にとっては世の終わりとはそれぞれの死と同じである。人間は誕生して、やがて死ぬ。しかし、その日がいつかは知らない。いつかは知らないが必ず死ぬから、その死を見つめて生きる。もし、私たちが癌に冒され1年後に死ぬことが解っていれば私たちの生き方はそれまでと変るだろう。もはや大きな家や立派な車は要らない、やがて使えなくなるからだ。会社で出世しようがしまいが問題でなくなる、その時にはいないからだ。暇つぶし的な時間の過ごし方はしない、残された時間は少ないからだ。私たちがやがて死ぬことを自覚した時、私たちの生き方は変って来る。本当に大事なものだけを求めるようになる。
・世の終わりもそうだ。世の終わりが来ることを知っている者は、この世の状態が何時までも続かない事を知っている。この世が終るのであれば不正をしてまで、あるいは人を押しのけてまで、お金や権力を得たいとは思わないだろう。この世が大事にするもの、お金や地位や権力が本当はそんなに大切なものでないことが解る。その時、本当に大事なものは何かを求め、その日に備えて自覚的に生きようとする。それがルカ21:36がいう「目を覚ましている」生き方だ。もはや、放縦や泥酔や世のわずらい(ルカ21:34)で心を乱すことはしない。しかし、それはこの世を捨てることではない。マルテイン・ルターが言うように「例え明日が世界の終わりであっても、私は今日リンゴの木を植える」という生き方だ。為すべきことをして終末を待つ。私たちが終末を、キリストの再臨を待ち望むということは私たちの生き方を変える出来事なのだ。


3.救いの約束

・聖書は、終末は既に始まったが完成されていないと説く。人間は誕生し、死んでいく存在だ。突き詰めれば、人は誕生と同時に死を生き始める。しかし、死は実際の死が起こって始めて完成する。同じように、終末も既に始まっている。キリストの復活とは、終末に起こる死人の復活の初穂(1コリント15:20)だ。終末の出来事が既にここに起こっている。キリストの復活によって終末は既に始まり、キリストの再臨によってそれは完成する。私たちはキリストの復活と再臨との間の中間の時、終わりの始まりの時にいると聖書は言う。その終わりの時を生きる私たちは、既に罪が赦され、永遠の命が約束されている。しかし、その約束はまだ成就していない。だから、罪を赦されたものとして、それに相応しく生きる。その時、聖化(清められていく)という問題が重要になって来る。だから、私たちは教会に来て神と出会い、その言葉を聞いていく。教会とは既に生起した神の国の前線基地だからだ。
・しかし、教会もまだ完成されていない。私たちが罪を赦された罪びとであるのであれば、地上の教会は罪人の集合体だ。従って教会は過ちを犯すし、人を傷つける。多くの人が教会の牧師や信徒を見て「あの人たちは本当にクリスチャンなのだろうか、ここが神の国なのだろうか」と躓いて教会を去る。教会に長くいる人でも、教会の中に罪があり、悪があることを許せないと考える人は多い。しかし、それは聖書の終末論を知らないからだ。教会もまた罪人の集まりであり、完成を目指している存在であるから、今現在の教会の中には罪があり、私たちの中に毒麦がある。教会は自分の中に毒麦があることを知るから他者を裁かない。そして、教会の頭であるキリストを仰ぐ。キリストは悪をも善に変える力をお持ちの方であるから、そのキリストの力に依り、教会の悪と罪も清められていく。
・また、私たちはこの世で悪を為しながら栄える人がいることを知っている。また、誠実に生きながら報われない人生をおくる人がいることも知っている。それで良いのである。矛盾に満ちた現実は必ず終る。キリストが来られ、十字架につけられ、その死から甦られたことは、この世がやがて終ることのしるしである。そのしるしを見つめよと聖書は言う。ルカ21:29からの無花果の例えがそうだ。木枯らしが吹く寒い冬の最中には、やがて春が来て無花果の実がなり、夏が来てそれが熟して美味しい実となることを信じることは出来ない。しかし、無花果の木は冬の間に芽を出す準備をし、春になれば実をつけ、夏になれば豊かに成熟するのだ。
・無花果さえ季節になれば実をつけ、熟していくのに、神の言葉が成就しないことがあろうかとイエスは言われる「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。」(ルカ21:33)。終末を生きるとはこの約束を覚えて生きることだ。世の人々は、この状態が何時までも続くと思い込んでいる。だから、この世から取れるものは何でも取ろうと貪欲に生きる。しかし、キリスト者は自分の生が終るように、この世も終ることを知っているから、世と世の出来事に執着しない。家よりも車よりもお金よりも大切なものがあることを知っているから、天に宝を積む。天に宝を積むとはこの世では損をすることだ、返すあてのない人にお金を貸し、感謝を受けることなしに人に尽くすことだ。世界では多くの人が食べるものに事欠き、戦争の中で死んでいる現実があることを知りながら、自分一人は大きな家で快適に暮らし、贅沢な食べ物を食べ、立派な車に乗っている人は眠っている人だ。目を覚ましていなさい。人がこの世でも良い生活をし、死んでからも天国に行きたいと願うのは虫が良すぎると聖書は言う。
・最期にヤコブ書5章7-94節を読んで終ろう。
「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。」
主は既に戸口に立っておられる。その主に対し「主よ、来たりませ(マラナ・タ)」(ヨハネ黙示録22:17)と祈る時がアドベントの時である。

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