江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年5月3日「わたしの子テモテ」(1テモテ1:12~20)

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【招詞】 「この王、すなわち朽ちることも、見えもしない唯一の神に、
世々限りなく誉れと栄光がありますように。アーメン。」(1テモテ1:17)

第一部 ――召し出された者として生きる

「わたしの子テモテよ。」――パウロのこの呼びかけは、時を越えて、私たち一人ひとりの心にも響いてくるようです。血のつながりではなく、信仰による親子の言葉。パウロはテモテを信仰の子として愛し、励まし、教え導いてきました。その背景には、単なる師弟関係を超えた、深い霊的な絆があります。信仰の世界では、年齢も血縁も超えて、人が人を「子」と呼ぶことがあります。それは、神の家族として結ばれた愛のことばなのです。
パウロがこの手紙を書いたとき、彼はすでに晩年を迎えていました。多くの迫害を受け、牢獄に囚われながらも、彼の心は決して閉ざされていません。むしろ、彼は「次の世代に信仰を託す」使命に燃えていました。だからこそ、彼は若い伝道者テモテに向かって、このように語りかけます。

「わたしを強くしてくださるキリスト・イエスに感謝します。
わたしを忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。」(1テモテ1:12)

ここに、パウロの原点があります。彼はかつて教会を迫害し、クリスチャンたちを牢に閉じ込める側の人間でした。自分が正しいと思い込み、神に仕えているつもりで、実は神の働きを妨げていた。そのような者が、キリストによって捕えられ、恵みによって新しい使命を受け取った――これがパウロの生涯の物語です。
私たちもまた、似たような歩みをしてはいないでしょうか。自分の正しさを握りしめ、誰かを裁いたり、排除したりしてしまうことがあります。しかし神は、そんな私たちをも見捨てず、なおも招かれます。「あなたを強くする」と。弱さの中にこそ、キリストの力は働くのです。

パウロは続けます。
「わたしはかつて、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信仰を持たず、知らないで行動したために、あわれみを受けたのです。」(1:13)

――あわれみを受けた。
この一言に、彼の人生が凝縮されています。彼が“変わった”のは、自分の努力でも、悔い改めの力でもありません。あわれみが先に働いたのです。神のあわれみは、私たちの過去よりも深く、罪よりも強く、失敗よりも広い。だからこそ、彼は胸を張って言えるのです。「恵みが溢れました」と。
「わたしの子テモテよ」――この言葉を聞くたび、私は思います。信仰とは、孤独な戦いではなく、継承されていくものなのだと。私たちはみな、誰かから信仰を受け継いできました。祈ってくれた人、導いてくれた人、叱ってくれた人。その一人ひとりの背後に、神の恵みの流れがあります。だから、あなたの信仰もまた、誰かの未来を照らす灯りになるのです。

テモテは若くして教会を任され、多くの困難に直面していました。異端の教えが入り込み、人々の間には争いが起き、信仰が揺らいでいた。そんな中で、パウロの手紙は、ただの助言ではなく、“心の支え”だったのです。

「あなたは一人ではない。わたしが祈っている。主が共におられる。」
――そうパウロは伝えたかったのでしょう。

そして今、同じ声が私たちにも届いています。
「わたしの子よ、恐れるな。あなたは選ばれている。」
神は私たちを、誰かの代わりにではなく、“あなた自身”として召しておられるのです。過去の失敗を赦し、弱さの中に力を注ぎ、あなたの名を呼んでくださる。その声を聞いた者は、もう以前の自分には戻れません。
なぜなら、キリストの恵みが“あふれた”からです。

第二部 ――あわれみから始まる新しい生

パウロが自らを「神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者」と呼んでいることに、私たちは驚かされます。なぜなら、彼ほど律法に忠実で、宗教的に真面目な人物はいなかったからです。
それでも彼は、自分の信仰が「知らないで行った」ものだと告白する。つまり、信仰熱心であっても、愛がなければ人を傷つけ、神の心から遠ざかることがある――そのことを彼は身をもって知ったのです。

「信仰」とは、単に正しいことを信じることではありません。
むしろ、神のあわれみによって“変えられること”を受け入れることです。
パウロが倒れ、盲目になったダマスコ途上の出来事。それは、彼の“信念”が打ち砕かれた瞬間でした。
しかし同時に、神の恵みが流れ込み始めた瞬間でもありました。
人は、自分の正しさが壊れたとき、初めて神の正しさに触れることができるのです。

このようにパウロは、自分の過去を隠そうとしません。むしろそれを「恵みの証」として語るのです。
彼は言います。

「わたしたちの主の恵みは、キリスト・イエスによる信仰と愛と共にあふれるほど与えられました。」(1:14)

恵みは、罪の大きさをも包み込みます。
パウロがどれほどの過ちを犯しても、それを上回る恵みがキリストから注がれた。
それは彼だけの話ではありません。
私たち一人ひとりも、同じ恵みの中に生かされているのです。
私たちは、ときに「もう遅い」「自分には資格がない」と感じます。
しかし神の恵みには“手遅れ”という言葉がありません。
パウロがそうであったように、神は“今”のあなたを召し出し、新しい歩みを始めさせてくださるのです。

パウロはさらに、信仰の核心をこう語ります。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた、という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしはその罪人のかしらです。」(1:15)

ここには、パウロの謙遜と確信が共にあります。
彼は“自分が最も罪深い者だ”と認めながらも、同時に“最も深く赦された者だ”という誇りをもっています。
それが、信仰のパラドックスです。
自分の弱さを認める人ほど、キリストの強さに支えられる。
自分の罪を知る人ほど、恵みの甘美さを味わうことができる。
神の赦しは、罪なき人にではなく、罪を自覚する人に注がれるのです。

パウロの語る「恵み」と「赦し」は、理論ではありません。
それは生き方であり、心の姿勢です。
自分を誇ることをやめ、ただ神のあわれみに感謝して生きること。
そうして生きる人の顔には、静かな光が宿ります。
それは、痛みを知る者だけが放つ、柔らかい光です。
この手紙を読むたびに、私は思うのです。
パウロが語る「わたしの子テモテよ」という言葉の中には、“罪から恵みへと歩んだ者”の、深い優しさがあると。
だからこそ、彼の信仰は説教ではなく、人生そのものとなって響くのです。

テモテもまた、信仰者として迷い、恐れ、孤独を感じていたでしょう。
けれどパウロは、そんなテモテに「恵みを覚えよ」と伝えています。
「あなたが今立っている場所は、あわれみの地だ」と。
――それを忘れない限り、あなたは倒れない、と。

神の恵みは、いつも“人を立たせる”方向に働きます。
それは過去を無かったことにする力ではなく、過去を赦し、新しい使命へと導く力です。
もし今日、あなたが心のどこかで立ちすくんでいるなら――
このパウロの言葉を、もう一度思い出してください。

「わたしを強くしてくださるキリスト・イエスに感謝します。」

その言葉は、あなたの口にも、今、置かれています。
神は、あなたをもまた強くしてくださるのです。

第三部 ――信仰の戦いを生き抜く

「わたしの子テモテよ。」
パウロの筆致は、父が子に語りかけるように柔らかく、しかしどこか切実でもあります。
それは、若い働き人が直面する苦悩を知っているからです。
人の言葉に傷つき、教会の中で意見が割れ、何が正しいのかわからなくなる――そのような混乱の中にあるテモテに、パウロはただ一つの道を指し示します。

「この命令によって、あなたが信仰に基づく立派な戦いを戦うようにと、わたしはあなたに勧めます。」(1テモテ1:18)

パウロはここで、「信仰の戦い」という表現を用います。
信仰は、穏やかな祈りの時間だけではありません。
ときに闘いであり、葛藤であり、自分の弱さとの格闘でもあります。
けれどもそれは、誰かを倒すための戦いではありません。
自分の中にある恐れ、不信、傲慢――そうしたものと向き合い、主の恵みの側に立ち続けようとする戦いです。

信仰の道は、最初から整えられた一本道ではありません。
迷い、転び、立ち上がりながら歩く道です。
だからこそパウロは、テモテにこう勧めるのです。
「あなたが預言によって与えられた信仰を思い起こせ」と。
神の召し出しの言葉を忘れないこと――それが戦いの力になるのです。

わたしたちもまた、人生の中で信仰の戦いを経験します。
信仰を持つ者であっても、疑いの波は押し寄せてくる。
「なぜ自分が」「どうして祈りが聞かれないのか」――そんな問いに苦しむ夜がある。
けれど、信仰とは“疑わないこと”ではなく、“疑いの中でも祈り続けること”です。
沈黙の中でなお、神の御手を信じて立つ

パウロは続けてこう書きます。

「信仰と正しい良心を保ちなさい。
ある人々はこれを捨てたために、信仰の破船に会いました。」(1:19)

信仰は、心の“船”のようなものです。
もしもその船が、自分の良心――つまり神の前で正直に生きる心――を失えば、どんなに知識があっても方向を見失います。
波が荒れても、風が逆でも、良心という舵を保つこと。
それが信仰の旅を続ける秘訣なのです。

教会に仕えるテモテにとって、それは容易なことではなかったでしょう。
人の言葉に翻弄され、時に誤解され、孤独の中で祈り続ける――それが彼の日常でした。
けれどパウロは、そんな彼に“光の方向”を示します。

「信仰に基づく立派な戦いを戦いなさい。」

――信仰とは、勝つことではなく、立ち続けること。
パウロはそう伝えているのです。

ここで、今日の招詞をともに思い起こしましょう。

【招詞】
「この王、すなわち朽ちることも、見えもしない唯一の神に、
世々限りなく誉れと栄光がありますように。アーメン。」(1テモテ1:17)

この言葉は、信仰の戦いのただ中にあって、パウロが見上げた“勝利の光”です。
戦いの目的は、敵を打ち倒すことではなく、神に栄光を帰すこと。
信仰者の人生とは、最終的にこの一句へと導かれていくのです。

「誉れと栄光がありますように」――それは、勝者の叫びではなく、赦された者の祈りです。
倒れても、再び立ち上がる人の口からこぼれる感謝の言葉。
それが信仰の真の姿なのです。

パウロの言葉を受け取るテモテは、決して強い人間ではありませんでした。
彼は病弱で、気弱な性格であったと言われます。
しかし神は、彼の“弱さ”の中にこそ働かれました。
私たちもまた、完全ではありません。
しかし、信仰の戦いを続ける限り、神は私たちの中で働き続けてくださいます。

あなたの中の信仰は、もしかすると小さな火のように見えるかもしれません。
けれど、それが消えずに燃え続けているなら――それこそが奇跡です。
神の恵みが、その小さな灯を守っておられるのです。

第四部 ――託された信仰を守り抜く

「わたしの子テモテよ、あなたに委ねられたものを守りなさい。」(1テモテ1:18)

パウロの言葉は、まるで最期の遺言のように響きます。
それは単なる“忠告”ではなく、“託し”――命をかけて伝えたい想いでした。
パウロは、自らの働きが終わりに近づいていることを感じていました。
しかし、神の働きは終わりません。
だからこそ彼は、その信仰の火を次の世代に手渡そうとしているのです。

私たちは、信仰を「持つもの」だと思いがちですが、実は「託されたもの」でもあります。
それは自分の力で作り出したものではなく、先人たちの祈りと涙によって受け継がれてきた宝です。
この“信仰の系譜”を思うとき、私たちは自分一人で信じているのではないことに気づかされます。
祖父母の祈り、両親の涙、教会の友の励まし――それらが積み重なって、今の私たちの信仰があるのです。

パウロが「守りなさい」と語るとき、それは単に“壊さずに保存する”という意味ではありません。
むしろ“生かし続ける”という意味です。
信仰は、閉じ込めて守るものではなく、差し出してこそ守られる。
愛と同じように、分かち合うことによって息づき、輝きを増していくのです。

テモテに託されたのは、“教え”だけではありません。
それは、苦しみの中でも神を信じ抜く“姿”でした。
パウロの背中そのものが、信仰の証だったのです。
牢獄にあっても、彼は感謝をやめず、迫害の中でも賛美を失わなかった。
――なぜなら、彼の希望はこの世ではなく、永遠の神にあったからです。

パウロは書きます。

「この信仰を捨てたために、ヒメナイオとアレクサンドロは破船に会いました。」(1:20)

彼らは教えの真理から離れ、自分の思い込みに従ってしまったのです。
信仰の船が座礁するとき、それは嵐のせいではなく、舵を失ったからです。
波が高くても、舵を手放さなければ船は進む。
しかし、信仰の方向を見失うと、人は容易に沈みます。

だからこそパウロは、テモテに“信仰の舵”をしっかり握り続けるように勧めます。
神の真理から目を離さないこと。
それがどんなに地味であっても、最も尊い務めです。
教会を導くことも、説教を語ることも、祈ることも――その根には「信仰を守る」という一点があります。

この「守る」という言葉は、ギリシア語で“警備する・見張る”という意味を持ちます。
つまり、信仰とは“見張りの務め”でもあるのです。
夜の見張りが、眠らずに火を絶やさぬように。
私たちもまた、心の灯を守り続ける者として召されています。
誰も見ていない夜に祈ること。
人に知られずに赦すこと。
小さな善を積み重ねること。
――それらすべてが、「信仰を守る」ことなのです。

パウロは最後に、テモテの将来を託すように筆を置きます。

彼はもう、現場で教会を支えることはできません。
しかし、彼の祈りは続いている。
そしてその祈りは、テモテを通して次の世代へと受け継がれていく。

信仰とは、まさに“リレー”です。
バトンを受け取り、次へ渡す。
その連なりの中に、私たちも生きています。
信仰の灯は、時に小さく、時に風に揺れながらも、決して絶えません。
なぜなら、それを燃やしているのは、私たちの努力ではなく、神ご自身の息だからです。

――わたしの子テモテよ。
この呼びかけを、いま、あなた自身への言葉として聞いてください。
「あなたに託された信仰を守りなさい。」
それは牧師だけに向けられた言葉ではありません。
親が子に、友が友に、教師が弟子に――すべての信仰者に向けられた呼びかけです。

倒れることがあってもかまいません。
疑う日があってもかまいません。
それでも、主の恵みを見失わずに立ち続けるなら、あなたはすでに“信仰の戦い”を戦っているのです。

信仰の道は孤独に見えて、決して一人ではありません。
あなたの傍らには、同じ道を歩む多くの“神の子”たちがいます。
そして何より、あなたを呼びかけ続ける御声があります――

「わたしの子よ。恵みの中に立ちなさい。」

その声に応えるように、今日も静かに祈りましょう。
神があなたを強くし、信仰の灯を守ってくださることを信じて。

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