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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年3月15日マルコ14章12~26 節 「最後の食事」

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【招詞】「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」(マルコ14:26)

【第一部】備えられた場所――過越の食卓へ向かう歩み

今朝、私たちは心を静めて、ある一つの食卓に目を向けたいと思います。それはただの夕食ではありません。それは、神のご計画の中で永遠の意味を持つ「最後の晩餐」――主イエスが弟子たちと共に過ごされた特別な夜です。

私たちが読むマルコによる福音書の14章12節から26節には、主が十字架の死へと進まれるその直前、静かなる備えと、深く豊かな神のご支配が描かれています。そしてこの箇所は、今日の私たちにも問いかけます。あなたは、主と交わるための場所を――心の部屋を――整えているか、と。

聖書はこう始めています。

「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日…」(14:12)

ユダヤの民にとって、この日は忘れがたい記憶の日でした。かつてエジプトで、奴隷のくびきに苦しんでいた彼らの祖先が、主の御手によって解放された――その夜が過越の夜でした。小羊の血が鴨居と門柱に塗られ、災いが過ぎ越した――そこに救いの徴がありました。

その記念日、弟子たちはイエスにこう尋ねます。

「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか。」

皆さん、これはただの段取りの話ではありません。これは、イエスと共にいるための「準備」の問いです。これは、「私たちは、主を迎えるために心の中を整えているか?」という、私たち自身に突き刺さる問いなのです。

イエスは二人の弟子を選び、こう語られました。

「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい…」

なんということでしょう! 主は、私たちが思いもよらぬところで、備えの導きを示してくださるのです。水がめを運ぶ男――名前も出てこない、見過ごしてしまいそうな日常の一場面。それが、神の大いなるドラマの中で、食卓の場所へと続く「しるし」になっているのです。

弟子たちは都に入り、イエスが語られたとおりに男と出会い、その後を追って行きました。するとどうでしょう。主の言葉どおり、席が整えられ、用意のできた二階の広間が彼らの前に広がっていたのです。これは偶然でしょうか? いいえ、これは神の主権が働いていたのです。

ここで私たちは立ち止まって考えたい。今日のあなたの「都」はどこでしょう? あなたの「水がめを運ぶ男」は、どこにいますか? 日常の中に現れる、神の語りかけのしるしに気づいていますか?

主は、あなたにも言っておられます。「備えよ」と。「わたしと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」と問われているのです。

あなたの心には、主のために整えられた「部屋」がありますか? 主が入り、共に食事をし、語り合い、交わりを持つにふさわしい、静けさと誠実さに満ちた部屋がありますか?

仕事に追われ、生活に疲れ、私たちの多くは「心の部屋」が物であふれかえり、主が座る場所すら残っていないかもしれません。しかし、兄弟姉妹の皆さん、今日こそが、その部屋を整え直す日なのです。

神の計画は、すべてを知り尽くしておられるお方の手によって、細部に至るまで導かれます。私たちは、ただ御言葉に聞き、信じて従う者でありさえすればよいのです。

弟子たちが都に入り、言われたとおりに行動したとき、何が起こったでしょうか? そこにはすでに、主がすべてを整えておられた部屋が待っていたのです。

「弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。」(14:16)

この一節の中に、信仰の真髄があります。「出かけて行ってみると――言われたとおりだった」。それが、信じる者の歩みです。神の言葉は真実です。主が言われたことは、すべてなる通りに実現します。あなたが従って歩み出すとき、主はすでにそこに備えを整えておられるのです。

私たちは、思いがけない試練の只中にあっても、人生の迷い道の中でも、主の「備え」がすでにあることを信じる者でありたいのです。嵐の中にも、谷間にも、見えない背後に主の御手があることを信じる者でありたいのです。

さあ、あなたの心の部屋を整えてください。そこに、主が入ってこられます。「ここでわたしと共に食卓を囲もう」と、静かに語りかけてくださるのです。主が求めておられるのは、飾られた儀式ではありません。静まりの中の交わりです。あなたと共にパンを裂き、語らい、心を一つにする、あの食卓の交わりです。

最後にもう一度お聞きします。

主がこう尋ねておられます――

「わたしと一緒に過越の食事をする部屋はどこか?」

今日、この問いにどう応答されるでしょうか? 今こそ、心の戸を開いて、「どうぞ、お入りください」と言える者でありたいのです。

主は来られます。招いておられます。

備えられた場所を、今、あなたの心の中に築き上げましょう。

 

【第二部】裏切りと告白の中で――真実に向けられた問いかけ

今、私たちは聖なる場所に立っています。心の耳を澄まし、御言葉に耳を傾けましょう。主イエスが過越の食卓に着かれた夜、その静かなひとときの中に、激しい霊の戦いが渦巻いていました。そう、これはただの食事ではありません。ただの儀式ではありません。これは、十字架へと向かわれる主が、その最後の晩、弟子たちに、そして私たちに語られた、深い愛と真実への問いかけなのです。

マルコによる福音書14章17節――「夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。」

その部屋は、備えられていました。場所も、時間も、状況も、すべてが神のご計画の中で整えられていたのです。弟子たちは招かれ、主のもとに集まりました。けれど、皆さん、その席には、ただの親しい交わりだけでなく、重大な霊的な緊張が潜んでいました。

そして、イエスは語られます。

「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(14:18)

なんという言葉でしょうか。これを聞いた弟子たちの心がどれほど打ち震えたか、想像に難くありません。「まさか、わたしでは……?」と、彼らは代わる代わる問います。なぜなら、誰もが心のどこかで、自分の弱さを知っていたからです。兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じです。自分のうちに裏切りの種がないなどと、誰が言い切れるでしょうか?

この問い――「まさか、わたしのことでは……?」――これは2000年前の弟子たちだけの問いではありません。これは、今を生きる私たち一人ひとりに突き刺さる問いなのです。

イエスはこう続けられます。

「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。」(14:20)

食卓を共にする――それは、当時のユダヤ社会では深い絆と信頼を象徴するものでした。その最も親しい交わりの中で、裏切りは起こるのです。皆さん、時として、最大の裏切りは、最も近くにいた者によってなされます。

イエスはさらに語られました。

「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(14:21)

ここには、神の救いのご計画が描かれています。主の十字架は、偶然の出来事ではありません。それは、預言者たちが語ってきた通りの、神の御心の道なのです。しかし同時に、ユダの責任も消えることはありませんでした。神の計画の中に、人間の選びが絡み合っているのです。

私たちがこの御言葉を読むとき、簡単に「ユダは裏切った」と切り捨てることはできません。なぜなら、その問いは私たち自身にも突きつけられているからです。

「あなたは、わたしと共に食卓に着いているのに、わたしを裏切ってはいないか?」

あなたの信仰は、言葉だけのものになってはいませんか? あなたの信仰生活は、他人の目には立派に見えても、実は心の奥底では主の御言葉から離れていないでしょうか? 妥協、偽り、自己中心――それらは、静かに、しかし確実に、私たちの心を蝕んでいきます。

けれど、ここに福音の希望があります!

なぜなら、裏切りの夜にあっても、主は弟子たちを見捨てられなかったからです。主は、彼らが弱さのゆえに逃げ出すことを知っておられました。ペトロが三度主を否むことも、すべてご存じでした。しかし、それでもイエスは彼らを食卓に招き、パンを裂き、杯を分け与えられたのです。

主の愛は、裏切りを越えてなお、弟子たちを包みました。

主のまなざしは、私たちの不完全さの中にも希望を見出します。

だからこそ、私たちは問われるのです――

「悔い改めて戻るのか、それとも沈黙のまま離れていくのか?」

ユダの悲劇は、裏切ったことだけではありません。彼が悔い改めず、主のもとに戻らなかったことにあります。一方、ペトロは悔い、涙し、そして復活の主に出会い、新たに立ち上がりました。

今、この時代に生きる私たちにも、主の問いかけは響いています。

あなたの信仰は、主との生きた交わりに根ざしているか?

それとも、形式と習慣の中に埋もれていないか?

あなたは、主の前に悔い改めて立ち返る用意ができているか?

主の愛は今も変わらず、あなたに向けられています。

主は、あなたの弱さを知り、罪を知っていながらも、なお招いてくださるのです。

食卓に着く者よ、今こそ目を覚ましなさい。

主は、真実をもってあなたに語っておられます。

だから、どうか逃げないでください。隠れないでください。

主の問いに、真っすぐ応答する者でありましょう。

そして、十字架の赦しのもとに帰りましょう。

あの晩餐の席に共にいた者のように、恐れを抱えながらでも――主に立ち返る者になりましょう。

そうすれば、主はあなたをもう一度立たせてくださいます。

あなたの人生を、主の証しの器として新しくされるのです。

 

【第三部】裂かれた体と流された血――新しい契約の中に生きる

私たちは主の食卓にともに着こうとしています。この聖なるひととき、あなたは何を心に抱いておられますか? あなたのうちに痛みがありますか? 悔いがありますか? それとも、赦されたいという願いでしょうか?

どれであっても、恐れる必要はありません。なぜなら、今あなたの前にいるお方は、裏切りを知りながらも招いてくださる救い主――イエス・キリストだからです!

私たちはすでに、主が整えてくださった場所で弟子たちと共に食卓に着き、裏切りの予告が語られた場面に心を向けてまいりました。そこには痛みがあり、疑いがあり、恐れがありました。しかし、そのただ中でこそ、主はご自身の愛を、赦しを、そして新しい契約を示されたのです。

マルコによる福音書14章22節を開きましょう。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』」

これはただの儀式ではありません。これは、救いの実体です!

イエス・キリストはパンを取り、それを裂かれました――そう、それはただのパンではなかった。これは、これから十字架で裂かれるご自身の体なのです。

「取りなさい。これはわたしの体である。」

どれほどの愛が、どれほどの痛みが、この言葉の中に込められているでしょうか?

イエスは、裏切る者のために、信じきれない者のために、そして逃げる者のために――そう、私たちすべてのために、その体を惜しみなく与えてくださいました。

そして続く御言葉に、私たちの魂が震えます。

「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(14:23–24)

この「契約の血」――これは単なる象徴ではありません。これは、神の永遠のご計画の中で、罪に堕ちた私たち人間を赦しへと招く、神の真実な約束の血です!

旧約の時代、モーセは契約の血をもって、神と民の間の誓いを結びました(出エジプト記24:8)。そのときモーセは、「これは主があなたたちと結ばれた契約の血である」と叫びました。しかし今、この約束は、イエス・キリストの血によって、完全に、永遠に、全人類のために成就したのです!

律法では救えません。人間の努力では届きません。宗教的な行為や功績では、誰も義とされないのです。ただ、この「契約の血」――ただキリストの流された血によってのみ、私たちは赦され、生かされ、回復されるのです!

皆さん、ここで私たちは一つの招詞に目を向けましょう。マルコによる福音書14章26節に、こう記されています。

「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」

なんと不思議なことでしょうか。主イエスがご自身の死を語られた直後、弟子たちは「賛美の歌」をうたって、食卓を後にしたのです。裏切りが語られ、血が流されると宣言されたその夜に、賛美があったのです!

なぜでしょうか? それは、希望があったからです。

絶望のただ中に、愛が、赦しが、約束が、そして未来が――イエスの中にあったからです!

このときに歌われたのは、過越の祭りで伝統的に歌われる「ハレルの詩編」――詩編113篇から118篇。中でも、詩編118:1にはこうあります。

「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、その慈しみはとこしえに。」

主イエスはこの賛美を歌いながら、ゲツセマネへと歩まれました。そこに待っていたのは苦悶の祈りと、裏切りと、逮捕と、十字架。しかし彼は賛美をもって、その道を歩まれたのです。なぜなら、あなたを救うために。

ですから、聖餐のパンと杯を受けるとき、私たちはただ記念しているのではありません。私たちは主の死を告げ知らせているのです。そして同時に、主の命に与る者として、いまここに、キリストが共に生きておられることを宣言しているのです!

この聖なる食卓には、呼びかけがあります。

「取りなさい。」

「飲みなさい。」

「これは、あなたのための体であり、血である。」

主がそう言われるとき、あなたは何と応答するでしょうか?

「そんな資格はありません」とうつむく者よ、主はあなたのためにこの杯を備えられたのです。

「もう赦されない」と思う者よ、主の血は今もあなたの罪を洗い流します。

「道に迷った」と嘆く者よ、主の体はあなたをもう一度歩かせるために裂かれたのです!

だから、立ち上がりましょう!

主の食卓に招かれた者として、赦された者として、愛された者として、いま一歩踏み出しましょう!

この新しい契約の中に生きるとは、ただ神に赦されたことを喜ぶだけではありません。

それは、他の人々に赦しをもたらす者として、派遣されていくことです。

あなたの家庭で、職場で、教会で、社会で――主の血の力を証しする者として生きることなのです。

そして忘れてはなりません。

この契約は、「多くの人のために」流された血によって成り立っているのです。

その「多くの人」の中に――あなたが含まれているのです!

だからこそ、どんな道を歩んでも、こう信じてよいのです。

――主が共におられる、と!

【お祈り】

イエス・キリストの父なる神よ、

今、私たちは主イエス・キリストが裂かれた体と流された血によって結ばれた新しい契約の前に、心からひれ伏します。

この大いなる愛に、どうして私たちが沈黙していられるでしょうか?

この深い恵みに、どうして私たちが無関心でいられるでしょうか?

主よ、あなたは裏切られることを知っておられました。

それでも、あなたはその夜、パンを取り、それを裂き、弟子たちに与えられました。

あなたは、その血を流すことを知っておられました。

それでも、杯を取り、「これはわたしの血、契約の血である」と語られました。

その犠牲、その憐れみ、その招きを、私たちは今、受け取ります。

どうか、私たちの心を新たにしてください。

自分の正しさに頼る心を砕いてください。

隠された罪を光のもとにさらしてください。

悔い改めの霊を私たちに与えてください。

主よ、あなたの血は、罪びとを贖うために流されました。

その血は、今も力があり、赦しを与え、癒しをもたらします。

私たちはその血にすがります――ただ、それだけに望みを置きます!

どうか私たちを、契約の民として強めてください。

この荒野のような世界の中で、賛美の歌をもって出ていく者とさせてください。

私たちが裂かれたパンのように、誰かの飢えを満たす者となれますように。

流された血の証しとして、赦しと和解の道を指し示す者となれますように。

主よ、私たちはあなたと共に歩みたいと願っています。

あなたの御手に自らを明け渡し、あなたの十字架のもとに立ち返ります。

このすべての祈りを、

私たちの主、救い主、イエス・キリストの御名によって、心からおささげいたします。

アーメン。

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